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ルクレティウス

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ティトゥス・ルクレティウスは、紀元前のローマ共和政期の詩人・哲学者です。彼の知識と哲学は、多くの役を立ったエピクロスの思想を詩の形式で解説した『事物の本性について』(ラテン語: De rerum natura)を著して、唯物論的自然哲学と無神論を説いたことで有名です。ルクレティウスは紀元前99年頃から紀元前55年にかけて活動しました。

乏しいと云(い)うことには欠乏がない。
自然の先(ま)ず第一の原理は、何ものも神的な力によって無から生ずることは絶対にない、という点である。
汝は、その手に無いものを望み、その手にあるものを軽蔑している。
今容貌は如何(いか)に立派であろうとも、女の肉体全身から愛の力が発散されていようとも、女は他に幾(いく)らでもあることは確かだ。この女一人がいなかったとしても、我々はこれまで生きて来られたことは事実だ。この女のする事は、醜い女がすることとすべてに変(かわ)りがないことは確かだ。
仮りに我々〔人間〕が造り出されなかったとしても、それが我々にとって一体何の禍(わざわい)であろうか?即ち、一旦生(うま)れ出て来たものは、甘い快楽が引き止めている限り、生命に止(とどま)りたがるに違いないからである。ところが、生命への愛着を味(あじわ)ったことのない者、即ち生命を有する者の仲間に加ったことのない者は、生れ出なかったと云(い)うことは何の痛痒(つうよう)も感じないわけではないか。
誰でも真の理性を以(もっ)て人生の生活方針を定めようとするならば、乏しさに甘んじて、心を平静に生活することこそ人間にとって此(こ)の上もない莫大な富なのである。
ひとたび一人の愛にまき込まれても、憂いや頑なな苦痛を保持しないようにすべきである。なぜならば、初めの傷を新しい刺激を加えてまぎらし、傷の新しい内に、移り気な愛で気まぐれな振舞いをして治療し、心の動きを他に転じ得ないならば、傷は活発となり、育むことによって痼疾(こしつ)化し、日毎に狂気はつのり、苦悩は悪化するばかりだからである。
人類は絶えず徒(いたず)らに又(また)無駄に齷齪(あくせく)し、空疎なる心労に生命を費やしているが、明らかにその理由は、所有するということには如何(いか)なる限度があるかを知らず、又(また)真の快楽は如何(いか)なる程度まで増大し得るかの範囲に全く無智であるが為である。
愛を生ぜしめるものは習慣だからである。例えば、如何(いか)に軽くとも頻繁な打撃を反復して受けるものは、永い間には負けて、倒れ易くなるものである。石の上に落ちる水滴でさえ、永い間には石に穴をうがつのを見るではないか。
我々が取るに足りないことだと考えているよりも、更に取るに足りないことがあるとすれば、死は正にそれである。
(不幸な・不成功な恋愛に)つり込まれないよう警戒するに越したことはない。というのは、恋愛の罠にかかるのを避けることは、かかって後(のち)罠から抜け出るのよりは、又愛の絆を断ち切るのにくらべれば、さして困難なことではないからである。
天も地も海も一(ひ)とまとめにしたすべてでも全宇宙の総和に較(くら)ぶれば無に等しいものである。
財宝も、高貴な生(うま)れも、又名家の誉れも、われわれの肉体にとってすら何の益にもならない以上、われわれの精神にとってもまた利するところは全くなしと断ぜざるをえない。
人間を見るのには危険に臨んでいるときの方が都合がよい。逆境にあるときの方が、どんな人物かよくわかる。そういうときにこそ真実の声が胸の底からほとばしり出、仮面をはぎとられて、正体が残るからである。
雨だれも、ついには石をうがつ。
世界は断じて神々の力によって我々の為に造られたものではない。世界には、実に多くの欠陥が具(そな)わっているではないか。
自然は自由であり、傲慢なる主人に左右されることなく、自然自身すべて自由勝手な独立行動をとっているものであって、神々とは関係がない。
われわれは、では、何にたよればいいのか?われわれが真なるものと、虚なるものとを弁別するのに、感覚よりたしかなものがあるだろうか?
不幸な、不成功の恋愛には、眼を閉じていても見えるくらい、禍(わざわい)は無数にある。
たとえ君の好きなだけの多くの世代を生き抜いて完(まっと)うすることが、よしんば出来たとしても、依然として永遠の死はその先に待っているであろう。
より大きな河を以前見たことのない者には、どんな河でも一番大きな河に見えるものであり、樹にしても、人にしても巨大に見えようし、あらゆる種類のものでも、誰でも一番大きいと思って見たものはすべて、これ巨大なものと想像するものである。
(男は)色欲に盲目になると、女の精神上の欠陥、乃至(ないし)は肉体の欠点を見のがすものであり、女が実際は持っていない美点を、持っているもののように思い込んでしまう。
敬虔の念とは、むしろ精神を平静にして万事を眺めることのできる態度に外(ほか)ならない。
人間の持つ死の恐怖は、すべて自然に対する認識の欠如に由来する。
いったい何が我々の感覚以上に我々に情報を与えることができようか。