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ヘルマン・ヘッセ

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ヘルマン・カール・ヘッセは、20世紀前半のドイツ文学を代表する文学者であり、1946年にノーベル文学賞を受賞した。1877年にドイツ南部ヴュルテンベルク王国のカルフで生まれ、父親はスイス・バーゼルの宣教師で、インド生まれの母親となる。彼の作品は穏やかな人間の生き方を描いたものであり、詩文集は自身の水彩画を添えていた。

僕たちは喋りすぎる。賢そうな議論をいくらしたって何の値打ちもない。まったく無価値だ。自分自身から離れるばかりだ。
(苦難から)逃げてはいけない。文句を言ってはいけない。恐れてもいけない。それを愛しなさい。苦難の本質を味わいなさい。全力で取り組みなさい。嫌がってはいけません。苦しいのは逃げているからです。それ以外ではありません。
新しい秩序へと変わってゆく前に、混乱はきちんと認識され、体験されることが必要である。
孤独の宗教、それはまだ本物ではない。宗教は共通のものにならねばならない。宗教は礼拝と陶酔、祝祭と秘宝を持たねばならない。
年をとっているということは、若いことと同じように美しく神聖な使命である。
きびしい試練に耐え、かじに従って方向をきめ、新しい航海にのぼって、人生の冠を得るために戦い、迷うことが、私の運命だったろう。
真の教養に行く道の一つは、世界文学を学ぶこと。
人生を明るいと思うときも、暗いと思うときも、私は決して人生を罵るまい。
鳥は卵からむりやり出ようとする。卵は世界である。生まれ出ようとする者は一つの世界を破壊しなければならない。
彼は、恋をすることによって同時に自分自身を見いだしたのであった。しかし、大抵の人々は、恋をすることで自分自身を失ってしまうのである。
まさか君だって、真っ直ぐ立って歩くし、9ヶ月で生まれるからというだけの理由で、そこいらを走り回っている2本足全部を人間だなどと言うつもりはないだろう?
僕は、僕の内部からひとりでに出てこようとするものだけを、生きてみようとしたにすぎない。それがなぜ、あれほど難しかったのだろうか。
孤独は独立だ。私はそれを望み、長い年月をかけて獲得した。それは冷たかった。しかしまた静かであった。星のめぐる冷たい静かな空間のように、驚くほど静かで偉大だった。
過ちも失敗も多かった。だが、後悔する余地はない。
人生の汚辱に対抗する最善の武器は、勇気とわがままと忍耐です。勇気は強くし、わがままは冗談を言わせ、忍耐は落ちつきを与えます。
私は友情と女性の愛と青春を信じてきた。いまはそれがつぎつぎと私を見捨てた。
いちばん強くふしぎに思ったのは、死にさからいながら、自分が小さくみじめで脅やかされていることを自覚しているにもかかわらず、死にたいする最後の自暴自棄の戦いにおいて生命のあの美しい恐ろしい力と粘り強さを自分の内に感じたことであった。
地上には多くの道がある。けれど、最後の一歩は自分一人で歩かねばならない。
人は成熟するにつれて若くなる。
各人にそれぞれの一つの役目が存在するが、だれにとっても、自分で選んだり書き改めたり任意に管理してよいような役目は存在しない。
野の花は、そぞろ歩きながら絵画的な快感をもって緑の大地の中の色彩の島としてそれをながめる場合には、ひざをつき、からだをかがめて一本一本それを見て、いちばん美しいものをさがして摘む場合とは、まったくちがって見えるものである。
木は神聖なものである。木と話し、木に耳を傾けることを知る者は、真理を知る。木は教義も処方も説かない。木は個々のことにとらわれず、生の根本法則を説く。
宇宙の精神はわれわれをとらえようとも狭めようともせず、われわれを一段一段高め広めようとする。
およそ事の初めには不思議な力が宿っている。それがわれわれを守り、生きるよすがとなる。
苦難はそれを恐れているとつらいものだ。そして、それに不満ばかり言っていると苦しくなる。そこから逃げようとすると、追いかけてくる。
目的のない生活は味気なく、目的のある生活はわずらいだ。
私の散文作品はみな魂の伝記であって、その中では、事件やもつれやスリルは問題ではない。私の作品は根本において独白だ。
運命は、どこかよそからやってくるものではなく、自分の心の中で成長するものである。
昇進は自由への一歩ではなく、束縛への一歩である。職権の力が大きくなればなるほど、奉仕はいよいよ厳しくなる。
救いの道は右にも左にも通じていない。それは自分自身の心に通じる道である。そこにのみ神があり、そこにのみ平和がある。
偶然にもてあそばれるわれわれ人間の中には親切と理性とが存在するのである。私たちは、たとえ短い間だけであるにせよ、自然や運命より強くありうるのだ。
死はそこにもここにもいる。死はあらゆる道すじに立っている。死は我々が生を諦めると、すぐに我々の中に入ってくる。
あなたは深いところで、とてもよく知っています。たった一つの魔法、たった一つの力、たった一つの救いがあることを。それは「愛すること」だということを。
我々がある人間を憎む場合、我々は彼の姿を借りて、我々の内部にある何者かを憎んでいるのである。自分自身の中にないものなんか、我々を興奮させはしないものだ。
君自身であれ!そうすれば世界は豊かで美しい!
仮借(かしゃく)ない運命もまた最高のもの、究極のものではない。
教養と知識は別物だ。危険だと思われるのは、勉強していくにつれて陥るあの呪われた知識というやつである。どんなものもみな、頭を通らなくては気がすまなくなる。
自分の内にあるもの以外は現実感がない。
永続する夢というものはありません。どんな夢でも新しい夢に取って代わられます。どんな夢でも固執しようとしてはなりません。
花がみなしぼむように、青春が老いに屈するように、一生の各階段も知恵も徳もみな、その時々に花を開くのであって、永続は許されない。
心の中にある絵をしばらくの間逆さまに懸けてみるのはいいことだ。
あなたの苦しみを愛しなさい。それに抵抗しないこと、それから逃げないこと。苦しいのは、あなたが逃げているからです。それだけです。
書物そのものは、君に幸福をもたらすわけではない。ただ書物は、君が君自身の中へ帰るのを助けてくれる。
ソナタの長調から短調への移行、神話あるいは礼拝の変化、古典的芸術上の形式はすべて、真の冥想的観察によれば、世界の秘密の内部へ通じる直接な道にほかならない。
自己の運命を担う勇気を持つ者のみが英雄である。
私が心から愛している美徳が一つだけある。それは「わがまま」だ。
自分自身から離れるのは、罪だ。僕たちは、亀のように自分自身の中にすっぽりもぐりこむことができなくてはならない。
私が人生を諦めて、自分一個の幸不幸などはどうでもよいと悟って以来、少なくとも人生は、私にやさしくしてくれるようになった。
名声のうちで、まだ大きな成功を望みもせず、嫉まれもせず、孤立もしない名声が最も甘美なものである。
本をほとんど読まず、読書が何であるかを知らず、チャイコフスキーとベートーヴェンを区別することが出来ないような女性を、1時間以上愛することは全く不可能だ。
雲は戯れであり、目の慰めである。祝福であり、神のたまものであり、怒りであり、死神の力である。
ほんとうに自分の運命以外のものはなにも欲しない人には、もはや同類というものはなく、まったく孤立していて、周囲に冷たい宇宙を持つだけだ。
我々は人間についてあまりにも知らない。絶望的に知らなすぎる。
人生は一頭の馬である。軽快なたくましい馬である。人間はそれを騎手のように大胆に、しかも慎重に取り扱わなければならない。
先生やパパやどこやらの神様に気に入られるだろうかなどいうことは、問題にしないことだ。そういうことを気にしたら、我が身の破滅を招くだけのことである。
自分の道を進む人は、誰でも英雄です。
少数ながら星に似ている人があります。固定した軌道を進み、どんな風(かぜ)にもとらえられません。自分自身の中に法則と軌道を持っています。
精神は、心理に対して従順である場合にのみ有益かつ高貴である。
君がどんなに遠い夢を見ても、君自身が可能性を信じる限り、それは手の届くところにある。
恋とは、私たちを幸せにするためにあるのではありません。恋は、私達が苦悩と忍従の中で、どれほど強くありえるか、ということを自分に示すためにあるものです。
弱い、不安に満ちた、ひしがれた人間の魂が、運命に打ち勝ち、それを制することができる。
愛は憎しみより高く、理解は怒りより高く、平和は戦争より気高い。
君の中には、君に必要なすべてがある。「太陽」もある。「星」もある。「月」もある。君の求める光は、君自身の内にあるのだ。
弱さや不自由さならともかく、苦しみを捨てようなぞとは思っていません。むしろ僕は、苦しみと喜びは同じ源から来るものであって、同じ力の働きであり、同じ音楽の拍子であるということを感じたいのです。そしてどちらも美しく必要だということを。
死がそこで待っているのが見えるから、立ち止まらないでいよう。我々は死に立ち向かおう。我々は死を追い払おう。
人生が生きるに値するということこそ、すべての芸術の究極の内容であり、慰めである。
名声などというものに、いったい何の価値があるだろうか。本当に内容も価値もある人間たちが、みな有名になって後世に知られているとでも、あなたは思っているのだろうか。
いたることろで生命が待っており、いたるところに未来が花を咲かせている。なのに我々はいつもそれをほとんど見もしないで、その多くを絶えず足で踏みにじっている。我々は、いたるところでつねに殺人を犯しているのである。
われわれは空間をつぎつぎと朗らかに渉破せねばならない。どの場所にも、故郷に対するような執着を持ってはならない。
人間は自分をあまりに重要視しすぎるのです。我々人間は、鳥や蟻(アリ)の生より決して困難なものではなく、むしろもっと楽で素敵なものです。
幸福を追い求めている限り、君はいつまで経っても幸福にはなれない。たとえ最愛のものを手に入れたとしても。
いったい、私たち人間は死をなくすために生きているの? いいえ、私たちは死を恐れ、そしてまた死を愛するために生きているのよ。死ぬってことがあればこそ、わずかばかりの命がほんのひとときのあいだあんなに美しく輝くことがあるのよ。
信仰と懐疑とは互いに相応ずる。それは互いに補(おぎな)い合う。懐疑のないところに真の信仰はない。
忘れてはいけない。偉大な人間になって、なにか立派なことを創造しようと思ったら、多くのことを断念することができなくてはならないということを。
勇気と節操を持っている人達は、他の人から見るといつだって非常に気味の悪いものさ。
人生とは孤独であることだ。誰も他の人を知らない。みんなひとりぼっちだ。自分ひとりで歩かねばならない。
神が我々に絶望を送るのは、我々を殺すためではなく、我々の中に新しい生命を呼び覚ますためである。
日の輝きと暴風雨とは、同じ空の違った表情にすぎない。運命は、甘いものにせよ、苦いものにせよ、好ましい糧として役立てよう。
愛は、哀願して得ることも、金で買うことも、贈り物としてもらうことも、路上で拾うこともできます。けれど、奪い取ることだけはできないのです。
悩みに囚われて(生きる)意味を探し始めるわずかな人々の中にこそ、人類が生存することの意味があるのです。
愛は、私たちを幸福にするためにあるのではなく、私たちが悩みと忍耐においてどれほど強くあり得るかを示すためにある。
霧の中をさすらうことの不思議さよ!生きるということは孤独であるということだ。どんな人も他人を知らず、だれもかれも皆ひとりだ。
学問とは相違を発見することに没頭することにほかならない。学問とは識別の術である。
真理は、その正反対も同じく真理である。言いかえれば、つねに真理は、それが一面的である場合にのみ口に言われ、ことばの衣装に包まれることが出来る。
人生を明るいと思う時も、暗いと思う時も、私は決して人生をののしるまい。
恋愛のことを語るとなると──この点で私は生涯、少年の域を脱しなかった。私にとって女性に対する愛は常に、心をきよめる思慕であった。私の憂愁から真っすぐに燃えあがった炎であり、青い空にさしのばされた祈りの手であった。
僕は彼岸を信じない。彼岸なんてものは存在しない。枯れた木は永久に死に、凍死した鳥は二度とよみがえらない。
殺すのは何も現在あるものばかりとは限らず、未来のものを殺すこともありうる。
地上の現象はすべて一つの比喩である。すべての比喩は、魂が、用意さえできていれば、そこを通って世界の内部へはいることのできる開いた門である。その内部へ行けば、君もぼくも昼も夜も、すべては一体なのである。
新しいものが始まる。古いものに執着している人たちにとっては、新しいものは恐ろしいだろう。君はどうするかい?
詩は音楽にならなかった言葉であり、音楽は言葉にならなかった詩である。
この語(=「幸福 Gluck」)は、短いにもかかわらず、驚くほど重い充実したもの、黄金を思わせるようなものを持っている。
世の中に実に美しいものが沢山あることを思うと、自分は死ねなかった。だから君も、死ぬには美しすぎるものが人生には多々ある、ということを発見するようにしなさい。
一本の美しく強い木ほど神聖で模範的なものはない。
愛されることが幸福なのではない。愛することこそ幸福だ。
雲は親切な天使のように、美しく、豊かで、恵み深いが、死神の使者のように、暗く、のがれがたく、容赦を知らない。
大部分の人たちが行く道は楽だが、僕たちの道は苦しい。――でも、行こうじゃないか。
馬で行くことも、車で行くことも、ふたりで行くことも、三人で行くこともできる。だが、最後の一歩は、自分ひとりで歩かねばならない。
はかなさがなければ、美しいものはない。美と死、歓喜と無常とは、互いに求め合い、制約し合っている。
不安に打ち勝った者は、もはやこの世に生きるのではなく、神の中に、永遠の中に生きているのだ。
本当に、自分をすべてのものから逆らいようもなく、そっとへだてる暗さを知らない者は、賢くはないのだ。