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ヘンリー・ミラー

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ヘンリー・ミラーは、女性遍歴が豊富であり、結婚は5回していることでも知られるアメリカの小説家である。ヨーロッパを放浪した後、1931年にシカゴ・トリビューンで仕事を得た。1934年、自伝的小説『北回帰線』をパリにて発表するが、本国アメリカでは、その奔放な性表現により発禁になる(1964年、連邦最高裁にて「猥褻文書ではない」とする判決が下された)。ミラーに影響を与えた、2番目の妻ジューン・ミラーについて制作された映画『ヘンリー&ジューン』もあり、彼の人物像を知る上で有効なものとなっている。

平和が見つからぬという者は、見つけようとする努力を怠った者だ。
開かれた生き方をしている人は媒体となり発信器となる。そして川のように、人生を充分に生き、命の流れとともに流れ、海として再び生きるために死ぬ。
どうにも動きようがなくなった時でさえ、人生は、常に新しい資本と材料を我々に与えてくれます。人生の元帳には、凍結資産などはありません。
明らかな事実でも意味のないことがあるから、人生は、意味を与えてもらわなくちゃいけない。
真のリーダーは人をリードする必要はない。ただ道を示してやるだけでよい。
大切なのは、けっして不安になりすぎないこと。すべてのことは、時がくればうまくいく。
大切なのはどの本、どんな経験を持つべきかではなく、それらの本や経験のなかに自分自身の何を注ぎ込むかだ。
女をかまいつけないようにすればするほど、女はあとを追いまわす。女には何かしら片意地なところがある。
安全な道を求める人は、痛みを(自分に)与えることのない義手義足に取り替えるために自分の手足を切り離す人みたいなものである。
金もないし、頼りになる人もいないし、希望もない。しかし、私は生きているから最高に幸せだ。
与えることと受けることは結局同じことで、その人が開かれた生き方をしているか閉じた生き方をしているかによる。
囚人とは罪を犯した者ではなくて、自分の罪にこだわり、それを何度も繰り返して生きている人間のことだ。
私は、生活のためという欺瞞によって機械的な前進をつづけるよりも、パンを手に入れるために銃をとって隣人を殺すやつのほうが好きだ。
何かに注意を向けた瞬間、たとえ草の一葉であろうとも、それは神秘的で、荘厳で、言葉では表すことのできない崇高な世界に変わる。
芸術家は集団では育たない。アリじゃあるまいし。若い芸術家志望者に必要なのは、孤独のうちに自分の問題と真正面から闘うという特権──そしてたまには牛肉も少々──である。
今、僕がひたすら望んでいる事は、存在すること…TO BEなんだ。どうか忘れないでほしいが、この不定詞は中国では「他動詞」なんだよ。
想像は大胆不敵な声だ。もし神に関して何か神にふさわしいことがあるとするなら、想像がそうだ。彼は敢然とすべてを想像した。
いくら受け取っても十分でないもの、それは愛である。いくら与えても十分でないもの、それも愛である。
人はみな自分の運命を持っている。唯一やれることは、どんな結末になろうと、それに従い、受け入れることなのだ。
過去にしがみついて前進するのは、鉄球のついた鎖を引きずって歩くようなものだ。
思えば、ひたすら自らの欲望のおもむくままに事をなし、果実を手に入れてきた。私にとって現実はつねに彼方にあり、理想がその手前にある。理想を追い続けていれば、それが現実になって、事をなすことができるのだ。
恐怖心や愛国心によって人を殺すのは、怒りや貪欲によって人を殺すのとまったく同じく悪い。
あらゆる出来事は、もしそれが意味を持つとすれば、それは矛盾を含んでいるからである。