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五木寛之

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五木寛之は日本の小説家・随筆家である。彼は、福岡県の出身で旧姓は松延(まつのぶ)である。彼にとってこの職業は初めてではない。彼は朝鮮半島から引揚げ、少年期に早稲田大学露文科中退後、作詞家を経てデビューした。『さらばモスクワ愚連隊』でデビューした後、『蒼ざめた馬を見よ』で直木賞を受賞した。主人公の放浪的な生き方(デラシネ)や現代に生きる青年のニヒリズムを描いて、若者を中心に幅広い層にブームを巻き起こした。その後も『青春の門』をはじめベストセラーを多数発表して人気を博した。また1990年代以降は『大河の一滴』など仏教、特に浄土思想に関心を寄せて書いた作品もある。

病気を忘れるとき病気が治る。
楽しいことは長続きする。好きなことは長続きする。気持ちのいいことは長続きする。そうでないことは、どんなに強制されても結局は続かない。
人間は誰でも自分が一番大切なのです。そして、そのことを本当に自覚した人間だけが、自然なかたちで他人を大切に思うことができるのです。
もしプロという言葉があるとしたら、それは技術ではなく、自己犠牲を伴う努力なり研鑽を己の生き甲斐にできるかという、その一点にかかっているんじゃないですか。
二十一世紀は情報社会だけど、情報の情は「情(こころ)」なんです。そう考えれば、現代は“こころ”の時代ということになりますね。
つきつめて行けば、義というのもひっきょう一つの愛の形だ。
音楽はすでにあるけど、彼自身の音楽は誰も用意しちゃくれないんだ。自分でそれを発見する以外に方法はないのさ。
生存していること、この世の中に存在していること、このことで人間は尊敬されなければならないし、すべての人は自分を肯定できる。
喜ぶことも大事だけれども、悲しむことも大事である。希望をもつことも大事だけれど、絶望することも大事である。胸をはることも大事だけれども、また深いため息をつくことも大事である。
流行歌は自らを慰める歌であると思う。慰めることでその場限りの安らぎと連帯感が生まれる。それがその場限りである事は、歌っている当人たちが一番よく知っているのだ。
さびしさをごまかそうとかしてはならない。自分を欺いたりしないで、そのさびしさをまっすぐに見つめ、その自分の心に忠実にしたがえばよい。
人間これという一つに打ち込んだら、驚くほどのことができる。
私たちは死ぬときは、ただひとりで逝く。恋人や、家族や、親友がいたとしても、一緒に死ぬわけではない。人は支えあって生きるものだが、最後は結局ひとりで死ぬのだ。
肉体的な弱点でも、内面的なものでも、それを他人に気づかれまいと苦心するところから人間は醜くなるのです。
私たちは、人間にとって自由になることとならないことがある、ということを受け入れなければなりません。
愛に生きる男がいても一向におかしくないように、義に生きる女がいて悪い理由がない。
大事なことは何か。なにごとによらず、一つずつの行為を十分にあじわいながら、その一瞬を大切に過ごすこと。
あじわう、ということは、どんなささやかなことでも宝石に変えてしまう不思議な体験です。
尊敬する先輩たちの書かれた本は読んでも身につかず、飯を食ったり、雑談として聞かされた話ばかりが記憶に残っている。こういう知識を耳学問といって、何となく馬鹿にする感じがある。しかし、仏教には「面授」という言葉があって、肉声を聞くことは大事にされてきた。
自分だけの独自のスタイルを持つということは、どんな商売にせよ、大事なことさ。
私たちは、よろこびをもって生きたい。それを待っているだけではなく、自分からさがし出すことに慣れなければならない。どんなにつまらないことであってもいい、それをきょう一日の収穫として大事にしたい。
背伸びすることで成長するという面も人間はあるんだよ。
夢見ることは、人間にとって大事なことです。心にも大事だし、体にとっても大事なのではないでしょうか。
ずっとひとつの夢を抱きつづけて努力することは、たしかに奇跡みたいなことをよびおこすんだよなあ。
僕は、持続するということに一つの価値を見出しているんです。愚かしいことでも持続することが大事だと思っている。
音楽は一つの体験だ。予想じゃない。頭の中で新しいコードを考えるだけで、良い演奏家といえるかね?
うんと男っぽい要素を持っている女の人ほど女らしいところがあるもんだね。
自分自身を囃(はや)し自分自身に相づちを上手に打てるようになったとき、私たちは孤独のなかでも明るく、いきいきした表情で暮らすことができるようになるかもしれない。
人生には、野心と同様に断念も重要である。
「よろこび上手」こそ苦しい世に生きていく知恵なのだ。
証明することができない事柄を信用しない人がいる。科学的でない、という理由からだ。しかし、私たちは科学だけで生きているわけではないし、市場原理だけで暮らしているわけでもない。
私は人間たちに、成功した人生、ほどほどの一生、あるいは失敗した駄目な生涯、というふうに、区分けをすることに疑問をもつようになりました。
才の背後には魂が必要だ。
人生の目的の第一歩は、生きること、である。
占いとか、そういうことをちょっぴり気にするという気持ちがある人間のほうが、多少はまだ人間らしさがのこっているような気がするのですが。
一日に一回よろこぼう
私の最大のストレスの一つは、「申し訳ない」という自責の念の重圧である。朝から晩まで、申し訳ないという気持ちを抱えて生きている。
人生の目的は、「自分の人生の目的」をさがすことである。自分ひとりの目的、世界中の誰ともちがう自分だけの「生きる意味」を見出すことである。
登山というのは、登るだけではない。無事に下山するまでが登山なのです。
屈しない心は折れる。よく萎(な)える心は折れない。
人間の値打ちというのはどこにあるのでしょうか。それは、ほかに似た人がいないということです。何をしたから値打ちがあるとか、何かをしないから値打ちがないとかいうことではありません。たったひとりの自分だから値打ちがある、と考えればいい。
よろこぶ、というのも一つの習慣じゃないでしょうか。それに習熟することが必要な気がするのです。
君は試してみるべきだよ。その上で無意味だと思えば、それが真実だ。仮定ばかりの上に自分の思想や、音楽を組みたてようたって無駄だと思うな。
他力本願とは、見えざる手が世の中に存在するのを認めることなんです。ヨットは自分で走っているように見えて、本当は風に走らされている。でも、帆ぐらいは張っていないと、いくら風が吹いても走らない。努力して帆を張ることはやるけれども、風がなければ俺は動けないよと、居直ってもいいんじゃないか。
私たちは、まず自己を肯定するところから出発したほうがいいようです。自己を肯定し、自己を認めてやり、自己をはげまし、よろこばせること。それが必要ではないか。
自分を愛せる人間が他人をも愛せる。
世の中に自分でためして見ないで判る事なんかないぜ。