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武田信玄

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武田信玄は、戦国時代に活躍した武将であり、甲斐の名家・武田家第16代当主でありました。信玄は甲斐源氏の嫡流であり、信虎期に武田家は守護大名から戦国大名へと体制を維持し国内を統一することに成功しました。信玄は信濃への侵攻と越後国の上杉謙信との川中島の戦いを経て、駿河・西上野・遠江・三河・美濃・飛騨などの一部を領しました。大永元年に三河で病を発し、信濃への帰還中に病没しました。

組頭(くみがしら)つねに自ら働けば、組下(くみした)の者は、組頭なくては戦う能(あた)わずして、散る。
人は自分のしたいと思ふことをなさずに、いやと思ふことをなせよ。
今後は、一人働きは無用である。足軽を預かっていながら独りよがりの行動をとれば、組の者は組頭をなくし、味方の勝利を失うことになるからだ。
人は、少し鈍なる者を仕込みたるがよし。
我、人を使うにあらず。その業(わざ)を使うにあり。
勝敗は六分か七分勝てば良い。八分の勝ちはすでに危険であり、九分、十分の勝ちは大敗を招く下地となる。
もう一押しこそ慎重になれ。
勝負のこと、五分・六分・七分の勝ちは十分の勝ちなり。子細は八分の勝ちはあやうし。九分・十分の勝ち、味方大負の下作りなり。
風林火山──疾(はや)きこと風の如く、徐(しず)かなること林の如く、侵掠(しんりゃく)すること火の如く、動かざること山の如し。
人のつかひ様(よう)は、人をばつかはず、わざをつかふぞ。又(また)政道いたすも、わざをいたすぞ。
渋柿は渋柿として使え。継木をして甘くすることなど小細工である。
弓矢の儀、取様の事、四十歳より内は、勝つやうに、四十歳より後は負けざるやうに。
戦いは五分(ごぶ)の勝利をもって上(じょう)となし、七分を中となし、十分(じゅうぶ)をもって下(げ)となす。五分は励みを生じ、七分は怠りを生じ、十分は驕(おご)りを生ず。
進むのはむしろやさしく、退(しりぞ)くのはかえってむずかしい。人というものは、いかに生きるかを考えるより、いかに死ぬかを思案しなければならない。どのように進むかより、どのように退くかを考えることが肝要なのだ。
能(よ)き武士は、惣別(そうべつ)人の腹立つ事を我(わが)方よりはせぬものなり。
負けまじき軍に負け、亡(ほろ)ぶまじき家の亡ぶるを、人みな天命と言う。それがしに於(お)いては天命と思はず、みな仕様の悪しきが故(ゆ)と思ふなり。
甘柿も渋柿も、ともに役立てよ。
人は城、人は石垣、人は堀、情けは味方、仇(あだ)は敵なり。
戦に勝つということは、五分を上とし、七分を中とし、十分を下とする。
武将の陥りやすい三大失観。一、分別ある者を悪人と見ること一、遠慮ある者を臆病と見ること一、軽躁なる者を勇剛と見ること
人間はただ、自分がしたいと思ったことをせず、いやだと思うことに努めるならば、それぞれ身を全うすることができるものだ。
三度ものをいって三度言葉の変わる人間は、ウソをつく人間である。
いくさというものは、六、七分の勝利で十分である。八分の勝利は危うし。九分、十分の勝利は、味方の大負けの下作りなり。
為せば成る為さねば成らぬ成る業(わざ)を成らぬと捨つる人のはかなき
一日ひとつずつの教訓を聞いていったとしても、ひと月で三十か条になるのだ。これを一年にすれば、三百六十か条ものことを知ることになるのではないか。
老人には経験という宝物がある。
人を使わず、その技を使う。
信頼してこそ、人は尽くしてくれるものだ。
百人のうち九十九人に誉めらるるは、善き者にあらず。