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太宰治

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太宰治は青森県北津軽郡金木村(後の金木町、現在の五所川原市)の地元の名士、津島修治という本名で1909年に生まれた日本の小説家である。主な作品は『走れメロス』『津軽』『人間失格』『斜陽』などで、戦後は新戯作派、無頼派とも呼ばれるような自己破滅型の作家として知られている。

日常の生活に直接役に立たないような勉強こそ、将来、君たちの人格を完成させるのだ。何も自分の知識を誇る必要はない。勉強して、それから、けろりと忘れてもいいんだ。覚えるということが大事なのではなくて、大事なのは、カルチベートされるということなんだ。
おむすびが、どうしておいしいのだか、知っていますか。あれはね、人間の指で握りしめて作るからですよ。
人生はチャンスだ。結婚もチャンスだ。恋愛もチャンスだ。
日本には、半可通ばかりうようよいて、国土を埋めたといっても過言ではあるまい。もっと気弱くなれ!偉いのはお前じゃないんだ!
文章を書くのに(一字一句もゆるがせに出来ないのは言うまでもないが)、ことに大切なのは、題名、書き出し、結び、この三つである。
釣れる場所か、釣れない場所か、それは問題じゃない。他の釣師が一人もいなくて、静かな場所ならそれでいいのだ。
ただ、いっさいは過ぎていきます。自分が今まで阿鼻叫喚で生きてきた、いわゆる人間の世界において、たった一つ、真理らしく思われたのは、それだけでした。
不良とは、優しさの事ではないかしら。
親が無くても子は育つ、という。私の場合、親が有るから子は育たぬのだ。親が、子供の貯金をさえ使い果たしている始末なのだ。
本当に愛して居れば、かえって愛の言葉など、白々しくて言いたくなくなるものでございます。愛している人には、愛しているのだという誇りが少しずつあるものです。黙っていても、いつかは、わかってくれるだろうという、つつましい誇りを持っているものです。
家庭の幸福は諸悪の本(もと)。
一日一日をたっぷりと生きていくより他はない
青春の感激だとか、若人の誇りだとかいう言葉は、聞いて寒気がして来て、とても、あの、ハイスクール・スピリットとかいうものには、ついて行けなかったのです。
お心の優れたお方のお顔には、少しばかりの傷が出来ても、その為(ため)にかえってお顔が美しくなる事こそあれ、醜くなるなどという事は絶対に無いものだ。
今の女性は個性がない、深みがない、批判はあっても答えがない、独創性に乏しく模倣ばかり。さらに無責任で自重を知らず、お上品ぶっていながら気品がない。
「こっちは太宰の年上だからね」という君の言葉は、年上だから悪口を言う権利があるというような意味に聞きとれるけれども、私の場合、それは逆で、「こっちが年上だからね」若いひとの悪口は遠慮したいのである。
幸福の便りというものは、待っている時には決して来ないものだ。
一日の労苦は、そのまま一日の収穫である。「思い煩(わずら)うな。 空飛ぶ鳥を見よ。 播(ま)かず。 刈らず。 蔵に収めず。」
僕は今まで、説教されて、改心した事が、まだいちどもない。お説教している人を、偉いなあと思った事も、まだ一度もない。
いまの世の中で、一ばん美しいのは犠牲者です。
男って、正直ね。何もかも、まる見えなのに、それでも、何かと女をだました気で居るらしいのね。犬は、爪を隠せないのね。
何もしないさきから、僕は駄目だときめてしまうのは、それあ怠惰だ。
自分が不義をはたらいている時は、ひとの不義にも敏感だ。
侘(わ)びしさというものは、幸福感の一種なのかも知れない。
(友に)信じられているから走るのだ。間に合う、間に合わぬは問題でないのだ。
自分の作品のよしあしは自分が最もよく知っている。千に一つでもおのれによしと許した作品があったならば、さいわいこれに過ぎたるはないのである。
酒は身を飲み家を飲む。
狼が羊を食うのはいけない。あれは不道徳だ。じつに不愉快だ。おれがその羊を食うべきものなのだから。
お前はきりょうがわるいから、愛嬌だけでもよくなさい。お前はからだが弱いから、心だけでもよくなさい。お前は嘘がうまいから、行いだけでもよくなさい。
神は、必ずや、わしのような孤独の男を愛してくれる。
釣糸噛み切って逃げたなまずは呑舟(どんしゅう)の魚(うお)くらいにも見えるとか、忘却の淵に引きずり込まれた五、六行の言葉、たいへん重大のキイノオト。惜しくてならぬ。浮いて来い!浮いて来い!真実ならば浮いて来い!
卒直なんてものはね、他人にさながら神経のないもののように振舞う事です。他人の神経をみとめない。だからですね、余りに感受性の強い人間は、他人の苦痛がわかるので、容易に卒直になれない。卒直なんてのは、これは、暴力ですよ。
人の転機の説明は、どうも何だか空々しい。その説明が、ぎりぎりに正確を期したものであっても、それでも必ずどこかに嘘の間隙(かんげき)が匂っているものだ。人は、いつも、こう考えたり、そう思ったりして行路を選んでいるものでは無いからでもあろう。多くの場合、人はいつのまにか、ちがう野原を歩いている。
革命は、人が楽に生きるために行うものです。悲壮な顔の革命家を、私は信用いたしません。
人間は決して人間に服従しない、奴隷でさえ奴隷らしい卑屈なシッペがえしをするものだ、だから、人間にはその場の一本勝負にたよる他、生き伸びる工夫がつかぬのだ。
ふと思う。なんだ、みんな同じことを言っていやがる。
川というものは、海に流れ込む直前の一箇所で、奇妙に躊躇(ちゅうちょ)して逆流するかのように流れが鈍くなるものである。私の青春も川から海へ流れ込む直前であったのであろう。
芸術は、命令することができぬ。芸術は、権力を得ると同時に、死滅する。
私は真実のみを、血まなこで、追いかけました。私は、いま真実に追いつきました。私は追い越しました。そうして、私はまだ走っています。真実は、いま、私の背後を走っているようです。笑い話にもなりません。
革命も恋も、実はこの世で最もよくて、おいしい事で、あまりいい事だから、おとなのひとたちは意地わるく私たちに青い葡萄(ぶどう)だと嘘ついて教えていたのに違いない。
人は、本当に愛していれば、かえって愛の言葉など白々しくて言いたくなくなるものでございます。
人から尊敬されようと思わぬ人たちと遊びたい。けれども、そんないい人たちは、僕と遊んでくれやしない。
十歳の民主派、二十歳の共産派、三十歳の純粋派、四十歳の保守派。
あすもまた、同じ日が来るのだろう。幸福は一生、来ないのだ。それは、わかっている。けれども、きっと来る、あすは来る、と信じて寝るのがいいのでしょう。
子供より親が大事、と思いたい。子供のために、等と、古風な道学者みたいな事を殊勝さらく考えても、何、子供よりも、その親の方が弱いのだ。
人は、なぜお互い批評し合わなければ、生きて行けないのだろう。砂浜の萩の花も、這い寄る小蟹も、入江に休む鴈(かり)も、何もこの私を批評しない。人間も、須(すべから)くかくあるべきだ。
自分を駄目だと思い得る人は、それだけでも既に尊敬するに足る人物である。
お説教なんて、自己陶酔だ。わがままな気取りだ。
書きたいけれども書けなくなったというのは嘘で、君には今、書きたいものがなんにも無いのでしょう。書きたいものが無くなったら、理窟も何もない、それっきりです。作家が死滅したのです。
〈芸術的〉という、あやふやな装飾の観念を捨てたらよい。
古い者は、意地が悪い。何のかのと、陳腐(ちんぷ)きわまる文学論だか、芸術論だか、恥ずかしげも無く並べやがって、以(もっ)て新しい必死の発芽を踏みにじり、しかも、その自分の罪悪に一向お気づきになっておらない様子なんだから、恐れいります。押せども、ひけども、動きやしません。ただもう、命が惜しくて、金が惜しくて、そうして、出世して妻子をよろこばせたくて、そのために徒党を組んで、やたらと仲間ぼめして、所謂(いわゆる)一致団結して孤影の者をいじめます。
自分のものでも無い或(あ)る卑しい想念を、自分の生まれつきの本性の如(ごと)く誤って思い込み、悶々している気弱い人が、ずいぶん多い様子であります。
笑われて、笑われて、つよくなる。
生きるという事は、たいへんな事だ。あちこちから鎖がからまっていて、少しでも動くと、血が噴(ふ)き出す。
ぽかんと花を眺めながら、人間も、本当によいところがある、と思った。花の美しさを見つけたのは人間だし、花を愛するのも人間だもの。
もったいぶって、なかなか笑わぬというのは、善(よ)い事であろうか。
恋愛とはなにか。私は言う。それは非常に恥ずかしいものである。
疑いながら、ためしに右へ曲るのも、信じて断乎として右へ曲るのも、その運命は同じ事です。どっちにしたって引き返すことは出来ないんだ。
復讐感の方は、一つもありません。癪(しゃく)にさわったら、その場で言ってしまう事にしています。
駄目な男というものは、幸福を受け取るにあたってさえ、下手くそを極めるものである。
本を読まないということは、そのひとが孤独でないという証拠である。
人は人に影響を与えることもできず、また人から影響を受けることもできない。
友達が欲しくても出来ない私は、孤高ではなく「孤低」なのです。
ああ、このごろ私は毎日、新郎(はなむこ)の心で生きている。
安楽なくらしをしているときは、絶望の詩を作り、ひしがれたくらしをしているときは、生のよろこびを書きつづる。
愛は、この世に存在する。きっと、ある。見つからぬのは愛の表現である。その作法である。
鉄は赤く熱しているうちに打つべきである。花は満開のうちに眺むべきである。
美しさに、内容なんてあってたまるものか。純粋の美しさは、いつも無意味で、無道徳だ。きまっている。
愛することは、いのちがけだよ。甘いとは思わない。
ロマンチシズムに拠(よ)って、夢の力に拠って、難関を突破しようと気構えている時、よせ、よせ、帯がほどけているじゃないか等と人の悪い忠告は、言うもので無い。
「恋愛至上主義」など、まあなんという破天荒、なんというグロテスク。「恋愛は神聖なり」なんて飛んでも無い事を言い出して居直ろうとして、まあ、なんという図々しさ。「神聖」だなんて、もったいない。口が腐りますよ。色気違いじゃないかしら。とても、とても、あんな事が、神聖なものですか。
はじめは、ゆっくり。はじめは、ゆっくり。
不仕合せに生まれついた者は、いつまで経(た)っても不仕合せのどん底であがいているばかりだ。
人間は、誰でも、くだらなくて卑しいものだと思っています。作品だけが救いであります。仕事をするより他はありません。
人間は恋と革命のために生まれてきたのだ。
紙一重のわずかな進歩だって、どうして、どうして。自分では絶えず工夫して進んでいるつもりでも、はたからはまず、現状維持くらいにしか見えないものです。
好かれる時期が、誰にだって一度ある。不潔な時期だ。
世の中の人が皆、あっさりしていたら、この世の中も、もっと住みよくなるに違いない。
君は、いつでも何か、とくをしようとしていらいらしている、そんな神経はたまらない。みんな君の仕事に直接、役立つようにじたばた工夫しているのだから、かなわない。
家庭に在る時ばかりでなく、私は人に接する時でも、心がどんなにつらくても、からだがどんなに苦しくても、ほとんど必死で、楽しい雰囲気を創る事に努力する。
弱虫は、幸福をさえおそれるものです。綿(わた)で怪我するんです。幸福に傷つけられる事もあるんです。
恋愛に限らず、人生すべてチャンスに乗ずるのは、げびた事である。
おのれは醜いと恥じているのに、人から美しいと言われる女は、そいつは悲惨だ。風の音に、鶴唳(かくれい)に、おどかされおびやかされ、一生涯、滑稽な罪悪感と闘いつづけて行かなければなるまい。
自分が絶世の美男子だったら、ひとの容貌なんかには、むしろ無関心なものだろうと思う。ひとの醜貌に対しても、頗(すこぶ)る寛大なものだろうと思う。ところが僕のように、自分の顔が甚(はなは)だ気にいらない者には、ひとの容貌まで気になって仕様がないのだ。さぞ憂鬱(ゆううつ)だろうな、と共感を覚えるのである。無関心では居られないのだ。
人間のプライドの窮極(きゅうきょく)の立脚点は、あれにも、これにも死ぬほど苦しんだ事があります、と言い切れる自覚ではないか。
(人の)起こした間違いは仕方のねえ事として、その間違いをそれ以上に大きな騒ぎにしないように努めるのが、まごころというものでないか。
だまされる人よりも、だます人のほうが、数十倍くるしいさ。地獄に落ちるのだからね。
「男女同権」とは、男の地位が女の地位まで上がったことなのです。
生きる事に何も張り合いが無い時には、自殺さえ、出来るものではありません。自殺は、かえって、生きている事に張り合いを感じている人たちのするものです。
女も、浅墓なものですが、男のひとも、あんまり利巧とは言えませんね。
本当の気品というものは、真黒いどっしりした大きい岩に白菊一輪だ。土台に、むさい大きい岩が無くちゃ駄目なもんだ。それが本当の上品というものだ。
僕はもう何も言うまい。言えば言うほど、僕はなんにも言っていない。
「ブルウタス、汝(なんじ)もまた。」人間、この苦汁を嘗(なめ)ぬものが、かつて、ひとりでも、あったろうか。おのれの最も信頼して居るものこそ、おのれの、生涯の重大の刹那(せつな)に、必ず、おのれの面上に汚き石を投ずる。はっしと投ずる。
怒る時に怒らなければ、人間の甲斐がありません。
人生はチャンスだ。結婚もチャンスだ。恋愛もチャンスだ。と、したり顔して教える苦労人が多いけれども、私は、そうでないと思う。少なくとも恋愛は、チャンスでないと思う。私はそれを、意志だと思う。
いけないのは、田舎者のくせに、都の人と風流を競い、奇妙に上品がっている奴と、それから私のように、田舎へ落ちて来た山師だ。
教養とは一口に言って、はにかみなんですね。
大人とは裏切られた青年の姿である
鉄は赤く熱しているうちに打つべきである。花は満開のうちに眺むべきである。私は晩年の芸術というものを否定している。
何を読むかは、読者の権利である。義務ではない。
とにかくね、生きているのだからね、インチキをやっているに違いないのさ。
血のつながりというものは、少し濃すぎて、べとついて、かなわないところがある。
青年たちは、よく笑う。なんでもないことにでも大声たてて笑いこける。笑顏をつくることは、青年たちにとって、息を吐き出すのと同じくらい容易である。いつの頃からそんな習性がつき始めたのであろう。笑わなければ損をする。笑うべきどんな些細な対象をも見落すな。ああ、これこそ貪婪(どんらん)な美食主義のはかない片鱗ではなかろうか。