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萩本欽一

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萩本欽一は、日本の野球クラブチーム「茨城ゴールデンゴールズ」創立者で、コメディアン、テレビ司会者である。また、作家、演出家としても活動する。東京府東京市下谷区稲荷町(現:東京都台東区東上野3丁目)出身の埼玉県浦和市(現:さいたま市浦和地区)育ち。芸能界では「欽ちゃん」の愛称で呼ばれる。'

日常会話におけるアドリブっていうのは、「アドリブ=即効的に出る言葉」と考えれば、それほど難しくない。
(コメディアンは)「それを言っちゃ駄目」っていう言葉を、パッと他の言葉に置き換えられるようになって一人前。その次に、(ユーモアの)カーブのしなり方を自由自在に変えられるようになれば名人。
「笑い」と「ユーモア」は違う。「笑い」っていうのは「声を出して」笑うこと。(中略)一方、「ユーモア」は辞書を引くと「上品な笑い」と書いてある。声を出すまでいかないんだけど、こう空気がフッと軽くなる、顔がフッと崩れてしまうっていう、そのぐらいが「ユーモア」。
正解はこれしかないと決めつけるから辛くなる。これが幸せだと決めつけるから、そこにたどり着けない人が苦しむことになる。
おいしい店をなんとか見つけて食おうというのは、生活に余裕がない。一回の飯に一番最高のものを食べようというのは。(逆に)僕は一番つまんないもの食っちゃう。「ざまあ見ろ、このやろう、いないだろうこんなのは」。そういうことでワクワクしてるほうが、美味しいものを食べるよりずっと楽しいね。
ボクはお葬式に行っても、(遺族に)何も言わない。ご主人を亡くした奥さんのほうを見て、頑張ってね、っていうふうに、首を振って合図を送って帰ってくる。(中略)会話をするよりも、表情や動作で、そっと合図を送るほうが、気持ちが伝わる。
突っ込みっていうのは、相手の弱点や欠点をつくってこと。要するに、イジメなの。会話の中におけるイジメ。でも、突っ込まれた人にボケる術があれば、「イジメてる、イジメられてる」ってことにはならない。ケンカにもならない。それどころか、笑いが生まれる。ボケるって、とても大切なことなの。なくてはならないものなの。
「笑い」っていうのは「声を出して」笑うこと。たとえば、フンと鼻で笑っても、それは「笑い」じゃない。一人で大声は出さないでしょ。だから、「笑い」っていうのは、ある(程度)人数が集まったときに発生するものなんだよね。人がたくさんいると、安心して声を出して笑える。(中略)これに対して、「ユーモア」というと、本来、人数が少ない中でこそ活きてくるもの。
投げかけられた質問に答えを出していく作業が、自分はどういう人間なのか、自分を突き詰めて、わかっていく過程でもある。
素人がお笑いをやると、なんだか少しおバカちゃん風になっちゃう。
会話の中で突っ込みを入れるときに、一番いけないのは、なじみのないヤツに突っ込むこと。まだなじんでないヤツに突っ込まれるのって、腹が立つからね。
(選手たちを前にして)「がんばれよ」と、僕は言いたかった。でも、この言葉は全員の前で言う言葉ではない。たった一人のために言う言葉だと僕は思う。
(仮装大賞のような場でユーモアで評価されるにはどうしたらいいか?)見てる人がおもしろいと感じるのはね、短く、とにかく短く。一番短い形でおかしさが伝わることを考えればいい。
(結婚式は)おめでたい席だから、何かちゃんとしたあいさつをしないといけないってみんな思ってるけど、そうじゃない。その式が盛り上がるというのがいちばんなの。
好きなほうじゃない。
入社1週間の新入社員(中略)だったら「すみません」しかないかもしれないけど、そうじゃないなら、「すみません」は使っちゃダメ。「すみません」じゃない言葉で踏ん張って会話を成立させたほうが、気持ちいい。
何でもハッキリ言うことばかりが良しとされる。それが心を追い詰めていく気がする。
今ある世の中のきちんとしたシステムに、少しアドリブが加わると、ユーモアが出てくる。だけども、きちんと作らなきゃという意識が、冗談を許さなくしちゃったんだね。
監督の仕事として大事なのは、「運の采配」だ。
お金の貸し借りで気持ちよくなるのって、簡単なことではないけど、どうやってもできないことではないのよ。
「ツッコミ」の眼。一つ、「ボケ」の小さなしくじりを見逃さない眼。二つ、「ボケ」の「安心」を、「心配と不安」にさせる眼。三つ、「ボケ」ができない時には、いつでも自分でやる体勢におく眼。四つ、「ボケ」の力に応じて、次のネタに移るか、どうするかを決める心の眼。
(人を慰めるときは)自分の気持ちを少し遠回しに伝えることで、相手が立ち直りやすくなれば……、っていうくらいが、ちょうどいいの。(慰めとは)違う言葉や逆の言葉には、慰めの言葉よりも思いやりがある。
今の世の中、まず母親がもうひどい語尾下げで話してるじゃない?それで世の中じゅう、みんな真っ暗にしちゃってる。
ボクが好きなのは、お金があっても、基本的にお金はないものとして、こまめに電気を消しまくるような生活。で、貯めたお金を無駄に使う。
人間の会話って、互いにどんどん相手の(語尾の)音程に同調していくの。だから、子どもを叱るときは、語尾を高くしないと。
素人は(ネタを)どんどん長くしてしまう。だけど、長くやればやるほど損になる。長いとなぜいけないかというと、やることがたくさん出てくるから。それと、素人は間が使えない。
(イヤな言葉を受け流されると、言ったほうは)間違いなく、"しまった、言いすぎたぞ"と思ってる。そうすると、この人は、“オレはね、本当はこういうことを言うような人間じゃないんだ”ってことを見せようとしてくるの。
学校でも職場でも、まずは居心地のいい環境をつくらないと、なんにもできない。
勇気の感じられる言葉には、人の心と運をつかむ力がある。
幸せとは形じゃない。幸せとは気分だと思っている。
今、目に見えているものをそのまましゃべることができれば、日常会話におけるアドリブとしては、合格点。
睡眠不足は不運を招く。と、自分の中では決めている。
運は正面から来ない。
互いに肝心なところは聞かないし言わない。だから傷つくことがない。そんな曖昧さがあればこそ、人は追い詰められずにすむのではないだろうか。そしてそれが、日本人が築いてきた素敵な文化だと思う。
やっぱり人生、物語なんだよね。だから自分で脚本を書いて、ドラマチックに生きた方がいい。そうすれば、ちゃんとドラマは完結するから。
20代の現実は厳しい。夢が遠くに見えて、だから、段々とつらくなる。
大きな声を出すと、体が自然についてくる。どう動くかを考えなくても、でかい声を出すと、動きがついてくる。
(スピード違反でつかまった時、言い訳で)上手いこと切り返したら見逃してくれるというなら、みんないっぺんにユーモアを学び出すだろうなあ。(中略)その答えのレベルによって罰金が違うとかさ。
僕はね、「忠臣蔵」が嫌いなの。一年もかけてあんなに陰湿に考えて、考え抜いて、最後に(仇も味方も)殺して大団円っていうのが、どうしても嫌なの。(中略)あれは仇の首を切って、しかも大石内蔵助に惚れて従ってきた四十七人の侍まで殺しちゃった話なんだよ。なんであれが優れた作品か、僕にはわからない。
国家のためにとか、何かのためにという大義があるところには、ユーモアって生まれにくい。
夢を抱くのはやめときな。抱くなら目標。目標ならいつでも捨てられるから。でも夢は捨てられないだろう?
振り返ってみると、ずっと苦手なところ、自分の短所だと思っているところから、運が開けてきたんだよ。
人間のキャラクターって、長所が伸びたところではない。短所が伸びたところがキャラクター。だから、短所が長所になったときに運が来る。
「知らない」「わからない」と言うと、会話が終わってしまう。「知らない」「わからない」を禁句にして、とりあえず知ってることを話そうとすれば、なんでもないような会話がどんどん膨らんで、楽しくなる。
職場でも、いきなり、いい印象を与えようとして、言葉でかますと、イヤな野郎ってことになるよ。最初はまじめに。まじめに「おはようございます」って言い続ける時間が大切なの。フリは静かにまっすぐと、なの。まじめで波を起こさない「おはようございます」の繰り返しの時間がフリなのね。
ボクはいつも気持ちのいい会話で結末を迎えたいと思ってるから、どうやってもいい結末が迎えられそうにもないときは、早めに話をやめちゃうの。いい結末を迎えられそうなほかの話に時間をかけたほうが、いいじゃない。平行線に時間をかけるなんて、もったいないよ。
許すなら怒(おこ)る、怒るなら許す。
人生も勝負事も一人勝ちって無いもんなのよ。
ボクは、(その人の嫌いな部分は)15%なんだぞ、ってことをちゃんと思うようにしてるの。そこを間違うと、自分自身がつらくなる。巨大化したその人のイヤな部分とキッチリ向き合うことになるわけだから。15%のままにしておけば、それほどつらくない。「好きなほうじゃない」ですむの。
幸せに正解なんかあるはずがない。みんながそれぞれに、幸せのアドリブを演じていけばいい。そしてそれを互いに認め合えばいい。
どんなに上手に慰めの言葉をかけたところで、その言葉の力で、相手が急に立ち直ることなんてないの。自分の言葉で立ち直らせてやろう、なんていうのは、思い上がりに近い。
ボクは、いいオチがつきそうにもない話題や家はすぐ変えちゃう。
(職場で)みんなが「あの人、いい人ね」って言って近づいていくような人と付き合ったって、みんな寄ってくるから、面倒なんて見てくれないよ。若いときには、煙たくて恐くて嫌われてるような人に(仕事を)教わるのがいいんだよ。
いじめられることでその人の運をもらってるんですよ。だから、いじめられたら「ラッキー」ぐらいに考えなきゃだめ。
(怒られて)キレるほうも悪いけど、キレさすような言い方をしてるほうも悪い。どっちかと言えば、キレさせてるほうが悪い。怒るときの言葉は重ねちゃダメなの。
朝刊に出ていたニュースは“ちょっと古い今”だから、(雑談のネタとしては)ハズれるかもしれないけど、“今”っていうのは、間違いなく共通の話題だから、ハズレがない。
(ユーモアではなく)笑いにするには動きを入れる。しゃべりにちょっと動きを入れる。たくさんの人の前に立つと、しゃべりだけだと笑わないんですよ。それでちょっと動きを入れる。そうすると大きな笑いになっていくわけです。つまりね、「笑い」はやっぱり芸がないと笑えない。動きも入れなきゃなんないから、実は難しいんだよね。
「ツッコミ」をまともに受けてしまって、「ボケ」にまわらないから暗くなるんです。「ツッコミ」を、暗くならずに明るくかわせば、「笑い」になる。
全国的な傾向として、形(=絵となるシーン)がないのに「好き」とか「愛してる」とか、とっておきの言葉を使いすぎてる気がする。
言ってることが正しくても、言い方が正しくなければ、その日本語は正しくないし、相手を気持ち悪くさせる。
人生は運動会でしょ。一番になる人は、一番辛い思いをした人なの。チャップリンさんの人生は、悲惨。僕のは、ただの苦労なの。その分だけ、追いつけないの。
芸っていうのは、いきなりおかしいことをしようとしても駄目だ。まず普通を覚えろ。
「子どもをユーモアでしつけたいけど、どうしたらいいんでしょう?」そんな質問を受けることがある。基本的にユーモアって、言葉の常識を身につけた大人どうしが、顔を見合わせてふっと笑い合うようなもの。ユーモアがちゃんとわかるようになるのは、大学生ぐらいから。だから、子育てでは、子どもにユーモアは無理という前提で、「笑い」でいこう。動きを付けて「笑い」をやるの。
ボケというのは、芸として成り立つまで10年かかる。どうしてそんなにかかるかっていうと、わざとらしくならないように間違えるのに、そして間違える理由まで演じられるようになるのに、10年くらいはかかる。
「笑い」は相手がいて、初めて生まれるんだよ。相手を信用しないと笑えないよ 。
「正論」が、危険なパンチになることがよくあるよね。これは、言い方が正しくないってこと。
「オレらの言うことに耳を傾けてくれる大人なんていない」「オレらと本気で意見を言い合える度量のある上司はいない」そう言ってる若いヤツは、おそらく、いい大人や上司を探す言葉を持ってない。だから、探せない。探せないから、そんな大人はいないと決めつけるしかなくなる。
ひとつのことで一番上になれば、ほかのことはどうでもいい。余計なところでは一番にならないほうがいい。余計なところで一番になると、肝心なところで一番になれなくなっちゃうぞ。
「忠臣蔵」みたいなのが美しいっていうなら、ユーモアなんか日本人に必要ないじゃない。互いに仇を取りっこするような、せちがらい世の中になるのも無理ないと思うよ。
最初にいい言葉でスタートしないと、(物事は)なかなか成功しないんだよ。
ユーモアがわからない人と対面する時にはね、まず自分に余裕を持たせることが先決。少なくとも、自分に対するユーモアを忘れたら駄目。
会話をするうえで「すみません」(※謝罪の言葉)は最悪の言葉なんだよね。今すぐに会話を終わらせたいってことだからさ。遅刻したときでも、仕事でミスしたときでも、「すみません」っていうのは、すぐに会話を打ち切って、少しでも早くこの場を立ち去りたいという意思表示だもん。
(人生という物語に)味を付けるのが、ちょっとした遊び心、ユーモア。このユーモアがわからない相手が関わってくると、とたんに物語がつまらなくなる。
怒られたときは、実は(こちらを)好きにさせるチャンスだ。
たとえ(その人のことを)イヤでも、それで、その人のことを嫌いにはならない。「嫌い」じゃなくて「好きじゃない」。いや、「好きじゃない」でもまだ危ないから、「好きなほうじゃない」ってくらいで、とどめておく。
(若者は)大人をそんなに見くびらないほうがいい。見くびられてる大人のほうにも原因はあると思うけど、自分が立派すぎるぶんだけ、大人を見くびってる若いヤツのほうが悪い。
スターほど、「できない」と「駄目」が多すぎて、みんな自分(自身)の短所をよく知ってる。でも、もう駄目なんだからって半分ぐらいはあきらめて、そこのところは無理しないで、さりげなく出していく。駄目なところがあっても、逆にそれをいいって言われる。それがスターなんだよ。
家庭のなかでも、温度のある言葉のやり取りをしてほしい。
初もうでには行ったことがないの。(中略)人がごった返してるところで神様に手を合わせても、目をつけてもらえないだろうから。
お金に余裕がなくなると、言葉で遊べなくなる。そうすると、言葉がせこくなる。せこい言葉で会話するのは、つらい。言葉で遊ぶためには、ある程度のお金が必要。
子どもを叱るときは、まず語尾を上げるって覚えておくといいよ。普通、人間って怒ってるときにはね、「こら、なにしてるの(↓)」って、語尾を下げるんですよ。そこで、「こら、なにしてるの(↑)」って語尾を上げてごらん。ね、許してるでしょ。だから、語尾を上げるだけで、「許す」というメッセージを送ってることになるの。
当たり前のことをしてたら、運は来ない。
心のこもった言葉を、たった一人の人に向かって言う。そこに思いやりや温かな空気が生まれる。
なんでユーモアが(世間で)こんなにないがしろにされるようになったかっていうとね、そこに経済が働かないから。笑い、ってね、(芸能界以外では)金額につながらないんだよ、笑わしたから得だとか、現金が入ってくるということがない。
(質問を投げかけられて答えが)わかんないっていうことは、つまり(そのことについて)考えたことがないのね。(中略)でもね、ひとつひとつ自分に答えを持ってるっていうことは大切なんだよ。
答えを探すというのが修行。教科書が無いから自分の教科書を作るんです。
夢は、目標の先にある。
友達が集まって話をしてるとき、どういう話題がその場を一番盛り上げるかといえば、自慢話でも成功話でもなく、失敗話。
突っ込まれることを苦にする人っていうのが、ものすごく増えてる感じがする。これって、相当マズいよね。(中略)突っ込まれた人にボケる術があれば、「イジメてる、イジメられてる」ってことにはならない。ケンカにもならない。それどころか、笑いが生まれる。ボケるって、とても大切なことなの。なくてはならないものなの。それなのに、弾のよけ方を知らない人が多すぎる。特に若い子は、よけ方がヘタクソ。
夢には一直線に向かうな。回り道が大事なんだ。
最初からぶちかますと、イヤな野郎だってことになるのよ。舞台でも、最初からおかしいところを見せるために「かまし」をやると、もうダメ。もう、誰も笑わなくなる。
「日本人にはユーモアがない」よくそんなふうに言われるよね。それはどうしてかと言うと、ひとつは、日本人って表情が悪いの。あとね、日本語自体の性質にもよると思う。日本語ってね、オチが先に来てる言葉なんだよ。だから、文法上、ユーモアのできない国民になっちゃうの。
お金をドーンとなくすと、その分、運が来そうだから、楽しみが増える。
新しいことをすると必ず失敗する。それがいいんです。
運は正面から来ない。必ず後ろから来る。
失敗したときに、「オレだけが悪いわけじゃない……」って言いたくなるような状況では、成功は生まれにくい。責任を取る人間がハッキリとしてる場合は、そいつの必死さが成功に導いてくれることが多い。
寝たほうがいい。寝てないと、不運がやってくる。交通事故だって、睡眠不足のときに起きやすい。事故じゃないにしても、寝てないと、不幸なことが起きやすい。
真剣に教えるからこそ、教えるときも怒る。
ボクにだって、人の好き嫌いがまったくないわけじゃない。見た目でイヤな人、しゃべっててイヤな人、つきあっててイヤな人……。特に、欲が見える人、自分が得をしようっていうのが見えてる人はイヤだな、と感じる。