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デカルト

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ルネ・デカルトはフランス生まれの哲学者であり、「我思う、ゆえに我あり」という有名な哲学的命題を推導し、近世哲学の祖として知られています。また、数学者としてもデカルト座標系やデカルト積などの名がつけられた計算法や概念を確立しています。

哲学はあらゆることについて、まことしやかな話をし、学の浅い人々の称賛を博する手段を与える。
常識とは、この世で最も広く分配されている日用品である。
我(われ)思う。ゆえに我あり。
欠陥はいつも、それを取り除くために必要な変化よりはずっと耐えやすいものとなっている。
良き書物を読むことは、過去の最も優れた人達と会話をかわすようなものである。
我々の知っているすべての科学のうちで、あらゆる偽りや不確かなものに汚されていないのは、算数と幾何だけである。
良心を持つだけでは十分ではない。大切なのはそれをうまく使うことだ。
無関心でいる自由は、自由の中で最も低級である。
心を向上させるために、我々は瞑想をするよりも、学ぶことを少なくすべきである。
運命よりむしろ自分に打ち克つように、世界の秩序よりも自分の欲望を変えるように、つねに努めること。
人間的欠陥の主な原因は、幼少期に身に付いた偏見である。
代数学と幾何学は、すべての学問のうちで最も易しく明らかであり、どんなものでもその対象にできるのである。なぜなら、不注意さえしなければ、そこにどんな誤りも入り込むはずがないのだから。
天使を作ろうとする者は、けだものを作る。
事物の真理を探求するには、方法が必要である。
代数学と幾何学は、他のどれよりもはるかに確かな学問である。たとえば、対象となるものはきわめて明瞭かつ簡単だから、この二つの学問は、経験に照らして疑いをかけられそうな仮説を一切必要としない上、すべてが、推論による筋の通った帰結の形で成り立っている。
精神を思う存分働かせたいと願うなら、体の健康に留意することだ。
経験というものは、人が知識において進めば進むほど、その必要性を感じさせるものである。
秀でたる知性を有するだけでは十分ではない。大切なのは、それをうまく活用することである。
あらゆるものは自明である。
世界ではなく、自分自身を征服せよ。
(推論の鎖によって次々に結論が導かれるようになっていない)ようなことを真実とみなさないように用心し、導かれる帰結に必要なだけの秩序が常に保たれるように心がけていれば、到達できないほどかけ離れて遠いものはなく、明らかにすることができないほど秘密なものもない。
不決断こそ最大の害悪。
怒りによって赤くなる人々は、怒りによって青くなる人々よりも怖ろしくない。
決断ができない人間は、欲望が大きすぎるか、悟性が足りないのだ。
どこかの森に迷い込んだ旅人たちは、あちらへ向かったり、こちらへ向かったりして迷い歩くべきではなく、いわんやまた一つの場所にとどまっているべきでもなく、つねに同じ方向に、できる限りまっすぐに歩むべきである。というのは、旅人たちは彼らの望むちょうどその場所に行けなくても、少なくとも最後にはどこかにたどりつき、それはおそらく森の真ん中よりはよい場所であろうからである。
私にとっては、わずかばかりの自分の知識を本にするよりも、独り学ぶ楽しみのほうがはるかに大きい。
この世にあるもので、最も公平に分配されているのが良識である。
崇敬とは、その人物を崇め敬うことによって自分に何か利益があることを望む感情のことである。
明晰な頭脳を持っているだけでは不十分である。重要なのは、それをうまく使うことだ。
幾何学者は難しい証明の中で、ごく簡単でわかりやすい推論の長い鎖を用いる習慣を持っている。それと同じように、人間にとって認識可能なことはすべて、(推論の鎖によって)次から次へと結論が続いて導かれる。
物事の認識に至る道は二つある。すなわち経験と演繹(えんえき)の二つである。
我々は、すべてのものが我々のためにつくられたのだと思ってはならない。
自然は人間を嫌う。
難問は分割せよ。
懐疑とは方法である。