自然を愛するのは、自然がわれわれを憎んだり、嫉妬しないためでもない事はない。
似た顔の人を、どこでも捜すようになったら、あなたの恋はもう引き返せない。
創作は常に冒険である。所詮(しょせん)は人力を尽した後、天命に委(ま)かせるより仕方はない。
人生を幸福にするためには、日常の瑣事(さじ)を愛さなければならぬ。
幸福とは幸福を問題にしないときをいう。
恋愛の兆候の一つは彼女は過去に何人の男を愛したか、あるいはどういう男を愛したかを考え、その架空の何人かに漠然とした嫉妬を感ずることである。
道徳は常に古着である。
(生計を立てる手段を)選んでいれば、築土(ついじ)の下か、道端の土の上で、飢え死にをするばかりである。そうして、この門の上へ持って来て、犬のように捨てられてしまうばかりである。
古来賭博に熱中した厭世主義者のないことは如何(いか)に賭博の人生に酷似しているかを示すものである。
人間は、時として、充たされるか充たされないか、わからない欲望のために、一生を捧げてしまう。その愚をわらう者は、畢竟(ひっきょう)、人生に対する路傍の人に過ぎない。
良心は道徳をつくるかも知れぬ。しかし道徳はいまだかつて良心の「良」の字を創ったことはない。
恋愛の徴候の一つは彼女に似た顔を発見することに極度に鋭敏になることである。
法律の賭博を禁ずるのは賭博による富の分配法そのものを非とする為(ため)ではない。実は唯(ただ)その経済的ディレッタンティズムを非とする為である。
子供に対する母親の愛はもっとも利己心のない愛である。が、利己心のない愛は必ずしも子供の養育に最も適したものではない。
天才の悲劇は「小ぢんまりした、居心地のよい名声」を与えられることである。
人間は自然が与えた能力上の制限を越えることはできぬ。そうかといって怠けていれば、その制限の所在さえ知らずにしまう。だから皆ゲーテになる気で精進することが必要なのだ。
人生の悲劇の第一幕は親子となったことにはじまっている。
民衆の愚を発見するのは必ずしも誇るに足ることではない。が、我々自身も亦(また)民衆であることを発見するのはともかくも誇るに足ることである。
わたしは不幸にも知っている。時には嘘によるほかは語られぬ真実もあることを。
物質的欲望を減ずることは、必ずしも平和をもたらさない。我々は平和を得るためには、精神的欲望も減じなければならない。
道徳の与えたる恩恵は時間と労力との節約である。道徳の与えたる損害は完全なる良心の麻痺である。
好人物は何よりも先に、天上の神に似たものである。第一に、歓喜を語るに良い。第二に、不平を訴えるのに良い。第三に、いてもいなくても良い。
人生の競技場に踏みとどまりたいと思うものは、創痍(そうい)を恐れずに闘わなければならぬ。
あらゆる神の属性中、最も神の為に同情するのは、神には自殺の出来ないことである。
結婚は性欲を調節することには有効である。が、恋愛を調節することには有効ではない。
眠りは死よりも愉快である。少なくとも容易には違いあるまい。
だれでも他人の不幸に同情しない者はいない。ところがその人がその不幸を、どうにかして切り抜けることができると、今度はこっちでなんとなく物たりないような心持がする。もう一度その人を、同じ不幸におとしいれてみたいような気にさえなる。
われわれを恋愛から救うものは理性よりもむしろ多忙である。
自由は山巓(さんてん)の空気に似ている。どちらも弱い者には堪えることができない。
わたしは第三者を愛する為に夫の目を偸(ぬす)んでいる女にはやはり恋愛を感じないことはない。しかし第三者を愛する為に子供を顧みない女には満身の憎悪を感じている。
道徳は便宜(べんぎ)の異名である。「左側通行」と似たものである。
我々はしたいことの出来るものではない。ただ、出来ることをするものである。
あの女のはだは、大ぜいの男を知っているかもしれない。けれども、あの女の心は、おれだけが占有している。そうだ、女の操(みさお)は、体にはない。
最も賢い生活は一時代の習慣を軽蔑しながら、しかもその又(また)習慣を少しも破らないように暮らすことである。
正義は武器に似たものである。武器は金を出しさえすれば、敵にも味方にも買われるであろう。正義も理屈さえつけさえすれば、敵にも味方にも買われるものである。
公衆は醜聞を愛するものである。
女は常に好人物を夫に持ちたがるものではない。しかし男は好人物を常に友だちに持ちたがるものである。
わたしは二三の友だちにはたとい真実を言わないにもせよ、嘘をついたことは一度もなかった。彼等もまた嘘をつかなかったら。
彼等の大小を知らんとするものは彼等の成したことにより、彼等の成さんとしたことを見なければならぬ。
成すことは必ずしも困難ではない。が、欲することは常に困難である。少なくとも成すに足ることを欲するのは。
人生はつねに複雑である。複雑なる人生を簡単にするものは暴力よりほかにあるはずはない。
われわれを支配する道徳は資本主義に毒された封建時代の道徳である。われわれはほとんど損害のほかに、何の恩恵にも浴していない。
古来政治的天才とは民衆の意思を彼自身の意思とするもののように思われていた。が、これは正反対であろう。むしろ政治的天才とは彼自身の意思を民衆の意思とするもののことをいうのである。
もし寸毫(すんごう)の虚偽をも加えず、我々の友人知己に対する我々の本心を吐露するとすれば、古(いにしえ)の管鮑(かんぽう)の交わりといえども破綻を生ぜずにはいなかったであろう。
あらゆる社交はおのずから虚偽を必要とするものである。
偶然即(すなわ)ち神と闘うものは常に神秘的威厳に満ちている。賭博者もまたこの例に洩(も)れない。
人生は落丁の多い書物に似ている。一部を成すとは称し難い。しかし兎に角(とにかく)一部を成している。
輿論(よろん)は常に私刑であり、私刑は又(また)常に娯楽である。たといピストルを持ちうる代わりに新聞の記事を用いたとしても。
わたしは良心を持っていない。わたしの持っているのは神経ばかりである。
古来いかに大勢の親はこういう言葉を繰り返したであろう。「わたしは畢竟ひっきょう)失敗者だった。しかしこの子だけは成功させなければならぬ」
忍従はロマンティックな卑屈である。
死にたければいつでも死ねるからね。ではためしにやって見給え。
人生は一箱のマッチに似ている。重大に扱うのは莫迦莫迦(ばかばか)しい。重大に扱わなければ危険である。
完全に自己を告白することは、何びとにも出来ることではない。同時にまた、自己を告白せずには如何(いか)なる表現も出来るものではない。
恋愛はただ性欲の詩的表現を受けたものである。少なくとも詩的表現を受けない性欲は恋愛と呼ぶに値しない。
恋愛もまた完全に行われるためには何よりも時間を持たねばならぬ。
阿呆(あほう)はいつも彼以外のものを阿呆であると信じている。
我々人間の特色は、神の決して犯さない過失を犯すということである。
懐疑主義者もひとつの信念の上に、疑うことを疑わぬという信念の上に立つものである。
この愛(=利己心のない愛)の子供に与える影響は──少なくとも影響の大半は暴君にするか、弱者にするかである。
他を嘲(あざけ)るものは同時にまた他に嘲られることを恐れるものである。
我々を走らせる軌道は、機関車にはわかっていないように我々自身にもわかっていない。この軌道もおそらくはトンネルや鉄橋に通じていることであろう
健全なる理性は命令している。──「爾(なんじ)、女人(にょにん)を近づくる勿(なか)れ。」しかし健全なる本能は全然反対に命令している。──「爾、女人を避くる勿れ。」
人生は一行のボオドレエルにも若(し)かない。
強者は道徳を蹂躙(じゅうりん)するであろう。弱者はまた道徳に愛撫(あいぶ)されるであろう。道徳の迫害を受けるものは常に強弱の中間者である。
人間的な、余りに人間的なものは大抵は確かに動物的である。
どうせ生きているからには、苦しいのはあたり前だと思え。
女人は我々男子には正(まさ)に人生そのものである。即ち諸悪の根源である。
人生は地獄よりも地獄的である。
天才とは僅(わず)かに我々と一歩を隔てたもののことである。只(ただ)この一歩を理解する為には百里の半ばを九十九里とする超数学を知らなければならぬ。
人生を幸福にするためには、日常の瑣事(さじ)に苦しまなければならぬ。雲の光り、竹のそよぎ、群雀(むらすずめ)の声、行人(こうじん)の顔・・・あらゆる日常の瑣事の中に堕地獄の苦痛を感じなければならぬ。
どうにもならないことを、どうにかするためには、手段を選んでいるいとまはない。
運命は偶然よりも必然である。〈運命は性格の中にある〉という言葉はけっして等閑(なおざり)に生まれたものではない。
我々に武器を執(と)らしめるものは、いつも敵に対する恐怖である。しかもしばしば実在しない架空の敵に対する恐怖である。
恒産のないものに恒心のなかったのは二千年ばかり昔のことである。今日では恒産のあるものは寧(むし)ろ恒心のないものらしい。
良い名は、欲しがっても手に入らない。悪い名は、削っても消えない。
キリストはみずから燃え尽きようとする一本のローソクにそっくりである。
要するに莫迦(ばか)な女は嫌いです。ことに利巧だと心得ている莫迦な女は手がつけられません。
最も賢い処世術は社会的因襲を軽蔑しながら、しかも社会的因襲と矛盾せぬ生活をすることである。
あらゆる情熱は死よりも強いものなのであろう。
古人は神の前に懺悔した。今人は社会の前に懺悔している。