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グリルパルツァー

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フランツ・グリルパルツァーは、オーストリアの劇詩人。1814年より大蔵省に採用され役人として勤め始めるが、大学時代、母と3人の弟を養うために勉学の傍ら家庭教師をしていた。1817年、ブルク劇場の監督ヨーゼフ・シュライフォーゲルと知り合って彼の指導を受け、処女作品『先祖の女亡霊』を執筆。その後、『サッフォー』(1817年)、『金羊皮』(1818年-1819年)、『主人の忠僕』(1829年)、『海の恋波の恋』(182などの作品を上演した。

有為(ゆうい)の人は、全ての義務のうちに必然を見る。そして彼を縛る第一の義務は、真実である。
謙虚は一つの装飾である。ところが人はこの装飾をしないで外を出歩く。
愛がさめ始めた時ほど猜疑(さいぎ)にかられることはない。その時、人はもはや愛する者を信用しなくなるが、それは自分自身がいかに信じることのできないものであるかを、漠然と感じているからである。
美は、感覚的なものと精神的なものとの完全な一致である。
子供たちに囲まれて人生の最後の時を迎える人を、私は幸福だと思う。
自分の限界を知る者こそ自由な者である。自分を自由だと妄想する者は、その妄想の奴隷である。
この世の幸福とは何だろう?――それは一つの影にすぎない。この世の名声とは何だろう?――それは一つの夢にすぎない。
その息吹に触れるすべてのものを気高くする、これこそ愛の魔力。それはまるで、金色の光で黒い雨雲さえ金(きん)に変える太陽のよう。
現世における幸福はただ一つ。内心の静かな平和と罪に汚れのない胸!偉大であることは危険であり、栄誉は空しい業だ。栄誉が与えるものは空しい影であり、栄誉によって奪われるものは無数である。
全ての誤りには三つの段階がある。第一は、誤りが生まれる段階。第二は、それを誤りと認めようとしない段階。第三は、もはや取り消そうにも取り消せない段階。
生きることが、人生の最高目的であることはもちろんである。
涙は苦痛の聖なる権利だ。
思いつきは思想ではない。思想はその分(ぶん)を知っているが、思いつきは奔放にその垣(かき)を踏み越え、そしていっこうに実行されない。
謙遜は青年を飾る。
お前は子供のようなその手を、運命の車の輻(や)の中に差し入れようというのか?運命の雷のごとき車の動きを止めることは、我々死すべき者にできることではない。
ああ、習慣とはやっかいなもの。いまわしいと思うものにすら身を縛られる。
目で説き伏せられなければ、口で説き伏せられるわけがない。
生きることが、もちろん人生の最高目標である。
私は賢明に思慮をめぐらし、愚かに行動し、一生の日々を送った。
負けいくさも次に勝てば埋め合わせがつく。失敗作も改良できる。しかしいったん否定されると、もはや取り返しのきかないものがある。それは威信である。
愛する者のために悩むのは甘美なこと。
希望と追憶は、本物のばらの木に咲く花のようだ。ただしその茎にとげはない!
手の上なら尊敬のキス。額の上なら友情のキス。頬の上なら厚情のキス。唇の上なら愛情のキス。閉じた目の上なら憧憬のキス。掌(てのひら)の上なら懇願のキス。腕と首なら欲望のキス。さてそのほかは、みな狂気の沙汰。