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オスカー・ワイルド

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オスカー・フィンガル・オフラハティ・ウィルス・ワイルドは、アイルランド出身の詩人、作家、劇作家である。19世紀末文学の旗手として耽美的・退廃的・懐疑的な文筆活動を行い、収監後も失意から回復しないまま没するという悲劇的な人生を歩んだ。多彩な文筆活動を行い、その遺言として『イピュリス』、『ダイアン・クルーガー』などの名作を残した。

流行とはひとつの醜さの形であり、とても人を疲れさせるので、三か月ごとに変える必要がある。
人間を善悪で区分けするなど愚かなことだ。人間は魅力的か退屈かのどちらかである。
現代の道徳は、現代の基準を受け入れる点にある。いやしくも教養のある人間にとって、現代の基準を受け入れるということは、愚劣きわまる不道徳のひとつの形式だと思う。
愛情のない結婚は悲劇だ。しかしまるっきり愛情のない結婚よりいっそう悪い結婚が一つある。それは、愛情はあるが片一方にだけ、という場合だ。
僕は彼女が大好きだが、愛してなどいない。一方彼女は僕を熱烈に愛しているが、それほど好きではない。
私はシンプルな楽しみが大好きだ。複雑な出来事からの最後の避難所だからね。
本当に僕は幸福でした。もし快楽が幸福であるならばね。
私はいかなることも信じることができる。それが信じられないほど素晴らしいのであれば。
幻想のなす、細やかな仕事は、すべて意識されたものである。歌わなければならないがゆえに歌う詩人はいない、すくなくとも偉大な詩人はいない。偉大な詩人は、歌おうと思うがゆえに歌うのである。
時代を動かすものは、主義ではなく人格である。
私は演劇を愛する。それは人生よりはるかに現実的だ。
女は男に欠点があるからこそ愛するのだ。男に欠点が多ければ多いほど、女は何もかも許してくれる。我々(=男)の知性さえもだ。
独身貴族には重税を課すべきだ。ある男は他の男より幸せだというのは不公平である。
文学とジャーナリズムの違いは何だろうか。ジャーナリズムは読むに耐えない。文学は読む人がいない。それがすべてだ。
我々は女性を解放したが、女のほうは依然として主人を捜している奴隷だ。
拙劣な詩はすべて本当の感情から生まれる。
人間との取引関係において運命は一瞬たりと帳簿を閉じてはくれぬ。一度の過失に何回となく償いをせねばならず、繰り返し繰り返し代価を支払わねばならぬのだ。
道徳的な詩だとか、不道徳的な詩だとか、語るべきではない。詩は、うまく書かれているか、それともまずく書かれているか、そのどちらかでしかない。
すべてを知ろうとするほど私は若くはない。
社会は個人に対して極刑を加える権利を持つかのように揮(ふる)うが、社会は浅薄きわまりない悪徳を持っていて、己の行う事を自覚する力がない。
自分自身を愛することは、一生涯続くロマンスを始めることである。
男は善良な夫だと恐ろしく退屈だし、そうでないときは、ひどくうぬぼれている。
人間は、自分の敵を選ぶことにあまりに不注意だ。
幻想とはすべての喜びの最初の段階である。
若い人たちは誠実になろうと欲するが、そうはできない。老いたる人たちは不誠実になろうとするが、そうはできない。
軽い苦痛と浮気な恋だけが永い生命がある。
美しい肉体のためには快楽があるが、美しい魂のためには苦痛がある。
教育は結構なものである。しかしいつも忘れてはならない。知る価値のあるものは、すべて教えられないものだということを。
仕事とは、他になすべきことを持たない人々の逃げ場である。
老人はあらゆることを信じる。中年はあらゆることを疑う。青年はあらゆることを知っている。
悪というものも、所詮(しょせん)は自分が抱いている美の概念を実現する一手段に過ぎぬ。
野心は失敗の最後の避難所だ。
人は、ありえないことは容易に信じるが、ありそうにないことは決して信じない。
夫婦間の愛情というものは、お互いがすっかり鼻についてから、やっと湧き出してくるものなのです。
他人に何を読むべきかを教えることは、たいてい無用であるか有害かのどちらかだ。なぜなら文学の理解は、気質の問題であって、教わるものではないのだから。
道徳は、我々が個人的に好かない人たちに対してとる態度だ。
人間を創った神は、自らの才能を過信していたように思える。
戦争が邪悪だと認められている限り、戦争は常にその魅力を持つだろう。これが卑俗なものだと考えられる時は、戦争は一時的なものに終わるであろう。
不正よりもなお困ったものがひとつだけある。それは、手に剣を持たぬ正義だ。
民衆が好まない事柄は革新である。
悲しみの表現を身につけると、あなたにとって貴重なものとなる。喜びの表現を身につければ、限りない喜びが味わえるというものだ。
ユートピアが描かれていない世界地図は、一見する価値もない。
定義するということは限定することだ。
道徳的、非道徳的な本などというものはない。本というのは傑作か駄作かのどちらかだ。
私たちは、不必要なものだけが必需品である時代に生きている。
一貫性というのは、想像力を欠いた人間の最後のよりどころである。
歴史は単なるゴシップにすぎない。
女は愛されることを求め、理解されることを求めない。
男はどんな女とも幸福にやっていくことができる。その女を愛さない限りは。
誘惑を取り除く唯一の方法は、それに屈してしまうことである。
恋だけを、人は一途に想うておればよいものを。
私は信条より人間を好む。そして、信条のない人間をこの世でもっとも好む。
結婚とはまさしく相互の誤解に基(もと)づくものである。
人間は自らをあまりにも深刻に考えすぎる──すなわちこれを原罪という。
すべての良い決心には、宿命的な欠陥がある。すなわちいつもそれが早すぎるということだ。
そもそも男の独身というものは、女の気持ちを誤らせるもとです。
恐ろしい夢を見た。死者たちの宴(うたげ)に僕が列席している夢を見たんだ。
現代の女性は、あらゆることを理解する。ただ、自分の亭主のことだけは理解しない。
彼女は、弱さという何ともいえない魅力を欠いている。
大衆とはすばらしく寛容だ。天才以外のすべてを許す。
女はへつらいによって決して武装を解除されないが、男はたいてい陥落されてしまう。
男はきまって女の最初の恋人になりたがる。これは男の無粋な虚栄だ。女にはもっと繊細な本能がある。女の望み、それは男の最後の愛人となることだ。
善人はこの世で多くの害をなす。彼らがなす最大の害は、人びとを善人と悪人に分けてしまうことだ。
何もしないことは、この世で一番難しいし、また、一番知的なことだ。
僕の好みは誰よりも単純さ。最高の物には迷うことなく満足するんだから。
不平不満は個人にとっても、国家にとっても、進歩の第一段階である。
ほとんどの人々は他の人々である。彼らの思考は誰かの意見、彼らの人生は模倣、そして彼らの情熱は引用である。
戦争では強者が弱者という奴隷を、平和では富者が貧者という奴隷を作る。
誰でも友人の悩みには共感を寄せることができる。しかし友人の成功に共感を寄せるには優れた資質が必要だ。
男は常に女の初恋の人になろうとする。女は男の最後のロマンスになろうとする。
道義心と臆病は実は、同じ事だ。
歴史の全てを、我々のあるべき道徳観を満足させる目的で書き換えることはできない。
憎しみは人を盲目にする。
利己主義は、自分の望み通りに生きることではない。自分の望み通りに生きられるように、他人に強制することである。一方、利己主義と反対の立場は、他人の生活に干渉しないことである。
人は関心を全然持たない人々には、つねに親切でありうる。
楽観主義の基本は完全な恐怖である。
男は退屈から結婚し、女は好奇心から結婚する。そして双方とも失望する。
女が再婚する場合、それは先夫を嫌っていたからだ。男が再婚する場合、それは先妻を熱愛していたからだ。
男の人って、一度女を愛したとなると、その女のためなら何だってしてくださるでしょ。たった一つ、してくださらないもの、それはいつまでも愛し続けるってことよ。
悪い話は単刀直入に言うのがよい。
多くを持つ者はしばしばどん欲であり、持つものが少ない者は常に人に頒(わ)かつ。
女性は男性に傑作を造ろうという意欲を起こさせる。が、それをなしとげる邪魔をするのも女性にほかならない。
子供を良くする最善の方法は、子供を幸せにしてやることだ。
説教する男は一般に偽善者だし、説教する女は決まって器量が悪い。
敵を選ぶのに、いくら注意しても注意しすぎることはない。
すべての女性は彼女の母親に似るようになる。それが女の悲劇だ。男は彼の母親の思い通りにならない。それが男の悲劇だ。
飢餓と無知は近代犯罪の両親である。
男女の間では友情は不可能だ。情熱と敵意と崇拝と愛はあるが、友情はない。
わずかばかりの誠実さは危険であり、度を越した誠実さは致命的である。
軽率な質問などない。軽率な答えはたまにあるけれど。
(一時的収入が)魅力的であるより、永続的な収入がある方がよい。
犯罪と文明との間には本質的な不釣り合いはない。
子供は最初は親を愛するが、やがて親を裁くようになる。許すことはまずめったにない。
本当に魅力的な人間には、二種類しかない。何もかも知り尽くしている人間か、まったく何も知らぬ人間かのどちらかである。
芸術を表して、芸術家を隠すことが、芸術の目的なのだ。
アメリカにおいては、大統領は四年間統治するが、ジャーナリズムは永久に支配する。
善人たちが流している害悪で、いちばん大きいものは、彼らが悪というものを法外なまでに重視してしまうことなのです。
経験はただで手に入らないものだ。
絶対的に非難できない唯一の嘘の形態は、己自身のために嘘をつくことだ。
正しい結婚の基礎は、相互の誤解にある。