我々は恋愛において、その恋愛のなかに運命を見るときに初めて夫たらんと決意する。
願いとさだめとを内面的につなぐものは祈りだよ。祈りは運命をよびさますのだ。運命を創り出すと言ってもいい。
恋と運命と死と、皆どこかに通じた永遠な気持ちがあるような気がする。
生活には懐疑というのが密雲のように幾重にも襲うてくる。若(も)しくはずっと疑って動かない。それを克服することは容易な業ではない。しかしそれがまた求道の課題なのである。懐疑の課題がないなら、真理の探究はできない。
青春は短い。宝石の如(ごと)くにしてそれを惜しめ。
恋愛は、生命が性を通して天的なものに達せんとする生命の営みである。
恋愛は性欲と質を異(こと)にするものではなく、より高き形における性欲である。
百の悪行に悩まされて自分の罪を感じている悪人よりも、小善を積んで己の悪を認めぬ偽善家のほうが仏の愛から洩れている。
愛は欠けたるものの求むる心ではなく、溢(あふ)るるものの包む感情である。人は愛せらるることを求めずして愛すべきである。
(親の)本能的愛が運命に対する知恵によって深められ、隣人の愛とならざる以上は、神に対し、子供に対し、また他人に対して種々のエゴイズムを生むのである。
信じて騙されるのは、誠のものを疑うよりどれ程まさっているだろう。
純な青年時代を過ごさない人は深い老年期を持つ事も出来ないのだ。
恋は二つとない大切な生活材料だ。真面目にこの関所にぶつかれば人間は運命を知る。
愛されたい願いが善い願いであるならば、事実として愛されていなくとも、死まで依然として愛されたいと願うべきである。
この世は無常迅速というてある。その無常の感じは若くてもわかるが、迅速の感じは老年にならぬとわからぬらしい。
ああ、滅びるものは滅びよ。崩れるものは崩れよ。そして運命に壊されぬ確かなものだけ残ってくれ。私はそれをひしとつかんで墓場に行きたいのだ。
恋するとき人間の心は不思議に純になるのだ。人生のかなしみがわかるのだ。地上の運命に触れるのだ。
たとえ遊女でも純粋な恋をすれば、その恋は無垢(むく)な清いものです。世の中には卑しい、汚れた恋をするお嬢さんがいくらあるか知れません。
愛とは他人の運命を自己の興味とすることである。他人の運命を傷つけることを畏れる心である。
若い時には若い心で生きて行くより無いのだ。若さを振りかざして運命に向かうのだよ。
夢見ることを止(や)めたとき、その人の青春は終わる。
生に対する無限の信仰と尊重とを抱いて立つ時、自殺は絶対的の罪悪ではあるまいか。
おゝ平和 もっとも遠い もっとも内の。
理想と現実とは独立したものである。理想と現実が衝突するならば悲しいけれども、そのために理想を捨てて、あるいは理想を低くせねばならぬ理由はない。理想は理想として立てて、ただ悲しむべきである。理想をあきらめてはいけない。
恋をしだすと、へんに死のことが気になりだすものだ。