エピクロスのプロフィール画像

エピクロス

@01gr329m72w9sah9yksrqhymqe

エピクロスは古代ギリシャのヘレニズム期の哲学者であり、快楽主義などで知られています。現実の煩わしさから解放された状態を「快」として、人生をその追求のみに費やすことを主張しました。サモス島のアテナイの植民地で紀元前341年に生まれ、紀元前323年18歳でアテナイへ上京しました。

最高の善は快楽、最大の悪は苦痛なり。
「死は恐ろしい、と人は言う。 しかし、死に直面した時我々を悩ますだろうという理由からではなく、やがて来るものとして今我々を悩ましているという理由で、恐ろしいという人は愚かである。 
自然に強制を加えてはならず、むしろ、これに従うべきなり。
飢えないこと、渇かないこと、寒くないこと、これらが肉体の叫びである。これらの叫びを抑えることは、霊魂にとって難しいことである。のみならず、霊魂それ自身が日毎に自己充足を得るようになっているからといって、霊魂に訴える自然の声を無視し去ることは、霊魂にとって、危険なことである。
他人に恐れを抱かせる者は、自分が恐れを抱かずにはいられない。
どんな楽しみも、それ自体は悪ではない。けれども、特定の楽しみについては、それを得るための手段が、楽しみよりもはるかに大きな痛みをもたらす。
自己の持てるものを十分に己にふさわしき富と考えざる者は、世界の主となるとも不幸なり。
生きている限り死んでいないのだから、死は存在しない。死んでいる時は生きていないのだから、死は人間に関係ない。生きている時も、死んでいる時も、死は人間に関係ない。
干渉好きの老人ほど、見苦しいものはない。
正しき人は最も平静なる心境にあるも、不正なる人は極度の混乱に満ち溢れる。
困難が大きいほど、それを克服したときの栄光も大きくなる。熟練した操縦士は、嵐や暴風雨に耐えて名声を得る。
わずかなもので満足できぬ者は、何ものにも満足できぬ。
ゼウスが人間の願いに耳を傾けたなら、すべての者が滅びるだろう。(人間は)人類に有害な多くのものを要求するからである。
法は聖者のために制定さる。もっともそれは、彼らが不正を犯さぬためにあらず、不正をこうむらざるためなり。
最大の富は自足である。自足の最大の果実は、他に頼る必要のないことだ。
我々を救ってくれるもの、それは友人の助けそのものというよりは、友人の助けがあるという確信である。
人が何を食べているかより、誰と食べているかを見ることだ。
人が自分で得られることを神に頼んだところで無駄である。
魂は肉体より分離されるやいなや煙のごとく消え去る。
明日を最も必要としない者が、最も快く明日に立ち向う。
死は存在せず。なんとなれば、我らの存在する限り死の存在はなく、死の存在あるとき、我らは存在することをやめるからなり。
隠れて生きよ。
我々が生きている間は、死は来ない。死が来る時には、我々はもはや生きていない。
心の安らぎを得ている者は、自分自身に対しても他人にも迷惑をかけない。
常に瞬間を享楽せよ。快楽が満たされれば満足だし、もしそれが満たされなければ、楽しみが次の時間まで持ち越してゆく。
もし神が人間の祈りをそのまま聴き届けていたならば、人間はすべて、とっくの昔に亡びていたであろう、というのは、人間はたえず、たがいに、多くのむごいことを神に祈ってきているから。
誘惑が去ってしまわないうちに、急いで誘惑に負けよう。
貧乏にあまんずるは栄誉ある財産なり。
人生の自然な目的によって計るとき、貧しさは大いなる富となり、限度を知らぬ富は大いなる貧しさとなる。
水とパンですましていれば、私は身体の快楽を身にしみて味わう事ができる。
多くの人々は富を獲得するや、もろもろの悪からのがるることをせず、より大なるもろもろの悪へ転向する。
無から有は生じない。
死は我々にとって何ものでもない。なぜなら、我々が存在する時には、死はまだ訪れていないのであり、死が訪れた時には我々は存在しないのだから。
正義のもたらす最大の実りは、心の平静なり。
自殺のためのもっともらしき理屈を持ち合わせる人は、つまらぬ人間なり。
友とともにせざる晩餐(ばんさん)は、ライオンもしくは狼の生活の如(ごと)し。
人はあらゆることに対して身を守ることができる。ところが死に関しては、我々はみな城壁の崩れた城砦(じょうさい)に住んでいるようなものだ。