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ツルゲーネフ

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19世紀ロシア文学を代表する文豪であるイワン・セルゲーエヴィチ・ツルゲーネフは1818年11月9日(ユリウス暦:10月28日)にロシア帝国の貴族としてロシア中部オリョールに生まれました。15歳でモスクワ大学教育学部に入学、1年後、ペテルブルク大学哲学部に転じました。デカブリストの乱において北方結社を設立したN.I.ツルゲーネフも同じ一族でした。1838年から1841年の間、ペテルブルク大学で哲学、歴史、文学、法学などを勉強し、1842年に学士を取得しました。

愛は死よりも強く、死の恐怖よりも強い。愛、ただこれによってのみ人生は与えれられ、進歩を続けるのだ。
人は何を祈るにしても、奇跡を祈るのである。祈りは悉く(ことごとく)次のように要約される。「偉大なる神よ、2の2倍が4にならないことをお聞き届けください」
「今日は勘弁してくれたまえ、一文の持ち合わせもないんだ」こう言いつつ詩人はこじきの手をぎゅっと握った。こじきはどんな大金をもらうよりも詩人の手のぬくもりを感謝した。
心配するな、みすみす飢え死にすることもあるまい。金はなくとも友人がある。金がなんだ!塵芥(ちりあくた)ではないか!
冷たいって君は言うが、そこに味があるんだよ。君だってアイスクリームが好きだろう?
子供は空を飛ぶ鳥である。気が向けば飛んでくるし、気に入らなければ飛んでいってしまう。
死神というのは、魚を網で捕らえて、しばらくの間水中に生かしておく漁師のようなものである。なぜなら、魚はまだ水中で泳いではいるものの、網の中であることに変わりはなく、漁師は、もうそろそろ頃合いだと思ったら、何の容赦もなく網を引き寄せて、魚をとってしまうからである。
幸せでありたいというのか。まず苦悩することを覚えよ。
時の過ぎるのが早いか遅いか、それに気づくこともないような時期に、人はとりわけて幸福なのである。
詩はいたるところにあふれている。美と生命のあるところに詩がある。
女の愛を恐れよ。この幸福を、この毒を恐れよ。
人間には不幸か、貧困(貧乏)か、病気が必要だ。でないと人間はすぐに思いあがる。
私のために夕食の支度をして待っていてくれる女性がどこかにいたら、私は才能のすべてを投げ捨てても悔いはない。
情熱家より、冷淡な男のほうが簡単に女に夢中になるものだ。
自分の全生命を女の愛というカードに賭けた男が、このカードが殺された時、がっくりとなって何事も手につかないほど放心してしまうようなら、そんな人間は男ではなく、ただのオスである。
乗りかけた船には、ためらわずに乗ってしまえ。
疲れた人は、しばし路傍の草に腰をおろして、道行く人を眺めるがよい。人は決してそう遠くへは行くまい。
生活は冗談でもなければ、慰みでもない…それは義務という鎖をまとった苦しい労働なのだ。
金は天下のまわりものだ。いつもこちらをよけてまわるのが気にくわないが。
幸福には、明日(あす)という日はありません。昨日という日もありません。幸福は、過去のことを記憶してもいなければ、将来のことも考えません。幸福には、現在があるだけです。今日という日ではなく、ただいまのこの瞬間があるだけです。
ある一人の人間がそばにいると、他の人間の存在など全く問題にならなくなることがある。それが恋である。
生活というのは早晩、落ち着くところへ落ち着くものなのだ。どんな衝撃を受けても人はその日のうちか、たかだか翌日には(中略)もう飯を食う。そしてそれがまた気休めにもなるものなのである。
私は誰の意見にも賛成したいとは思わない。私は自分の意見を持っている。
男が間違いを犯す時それは2X2が3や5になるのだが、女の場合は2X2が歯磨き粉になっちまう。
思い出はたくさんあるけど、思い出したいことはひとつもない。
尊い愛のおかげで、人生は支えられる。
仕合せならんと願うなら、まず学べ、苦しむ術(すべ)を。
目下の者たちに少しも気兼ねしない者にかぎって、目上の者にはひどく気兼ねするのだ。
「明日は、明日こそは」と、人は人生を慰める。この「明日」が、彼を墓場に送り込むその日まで。
安らかならんと願うなら、交際(つきあい)するとも独りで生きよ。何事もくわだてず、一物たりとも惜しむな。
(相手を)愛する者だけが叱りつけて矯正する権利がある。