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アウレリウス

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アウレリウスは古代ローマの氏族名で、南欧諸語のアウレリオなどはそれに由来しています。イタリアを母国とし、1961年3月26日に誕生した政治家であり、有力な影響力を持つ政治家でもあります。

他人に関する思いで君の余生を消耗してしまうな。
各々の物はそれが創られた目的に向かって惹かれる。惹かれるものの中に、各々の目的がある。目的のある所に各々の利益と善がある。
何かが起こって落ち込んだら、痛みの原因はその起こった事ではなく、それにかけていた期待である。そしてこの期待は、いつでも自分で取り消せる。
不可能事を追い求めるのは狂気の沙汰である。ところが悪人がこのようなことをしないのは不可能なのである。
エメラルドは人にほめられなくても、その価値を失わない。
忍耐は正義の一種である。
あたかも一万年も生きるかのように行動するな。不可避のもの(=人生の終わり)が君の上にかかっている。
変化することは、物事にとって悪いことではない。同様に、変化の結果として存続することは、物事にとって善いことではない。
人は、ちっぽけな夢などでは満たされない、大いなる存在である。
今の瞬間だけに生きよ!
世界とは永遠の変移であり、人生とは迷妄である!
何かをするとき、いやいやながらするな、無思慮にするな、心に逆らってするな。
物言わぬ先から、人の言おうとすることを、顔つきから読み取れなければならない。
人生を建設するには一つ一つの行動からやっていかなくてはならない。
なによりもまず、いらいらするな。なぜならすべては宇宙の自然に従っているのだ。
もっともよい復讐の方法は、自分まで同じような行為をしないことだ。
宇宙は変化そのものだ。
幸運をもたらす富や順境は素直に受け入れよ。ただし、それを手放すときは渋るべからず。
怒りの結果は、怒りの原因よりはるかに重大である。
自分に欠けているものよりも、自分がすでに持っているものについて思いをめぐらせ。
人間にふさわしい態度は、死に対して無関心であるのでもなく、烈しい気持ちをいだくのでもなく、侮蔑するのでもなく、自然の働きの一つとしてこれを待つことである。
ここで生きていくのなら、もう慣れている。よそに行って生きるのも、君の望み通りにできる。死ぬとすれば、使命を終えただけのことだ。他には何もない。だから勇気を出せ。
人生は闘争にして、また過客の仮の宿なり。
せいぜい自分に恥をかかせたらいいだろう。恥をかかせたらいいだろう、私の魂よ。自分を大事にする時など、もうないのだ。人の一生は短い。
宇宙はただひとつの物質と、ただひとつの魂とを有する一つの生き物としてつねに考えよ。
我々が死によって失うものは、時間のわずかな一部、現在の一瞬のみ。
善い人間の在り方について論ずるのはもういい加減で切上げて、善い人間になったらどうだ。
君はいつでも好きな時に、自分自身の内に引きこもることができるのである。実際いかなる所といえども、自分自身の魂の中にまさる平和な閑寂な隠れ家を見出すことはできないであろう。
何よりも次の二つの真理を記憶せよ──まず第一に、外界は君の魂に触れることはできず、常に揺るぎなく外部に立つものであるから、君の内面の平和は君の想像からのみ生じるということ、そして第二に、君が今、目の前に見ているものは、たちまち変化して、もはや存在しなくなるということだ。
真実は君の顔に書いてあるし、声にもあらわれる。恋人同士が目を見るだけで、あらゆることが分かり合えるのと同じく、やがて分かることなのだ。
「私は君に対して率直に振る舞うことにした」こんなことを言う人間は、なんと腐った卑しい人間であることか。いったい何がしたいのか。口に出して言うべきことではない。
人の一生とは、その人が人生をいかに考えたかである。
苦しみは、苦しむ者がその限界を知っていて、その恐怖に想像を加えなければ、堪えられないこともなく、また永続するものでもない。
君について、誠実でないとか、善い人間でないとか、そういったことを嘘を伴わずに言える権利を誰にも与えてはならない。
目的なしに行動すべきにあらず。
人の一生は、その人の想像力の色によって染められる。
仮に君が怒って破裂したところで、彼らは少しも遠慮せずに、同じことをやりつづけるであろう。
万物は流転している。汝自身も絶え間なく変化し、少しずつ衰退してゆく。そして、全宇宙は汝と共にある。
我々の人生は、我々の思考によってつくられる。
ある事をなした為に不正である場合のみならず、ある事をなさぬ為に不正である場合も少なくない。
善事をなして悪く言われるのは、王者らしいことだ。
幸福な生活をするのに必要なものはほとんどない。それはあなた自身の中、心のもちようにある。
人生とは、自らの想いを実現することである。
おまえの心を明るく楽しくしようと思うならば、共に暮らす人びとの長所を思え。
怖れるべきは死ではない。真に生きていないことをこそ怖れよ。
君の覚えた小さな技術をいつくしみ、その中にやすらえ。
自分の内を見よ。内にこそ善の泉があり、この泉は君がたえず掘り下げさえすれば、たえず湧き出るであろう。
ひどく悩んだり、我慢ならぬと思ったとき、人生は束(つか)の間であり、いつかは誰でも葬り去られることを思え。
太陽が雨の役目を果たそうとするだろうか。彼らはそれぞれ異なっていながら、同一の目的に向かって協力してはいないだろうか。
遠からず君はあらゆるものを忘れ、遠からずあらゆるものは君を忘れてしまうであろう。
未来を思いわずらうな。必要ならば、君は今現在のことに用いるのと同じ理性をたずさえて、未来のことに立ち向かうであろう。
悪をなす者はみずからにも悪をなす。
そんな目に逢うのも当然のことだろう。君は今日善い人間になるよりも、明日なろうっていうのだから。
「このキュウリは苦い」ならば捨てるがいい。「道にイバラがある」ならば避けるがいい。それで充分だ。「なぜこんなものが世の中にあるんだろう」などと付け加えるな。そんなことを言ったら自然を究めている者に笑われるぞ。
自分の扱っていないものを求めて悩むのは止めて、同じくらい熱心な気持ちで、自分のすでに扱っているものを楽しもうではないか。自分の最上の所有物を取り上げて、もしそれがなかったら、どんなに懸命に探し求めていたことか、考えてみることだ。
人間の真の価値は、何を目指すかによって判断される。
人間はお互い同士のために創られた。ゆえに彼らを教えるか、さもなくば耐え忍べ。
人間の生の営みはすべて、今にある。過去はすでに為されたものであり、未来は不確かなものだから。
人に善くしてやったとき、それ以上の何を君は望むのか。君が自己の自然にしたがって行動したということだけで充分ではないか。
人間的なことがいかにはかなく、くだらなく、かつ昨日の小敵が今日のミイラあるいは灰になることを思え。
幸福な人生──それは内なる魂の力のおかげである。
いかなる自然も芸術に劣らず。芸術の仕事は全て自然の物事を真似ることなり。
人の一生は短い。君の人生はもうほとんど終わりに近づいているのに、君は自分に尊敬をはらわず、君の幸福を他人の魂の中に置くことをしているのだ。
己を律するためには、次のように考えるといい。お前は老人だ。これ以上、理性を奴隷の境遇におくな。身勝手な衝動に操られるままにしておくな。また、現在与えられているものに不満を抱いたり、未来に不安を抱くことを許すな。
隣人の語ること、行うこと、考えることを気にかけない者は、どれだけ多くの利益を受けることだろうか。
幸福はどこにあるのか?名誉を愛する人は、他人の行為の中にあると考える。快楽を愛する人は、自分の感情の中にあると考える。悟った人は、自分の行動の中にあると考える。
他人の過ちが気に障る時は、即座に自らを反省し、自分も同じような過ちを犯していないか考えてみるといい。
存在するものは、変化のためのみに存在することを忘れるな。
人生のあらゆることを、それが最後だと思って行いなさい。
(侵略者に対する)最も完全なる復仇(ふっきゅう)は、侵略者の真似をせざることなり。
名声の後には忘却あるのみ。
他人の厚顔無恥に腹が立つとき、ただちに自らに問うてみよ。「世の中に恥知らずの人間が存在しないということがありえようか」…「ありえない」と答えるだろう。それならば、ありえぬことを求めるな。
そう考えない自由が私にあるのだ。
なにか、悲しくなりそうなことに出会ったときは、つねに自分にこう言いきかせよ。これは不幸ではない、これに高貴に耐えることが幸福なのだと。
幸福は、その人が真の仕事をするところに存在する。
我々の人生は、思考が形づくる通りのものである。
みせかけの微笑を見せたり、心に仮面をかぶったりしない、真心のこもった、裸のままの親切には、人は決して抵抗できないものだ。もしこちらがあくまで親切を続ければ、たとえ良心のひとかけらもない人間でも、必ず受け入れてくれるだろう。
あなたを支配するのは、出来事ではない。その出来事に対するあなたの見方が支配するのだ。
大きな夢を見よう。大きな夢だけが人の心を動かす。
君の精神は、君の平生の思いと同じようになるであろう。なぜならば、魂は思想の色に染められるからである。
この世においては汝の肉体が力尽きぬのに、魂が先に力尽きるのは恥ずべきことではなきか。
君の重荷となるのは未来でもなく、過去でもなく、つねに現在である
名声を追う者は他人の行動に己自身の善をおく。快楽を追う者は己の官能に善をおく。しかし、賢者は己の行いに善をおく。
空中に投げられた石にとって、落ちるのが悪いことではないし、昇るのが良いことでもない。
もし君にできるのならば、(悪いことをした人間を)改心させよ。もしできないならば、かかる場合のためにこそ寛大というものが君に与えられているのだ、ということを思い起こせ。
競技場では、競技相手の攻撃を好意をもって避ける。人生という競技場でも、共に競技をしている人たちを大目に見てあげようではないか。人を疑ったり憎んだりせずに避けることは可能なのだから。
サイが投げられた自分の運命に自分自身を適応させよ。運命の女神が、共に生きるように定めた仲間を愛せよ。
過去も未来も自分を押しつぶすことはできない。自分を押しつぶせるのは現在だけだ。その現在ですら、もし適当に分割すれば、取るに足らぬものとなる。
生きているうちに、許されている間に、善き人たれ。