河合隼雄のプロフィール画像

河合隼雄

@01gr36cxv5tgs8nfrebfa4h5r8

河合隼雄は日本の心理学者で、兵庫出身であり、ユング心理学・臨床心理学・日本文化を専門としています。ユング研究所にてユング派分析家の資格を取得し、日本における分析心理学、箱庭療法の普及・実践に貢献し、臨床心理士資格認定協会の設立にも貢献した人物です。

だいたい子どもというものは、“親の目が届かないところ”で育っていくんです。
親が子どもをコントロールできる、と思いすぎているんじゃないでしょうか。…相手は子どもで、生きている存在なんです。こちらの思い通りにならないのが生き物というものでしょう。
子どもにとって親が何かしてくれるというのは、お金を稼ぐことじゃなくて、一緒にいてくれたとか、大事なときに“うん”と言ってくれたとか、そういうことなんです。
ひとつの忠告が役立つと、人間は嬉しくなってそれを普遍的真理のように思いがちである。
子どもが甘えてきたときに、甘えさせるのはいいんです。子どもが甘えたいという気持ちを、受け入れてやっているんだから。ところが甘やかすというのは、甘えさせるのと違って、“なんでもかんでも、親の私にベタベタしてたらよろしい”という姿勢なんです。
一旦それ(=ボランティア活動を微に入り細にわたってやること)を始めると、善をおこなうことがどんなに難しいことであるかが分かることであろう。自分では善と思っていても、本当はどうなのか分からないと思えてくる。そうなってくると、善人に共通する不愉快な傲慢さが少しずつ消えてくる。善とか悪とかいうことよりも、自分の好きなことをさせて頂いている、ということが実感されてくる。
私はせっかく生まれてきたのだから、死ぬまでには、ときどき「命がけ」のことをやってみないと面白くないのでは、と思っている。
不安ていうのは、他人を巻き込む力が強いんです。だから、不安の強い人は、なんとなく嫌われることが多い。
ボランティア活動というのは、余程気をつけてやらないと、逆効果を生ぜしめたりするものなのである。それが嫌な人は、微に入り細にわたってやって頂きたい。
学んでいて楽しくないものは、本当の意味で身につかない。一方で、苦しさを伴わない学びもまた、ニセモノだ。
道草によってこそ道の味がわかる。
ひょっとすると(自分の忠告によって相手が)失敗するかもしれぬ。しかし、この際はこれだという決意をもってするから、忠告も生きてくる。
正しいことを立て続けに言うと(=言われると)、人間は動けなくなるんです。
(善を行う際に)微に入り細にわたるような面倒なことはしたくない。ともかく善意でやっているのだから、と言う人は、それは自分が好きでやっているだけのことで、賞賛に値しないどころか、極めて近所迷惑なことをしているのだ、という自覚ぐらいは持ってほしいとおもう。
「まじめに、真剣に」ということにとらわれると視野が狭くなります。これは一番怖いこと。視野を広げるために一番大事なものは、「道草、ゆとり、遊び」。
愛情とは、関係を断たぬことである。
心理療法とは、クライエントにとって自分の問いに最終的な答えが与えられることではなく、自分一人の力ではどうにもならない問いが、自分の力でどうにかなりそうな問いに変化すること、すなわち、「答えの獲得」ではなく「問いの変容」を目的としたものだと言えるのではなかろうか。
ゆっくりと寄り道をすればいい。道草の途中には、きっと小さな幸せが落ちています。
(100%正しい)忠告によって人間がよくなるのだったら、その100%正しい忠告を、まず自分自身に適用してみるとよい。「もっと働きなさい」とか、「酒をやめよう」などと自分に言ってみても、それほど効果があるものではないことは、すぐわかるだろう。
(忠告する際)己をかけることもなく、責任を取る気も無く、100%正しいことを言うだけで、人の役に立とうとするのは虫がよすぎる。
科学の進歩によって、人間の悩みはますます多く、深くなってきている。
家出は非合法に行うことに意味があるが、非合法性が強くなりすぎると破壊に至ってしまう。さりとて合法性が強すぎると、そこには創造がない。
現代の文明は、単純に「進歩」を目指しすぎるあまり、老人に対しても「いつまでも若い」というまやかしをして、問題の本質をごまかそうとしています。
人づきあいを大切にするというと、すぐに「自分を殺して」とまで考えがちになる。しかし、そんなに自分を殺しても、人間はそれほど簡単に死ぬものではないので、いざというときほど死に損なった恨みがでてきてぶち壊しになるものである。むしろ、他人も生かして自分も生かして、というところで一呼吸おいてみることがいいだろう。
ほんとうにつらいとき、悲しいときには、よけいな慰めなど言ってもらう必要はなく、一緒にいてもらうだけでいい。
家族の信頼関係の基本は、“いない、いない、ばあ”。
自立ということは、依存を排除することではなく、必要な存在を受けいれ、自分がどれほど依存しているかを自覚し、感謝していることではなかろうか。依存を排して自立を急ぐ人は、自立ではなく孤立になってしまう。
日本人の自我は、欧米人とは異なり、常に他者との相互関係の中に存在し、他者を離れた個として確立していない。
速断せずに期待しながら見ていることによって、今までわからなかった可能性が明らかになる。
人間のこころの発達は、ある程度は段階的だが、もっと自由でジグザグに進行するものだ。
欠点のある人──誰しも欠点を持っているのだが──と、自分も欠点を持つ人間として関係を維持してゆく努力の中に、愛があるのではないだろうか。
外向的な人は、内面コンプレックスをもっているし、内向的な人は外向コンプレックスを有しているが、このような人達が恋愛や夫婦として結ばれることはよくあることである。
冗談による笑いは、世界を開き、これまでと異なる見方を一瞬に導入するような効果をもつことがある。八方ふさがりと思えるとき、笑いが思いがけぬ方向に突破口を開いてくれる。
思い通りにならないことこそ、ほんとうにおもしろいことだと思っているんです。
けんかをすること自体は少しも善いことではない。しかし、一度もけんかをせず、悲しいことも苦しいこともほとんど知らずに大きくなってくる子どもなど、人間として価値があるのだろうか。
だいたい(親が自分の子どもについて)“普通でいい”なんて思うのが、ほんとうはけしからんです。子どもがどう思っているのかわからないのに、普通が幸福なんだから普通になれ、だなんて。
心理療法家は、イメージに関して言語化を行う時、動きを止める「答え」を与えるのではなく、新たな動きを生ぜしめる「問い」を発するといってもいいであろう。
あくる朝起きたら、また違う風が吹いているからね。
(先進国の対外援助では)沢山の金を使って、いろいろ物を送りこむのだが、それによって、その国は果たして「豊か」になるのだろうか。本来はその国に無かった物を急激に大量に送りこむことによって、その文化のもっている基本的パターンを壊すようなことをしていいのだろうか。それは武器による侵略と類似のこととさえいえそうに思われる。
(相手に対する)真の理解が成立すれば、解決は自ら生じてくると言ってもいいくらいであろう。ところが、その「真の理解」ということが実に大変なのである。
私は、他人を真に理解するということは、命がけの仕事であると思っている。このことを認識せずに、「人間理解が大切だ」などと言っている人は、話が甘すぎるようである。
独立と依存とは反対のことではなく、むしろ共存するものだ。依存を排除した独立は裏打ちがないのでもろいものであり、何かの障害があると崩れてしまう。依存するべきときは依存し、依存を経験した上での独立こそが、本当の自立というものなのである。
会社で使うエネルギーと家庭で使うエネルギーはまったく別のもの。仕事でエネルギーを使ったから、もう家庭の分は残っていないと、そんなことはあり得ません。
逃げるときはもの惜しみしない。
個人を大切に考え、個人の持つ能力をできる限り発現するのをよしとする場合、結局のところは個人は死ぬのであるから、「己の死」ということをその考え全体の中に何らかの方法で位置づけることが必要である。このことを忘れていると、その人間が元気なときはよいが、老いや死が近づいてきたときは、極めてみじめな思いをしなくてはならないだろう。
生徒の言葉どおりに反応することが、真の理解になるとは限らない。
「のぞみはもうありません」と面と向かって言われ、私は絶句した。ところがその人が言った。「のぞみはありませんが、光はあります」なんとすばらしい言葉だと私は感激した。このように言ってくださったのは、もちろん、新幹線の切符売場の駅員さんである。
(宗教が)集団化することにより、集団の組織化や組織防衛という問題が生じてきて、本来の個人としての在り方に圧力が加わることになる。超越的なものとのかかわりに、世俗的なものが入りこんでくる。これは、あらゆる宗教集団のもつジレンマである。
私は自分の仕事(=心理療法)のことをよく、「なにもしないことに全力をあげる」と表現します。つまり、doing ではなく、being が大切だということです。
多くの親たちは子どもに悲しみや苦しみを体験させないように努力しすぎてはいないだろうか。
(親子の)依存と独立の共存はどのくらいにすればいいのか。これらの間の均衡をうまく保つためには、「自然」の良さということがひとつの指標になる。適当に依存させ、適当にほうっておき、自然に行われているところでは、あまり大きい問題が生じない。
おのおのの人が自分の心の内部にあるコンプレックスを開発してゆく代わりに、それを補う人と結びつくことによって、手っ取り早く相補性を獲得する。
人間、そう簡単に自分の生き方はこうだと決めつけたり、型にはめたりしないほうが、人生、豊かなものになるのではないでしょうか。
世界の国々を見ても、貧しい国は活気があって当たり前です。食べものを確保するのに必死ですから、自ずと活気が生まれてくる。
親切な人が来て、「震災の体験をしゃべってください」「たいへんでしたね。 何かしゃべってください」と言ってきたりしますが、見ず知らずの人にしゃべっても、心が治まるはずはないのです。この人になら言えるという人にしゃべってこそ意味があるのであって、そのところが不問にされている。
だいたい心の問題は、「急がば回れ」の解決法が得策のように思われる。
親の命令が画一的で、一から十まで、きちんと統制がとれている家庭の子は危険です。それに対して多少の悪さやいたずらをしても大目に見てもらえる家庭の子は、あまり心配しなくてもいい。
悩みをなくしたいと望んで心理療法を求めるクライエントは少なくないが、悩みをなくすというよりも悩みを悩みやすい形に変容させるのが心理療法の実態であり、治療者の役割は、クライエントの問いがクライエント自らの力で問えるような形になるまでクライエントに付き合うことだと言えるかもしれない。
心理療法を受けに来る子どもで難しいのは、“扱いやすい子でした”という場合です。ひょっとしたら、子どもは信号を出していたのに親が気づいていなくて、それで扱いやすいと思っていたのかもしれない。あるいは、親が気づかないので、だんだん出さなくなってきたのかもしれないわけです。
自我(エゴ)と自己(セルフ)。自我は変革可能だけれども、自己は無限の可能性みたいなものだ。
善は微に入り細にわたって行わねばならない。
自分の持っている器量とか決断力をもっと信じなきゃ。信じて開発しなきゃ。
一本道を必死に走っている人たち。いったいどこへ向かおうとしているのでしょうか。終着駅が見えているのでしょうか。人生には終着駅などありませんよ。それに、もしその道が行き止まりだったらどうしますか。
人間だけがなぜ自然から切れようとする傾向を持っているのかはわからない。「思考する」というのはとても不思議な行為で、人間が獲得した特殊技能である。これは、自分というものが世界と別個に存在しているという意識を持つことに起因する。そして、その自分をどうすべきかを考えることを記したのが、神話なのである。すべての神話には、「人間が意識を持つとはどういうことか」が書かれていると言っていい。
「勝手にせよ」と突き放すことは、その子どもを理解していないからできること。
泣くことも悲しむことも人生のなかの重要な要素である。
ある個人の存在が深くかかわってくるとき、そこには、同じことは起こらなくなってくるし、まさにそのときに、(忠告においては)その人にのみ通じる正しいことが要求され、それは、一般に人が考えつく、100%正しいこととは、まったく内容を異にするのである。
うっかり他人のことを真に理解しようとし出すと、自分の人生観が根っこのあたりでぐらついてくる。これはやはり「命がけ」と表現していいことではなかろうか。
「せっかく生まれてきたこの世で、自分の人生をどのような物語に仕上げていこうか」という生き方の方が幸せなんです。
一人の人間が生きるというのは、すごいことです。
いま、自分の思いどおりにいくことがありすぎる時代です。ところが、いくらお金があっても、絶対に思いどおりにならないのが家族であり、とくに自分の子どもです。
心のなかの勝負は51対49のことが多い。
人間は短期間だけ親切になることは容易である。
相手に欠点がないように思われ、何もかもうまくゆくのだったら、その人とつきあうことは当然であり、利己的に言っても価値のあることだから、別に愛などという必要はないかもしれない。
親が子どもに依存しても何もおかしくはないのである。というよりは、互いに独立性があるからこそ頼り合うこともできるのである。
“絆を深める”とぼくが言うときは、絆の糸を長くして、ずっと深めていくのが理想なんです。お互いの関係の深いところを、なるべく遠く、それこそ“無限遠点”にまでもっていく。その点を介してつながっていれば、相手がどこか遠くへ行ったって大丈夫。一番深いところでつながっているわけですから。…その糸を、短くして強めている人は、相手をコントロールしているだけです。
会社という道。家庭という道。それぞれが別の道であることをもっと意識することです。もちろんそれ以外にも趣味の道や友人との道もあるでしょう。自分の中にはたくさんの道があることを忘れてはいけません。たくさんの道があるからこそ、行き止まりの道を引き返す勇気が生まれるのです。
文明の発達によって、苦しいことや悲しいことを少なくすることができて来たため、人間は苦しみや悲しみをすべて避けるべきであるとか、避けることができるとか考えるような錯覚を起こしはじめたのではないだろうか。
一見無関係のように見える事象が、「つなぐ」ことによって「物語」になるし、その「つなぐ」行為によって、物語る人の主体が関わってくる。
思い屈するような心萎える時間こそ、心が撓(しな)っている状態で、重い雪をスーッと滑り落としているときなんだから、それを肯定し自分を認める。ああ、そうか、俺はまだやわらかな、撓う心を持っているんだと感じて、憂鬱で無気力な自分をも認めたほうがいいんじゃないでしょうか。
ほめたらつけあがるなんてことはまずありません。もっと子どもを信用していい。子どもを信用できないのは、つまりは自分を信用していないからなんです。
ゆっくり話を聞いてくれる人が目の前にいると「本人が自分で答えを見つける」ということが起こります。
自立しているものこそお互いに接触し、頼るべきときは頼って生きているが、十分に自立していない人間は、他人に頼ったり、交際したりするのを怖がるのだ。
「話さば聞け、話さなくとも聞け」相手が沈黙していても、沈黙の背後にある言葉を聞こうとするほどの態度が必要だ
物で溢(あふ)れた豊かな国は、(食べ物の確保の)その上を行かなくては幸せにはなれません。心を遣(つか)って自分なりの幸せを探さなくてはならない。そしてそれは、とても難しい作業でもあるのです。
仲のいい人とか、親類の人とか、あるいは全然知らない人でも同じ体験をした者同士だとか、人間と人間の心の交流があるところで怒りや悲しみを出すから意味があるのです。
うそは常備薬、真実は劇薬。
自分の根っこをぐらつかせずに、他人を理解しようとするのなど、甘すぎるのである。
依存のない自立は孤立というべきで、それでは関係が切れてしまっているんです。自立というのは親と子の間に新しい関係を作ることです。
一般に「善人」は他人の気持ちにノーマークの人が多い。
子どもを“幸福な状態”に置くことによって親が安心しようとするのは、親の勝手というもので、子どもの幸せを中心にしていない。ほんとの幸福とは、その子が“自分の人生を生きられる”ということなんです。
宗教はあくまで個人のものである。あくまで自分とのかかわりにおいて──自分の死も含めて──世界をいかに見るかということである。
人は傷つくことで成長していく。先生の役割は、傷をつける役割だ。
平均寿命が長くなるのは良いが、多くの老人がいかに生きるか、そして、いかに死ぬかの問題に悩んでいる。
科学の発達によって、われわれが多くの苦痛を和らげたり、減少させたりできるにしろ、人間存在に固有の(苦しみや)悲しみはなくならないのである。そして、実のところ、そのような感情こそ、人間の個性をつくり出してゆくために必要なことなのである。
いまの人は、みんな、「何かしなければ」と思いすぎる。
人間というものは自分で自分を知らない鉱山のようなもの。自分を生きるということを考え始めると、「こんなこともできるんじゃないか、これもやれるんじゃないか」――と自分を発見することができます。
問題児というのは、われわれに「問題」を提出してくれているのだ。
子どもに「これ、読め」なんて言うとぜったい読まない。だけど「見てはいかん」と言えば、こっそり見に来て「案外おもろいやないか」。
ボランティアの人たちは、よほど謙虚な気持ちをもっていないと、思いがけない害を他人に与えることになると自戒していただきたい。