河合隼雄
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河合隼雄は日本の心理学者で、兵庫出身であり、ユング心理学・臨床心理学・日本文化を専門としています。ユング研究所にてユング派分析家の資格を取得し、日本における分析心理学、箱庭療法の普及・実践に貢献し、臨床心理士資格認定協会の設立にも貢献した人物です。
子どもが甘えてきたときに、甘えさせるのはいいんです。子どもが甘えたいという気持ちを、受け入れてやっているんだから。ところが甘やかすというのは、甘えさせるのと違って、“なんでもかんでも、親の私にベタベタしてたらよろしい”という姿勢なんです。
一旦それ(=ボランティア活動を微に入り細にわたってやること)を始めると、善をおこなうことがどんなに難しいことであるかが分かることであろう。自分では善と思っていても、本当はどうなのか分からないと思えてくる。そうなってくると、善人に共通する不愉快な傲慢さが少しずつ消えてくる。善とか悪とかいうことよりも、自分の好きなことをさせて頂いている、ということが実感されてくる。
(善を行う際に)微に入り細にわたるような面倒なことはしたくない。ともかく善意でやっているのだから、と言う人は、それは自分が好きでやっているだけのことで、賞賛に値しないどころか、極めて近所迷惑なことをしているのだ、という自覚ぐらいは持ってほしいとおもう。
心理療法とは、クライエントにとって自分の問いに最終的な答えが与えられることではなく、自分一人の力ではどうにもならない問いが、自分の力でどうにかなりそうな問いに変化すること、すなわち、「答えの獲得」ではなく「問いの変容」を目的としたものだと言えるのではなかろうか。
(100%正しい)忠告によって人間がよくなるのだったら、その100%正しい忠告を、まず自分自身に適用してみるとよい。「もっと働きなさい」とか、「酒をやめよう」などと自分に言ってみても、それほど効果があるものではないことは、すぐわかるだろう。
人づきあいを大切にするというと、すぐに「自分を殺して」とまで考えがちになる。しかし、そんなに自分を殺しても、人間はそれほど簡単に死ぬものではないので、いざというときほど死に損なった恨みがでてきてぶち壊しになるものである。むしろ、他人も生かして自分も生かして、というところで一呼吸おいてみることがいいだろう。
独立と依存とは反対のことではなく、むしろ共存するものだ。依存を排除した独立は裏打ちがないのでもろいものであり、何かの障害があると崩れてしまう。依存するべきときは依存し、依存を経験した上での独立こそが、本当の自立というものなのである。
(先進国の対外援助では)沢山の金を使って、いろいろ物を送りこむのだが、それによって、その国は果たして「豊か」になるのだろうか。本来はその国に無かった物を急激に大量に送りこむことによって、その文化のもっている基本的パターンを壊すようなことをしていいのだろうか。それは武器による侵略と類似のこととさえいえそうに思われる。
「のぞみはもうありません」と面と向かって言われ、私は絶句した。ところがその人が言った。「のぞみはありませんが、光はあります」なんとすばらしい言葉だと私は感激した。このように言ってくださったのは、もちろん、新幹線の切符売場の駅員さんである。
個人を大切に考え、個人の持つ能力をできる限り発現するのをよしとする場合、結局のところは個人は死ぬのであるから、「己の死」ということをその考え全体の中に何らかの方法で位置づけることが必要である。このことを忘れていると、その人間が元気なときはよいが、老いや死が近づいてきたときは、極めてみじめな思いをしなくてはならないだろう。
(宗教が)集団化することにより、集団の組織化や組織防衛という問題が生じてきて、本来の個人としての在り方に圧力が加わることになる。超越的なものとのかかわりに、世俗的なものが入りこんでくる。これは、あらゆる宗教集団のもつジレンマである。
(親子の)依存と独立の共存はどのくらいにすればいいのか。これらの間の均衡をうまく保つためには、「自然」の良さということがひとつの指標になる。適当に依存させ、適当にほうっておき、自然に行われているところでは、あまり大きい問題が生じない。
親切な人が来て、「震災の体験をしゃべってください」「たいへんでしたね。 何かしゃべってください」と言ってきたりしますが、見ず知らずの人にしゃべっても、心が治まるはずはないのです。この人になら言えるという人にしゃべってこそ意味があるのであって、そのところが不問にされている。
悩みをなくしたいと望んで心理療法を求めるクライエントは少なくないが、悩みをなくすというよりも悩みを悩みやすい形に変容させるのが心理療法の実態であり、治療者の役割は、クライエントの問いがクライエント自らの力で問えるような形になるまでクライエントに付き合うことだと言えるかもしれない。
心理療法を受けに来る子どもで難しいのは、“扱いやすい子でした”という場合です。ひょっとしたら、子どもは信号を出していたのに親が気づいていなくて、それで扱いやすいと思っていたのかもしれない。あるいは、親が気づかないので、だんだん出さなくなってきたのかもしれないわけです。
ある個人の存在が深くかかわってくるとき、そこには、同じことは起こらなくなってくるし、まさにそのときに、(忠告においては)その人にのみ通じる正しいことが要求され、それは、一般に人が考えつく、100%正しいこととは、まったく内容を異にするのである。
人間だけがなぜ自然から切れようとする傾向を持っているのかはわからない。「思考する」というのはとても不思議な行為で、人間が獲得した特殊技能である。これは、自分というものが世界と別個に存在しているという意識を持つことに起因する。そして、その自分をどうすべきかを考えることを記したのが、神話なのである。すべての神話には、「人間が意識を持つとはどういうことか」が書かれていると言っていい。
“絆を深める”とぼくが言うときは、絆の糸を長くして、ずっと深めていくのが理想なんです。お互いの関係の深いところを、なるべく遠く、それこそ“無限遠点”にまでもっていく。その点を介してつながっていれば、相手がどこか遠くへ行ったって大丈夫。一番深いところでつながっているわけですから。…その糸を、短くして強めている人は、相手をコントロールしているだけです。
文明の発達によって、苦しいことや悲しいことを少なくすることができて来たため、人間は苦しみや悲しみをすべて避けるべきであるとか、避けることができるとか考えるような錯覚を起こしはじめたのではないだろうか。
会社という道。家庭という道。それぞれが別の道であることをもっと意識することです。もちろんそれ以外にも趣味の道や友人との道もあるでしょう。自分の中にはたくさんの道があることを忘れてはいけません。たくさんの道があるからこそ、行き止まりの道を引き返す勇気が生まれるのです。
思い屈するような心萎える時間こそ、心が撓(しな)っている状態で、重い雪をスーッと滑り落としているときなんだから、それを肯定し自分を認める。ああ、そうか、俺はまだやわらかな、撓う心を持っているんだと感じて、憂鬱で無気力な自分をも認めたほうがいいんじゃないでしょうか。
科学の発達によって、われわれが多くの苦痛を和らげたり、減少させたりできるにしろ、人間存在に固有の(苦しみや)悲しみはなくならないのである。そして、実のところ、そのような感情こそ、人間の個性をつくり出してゆくために必要なことなのである。