悲しむことはない。いまの状態で何ができるかを考えて、ベストを尽くすことだ。
人間は、時には自由であったり時には奴隷であったりすることはできないであろう。人間は常に全面的に自由であるか、あるいは常に全面的に自由でないか、そのいずれかである。
実存は本質に先立つ。
年をとったら謙虚にならなくては。
私は暴力に対して一つの武器しか持っていなかった。それは暴力だ。
まず第一に理解しなければならないことは、自分が理解していないということである。
嘘とは、私がつくったものではなく、階級に分かれた社会に生まれたものである。だから、私は生まれながら嘘を相続している。
自由であるとは、自由であるべく呪われていることである。
沈黙が金なのだ。不在が神なのだ。神とは人間の孤独さだ。俺しかいなかったのだ。
我々の自由とは、今日、自由になるために戦う自由な選択以外のなにものでもない。
ひとは各々(おのおの)の道を創り出さなくてはいけない。
インテリというのは真の革命家ではない。暗殺者になるくらいが関の山だ。
もっといい時代はあるかもしれないが、これは我々の時代なのだ。我々はこの革命のただなかに、この生を生きるよりほかはないのである。
私は同時に他人の自由をも目標にするのでなければ、自分の自由を目標にすることはできない。
あなたは、あなたの一生以外の何ものでもない。
神々と肩を並べるには、たった一つのやり方しかない。神々と同じように残酷になることだ。
青春というものは奇妙なものだ。外部は赤く輝いているが、内部では何も感じられないのだ。
人生とは自らの道である。一つのことを試みることであり、一つの道を端的に示すことである。
富める者が自分のために戦争をする時、死ぬのは貧しき者の方なのだ。
日記は自分の内部に起こりつつある事を、はっきり当人に知らせてくれる。
批評家とは、他人の思想について思考する人間である。
火あぶりの拷問具や地獄などは必要としない。他人の存在が地獄なのだ。
我々は決して悪を選ぶことが出来ない。我々が選ぶのは常に善である。
究極の善、究極の悪、究極の価値がなければ、人間のある活動が別の活動よりも本質的に優っていることなどあり得ない。だから、全ての行為が同じ価値しか持っていないということを認めざるを得ない。とするなら、一つの行為を別の行為よりも優先させるのは、我々が自分で独自の選択を行っているからなのである。
すべての答えは出ている。どう生きるかということを除いて。
貨幣は私の力を表す。
人間の死ぬのはいつも早すぎるか遅すぎるかよ。でも一生はちゃんとけりがついてそこにあるのよ。一本、線が引かれたからには総決算しなけりゃ。あんたは、あんたの一生以外の何ものでもないのよ。
人間は状況によってつくられる。
過去とは、所有者の贅沢だ。過去を整頓しておくには一軒の家を持つことが必要だ。
人間は自由であり、常に自分自身の選択によって行動するべきものである。
過ぎ去る時間とは失われた時間であり、怠惰と無気力の時間であり、いくたびも誓いを立てても守らない時間であり、しばしば引越しをし、絶えず金の工面に奔走する時間である。
現代の資本主義社会には生活はない。あるものはただ宿命だけだ。
一人ひとりの人間が、究極の絶対的な自由を持っている。
地獄とは他人のことである。
我々は何をするにも、常に自分自身に問わなければならない。もし皆がそうしたら、どんなことになるだろうと。
人間の運命は人間の手中にある。
私が生まれるということは不条理である。私が死ぬということも不条理である。