榎本栄一のプロフィール画像

榎本栄一

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榎本栄一は1903年10月に兵庫県淡路島三原郡阿万町で生まれる。5歳の頃に大阪に移り父母が小間物化粧品店を始めた。学生時代には父が死亡し母と家業に精を出す。念仏のうたと称する仏教詩を書き、1994年仏教伝道文化賞を受賞した。

大根が先生で私は弟子なんの驕りもないありふれたこの大根のようになれと先生は 教えてくれる
業(ごう)を 背負いここまできたがこれからは 業に背負われ最後の旅をつづけます
ヘトヘトになってここまできてまだここにいるのはなにかふかいわけがありそう
この世 あの世と申すは人間の我見ごらんなさいこの無辺の光の波を境界線はどこにもない
ここには虫けらや人間何億種類のいのちあれど人間だけがここを 我欲でよごす
私に苦悩があるのは私にいのちの火がまだ少し燃えているから
私は鈍感だから人間であることのふかい味わいは最後のさいごまで生きてみないとわからぬようにおもう
私にながれる命が地に這う虫にもながれ風にそよぐ草にもながれ
すぐれし陶芸家はもとより尊いが一つ百円余りの茶碗をお作りくださる陶工さまもこの世にはだいじである
私は銭湯が好きである銭湯にはいっていると自分が世のなかの他の大勢のひとりであることがよくわかる
持病あるは ありがたし持病あるゆえ無理しようにもできないのが ありがたし
やはりこの草むらが私にいちばんふさわしいここで天日(てんじつ)さまを仰ぎ虫の修行 つづけます
未熟には たのしみがあるまだ 日月に照らされこれから 熟するというたのしみがある
才能というようなものなんにもないただ自分のなかから豆つぶのような仏さまがときどき うまれてくださる
青い鳥は大空のどこにもいない相手の立場になり考えていたらどこからか とんでくる鳥
年とるにつれ弱るにつれ尽きぬいのちが私の底から涌(わ)いているのをいつしか拝むようになり
としをとることも喜びだ今までわからなかったことが少しずつわかってくるから
こころのなかの井戸をこつこつと掘り下げて行ったら底から阿弥陀仏が 出てきた
百人千人をすくう人あり家のもの一人をもすくいえぬ私もあり
口に入れるものや手にふれるものをだいじに扱うているとこの一にちがとうとくなりこのいのちがふかくなり 
この朝のわかめ海からここへくるまでにいくにんの手がはたらいたかひとからひとへと
猫に小判というがあわれ人間はその小判に目がくらむ
この濁りある沼が私の浄土でございますとあるときいっぴきの鮒が申しました
私がまいにちいきるのにどれだけ多くの動物や植物のいのちを頂戴していることか
百年たてば自分の子や孫もなくなり泥まみれの私の生涯を知る人もなくなるだろう然(しか)しそこに 草が繁り虫が生きていたら 私はうれしいな
突っかい棒がひとつ またひとつひとりでにはずれいまは わがいのちひろびろさて これから
風雪何十年の人間に永遠の眠りがくるのはふかい 慈悲であることがようやくわかってきた
行詰まって身動きできなくてもいつか ほぐれてみな 動きだす
大根はいいな味がないようで味があり私はこの年になってまだ大根の味がだせないようだ
どうにもならんことはそっとそのままにしておく
やはり私悟りひらくのはかの土(ど)へ行ってからこの土の悟りにはかすかに 慢心がのこる
つる草はひょろひょろしながらいのちのままにつるのばす
おなじようなことくりかえす日日であるがこの日日から私は いろいろなことを無尽蔵に学ぶ
再び通らぬ一度きりの尊い道をいま歩いている
身をすててこそと承るがそのすてるちからが私にはないのでようすてぬままに大悲の中をほくほくあるいている
世に埋もれた今のままがこころやすらかでつきぬ醍醐味があるようです
朝 起きて水をつかい夜 電灯を消して寝るまで世の中の無数の人のちからに助けられている私である
もしも私が小賢しい手足引っ込めたらダルマさんみたいにたのしくコロリコロリ
おまえ 七十年も歳月を浪費して何を悟ったかハイ 天狗の鼻が折れました
この泥沼にはまだ華ひらかぬはすの根がしずかに息している
私は 現世(げんぜ)だけを見ていたが過去もむげん未来もむげんいのち茫茫(ぼうぼう)はてがない
波瀾万丈の世の中をふりかえればなにごともないようにほのぼのと光
うまれつきの下手をかざらず世の中へわけ入りここにきて目の前ひろびろ
ひとの世にある悪は私もこころの中で犯しているただそれが人前(ひとまえ)にあらわれぬだけ
人間が世間の隅で苦労して生きてゆくすがたはあの国宝の仏像より尊い
いくら剃(そ)ってもこの髭(ひげ)は私がいのち終るまで生えるのだろう今朝は 何かいとおしくなでてみる
冬の葱(ねぎ)はきびしい寒気の中でかたくならずに柔らかくなる
わが行く手が暗くなるにつれ自分の思い上がりがみえはじめしんしんとみえはじめ
私のなかに業(ごう)がふりつもり業の落葉がふりつもり腐植土のようになりながいとし月には私の肥料(こやし)になり
よくよく見ればこの旅びとがあるくのはきのう通った道でない
日日のいろんな出来事はこの永劫の海の 寄せる波どの波も何かしみじみ尊くて
さかなひと切れ胡瓜わかめ 酒すこし私の今日が終わるこれが一生の終わりであってもよろしい
雀チョンチョン一所にとどまらないあのかるさをまなびたい
にぎやかでもなくさびしくもなく私にはここが一番おちつくところ
このいのちたまわりようやく自分の内面(なか)がみえはじめたのは六十の山をこえるころから
人間はみなたれも通ったことのない自分が はじめて通る道を一生かかってあるく
なんでもないことだが私のぐるりをただ あたたかく見るだけひとつこの修行をしてみよう
肉体はおとろえるがこころの目がひらく人間の晩年というものはおもしろい今日まで生きていのちのふかさが見えてきた
底下(ていげ)の凡夫が一心にていねいに此(こ)の土(ど)を掘っていると土くさい仏が出る
けつまずいてこころくじけたが私はここで正味の自分に会いました
漬物には重石がだいじである私という漬物にこれは 天からいただいた重石どうぞよい味に漬かってくれ
私という柿熟するのは私の 死後になりそうだな何しろ この柿熟するのにまだながい年月がかかるので
たかぶりの血あまり頭にのぼらずここ 底辺にいるおかげ
むかしまいた小さな種がわすれたころにぼつぼつみのる
如来は人間を自由にさせてくださるが人間はあたまをうってから眼(め)がすこしひらく
私はこの海でまいにち小舟を漕いでいますゆく先はわからぬがわからなくともよいのです
何ごとがおきようともここにいのちいただく限り道はひらける
生きとしいけるものときにいさかいながらも無辺の いのちの海生かされておりこの私も
世の中には人さまの気づかぬ落穂があるので私はだいじにそれを拾いあげます
この不完全な私が順縁 逆縁あらゆる人びとからお育てをいただくここは仏捨てたまわざる世界
なにごともじわじわがよろし季節の移ろいゆくがごとく
天は最大の教育をしてくださるがあわれこの生徒は天のみこころがなかなかわからずもがく
にちにち出会うなんでもないあたりまえの人をひそかに拝めるような私になりたい
一寸先は闇というよくみればその闇は私の中にあるときには月ものぼるが
私は梅あなたは桃花のいのちはどこかで一つに解け合っている私は梅に咲きあなたは桃に咲く
くだり坂にはまたくだり坂の風光がある
無理しないという細い道がようやくわかりかけた然(しか)しまだときどきふみはずす
ながい道あるいて自分の無才無力がようやくわかりましたもう力まずにあるけそうです
過去の足あと今の足あと今が拙劣でもよいただ同じでなかったらよい
うかびあがろうとするなじっと沈んでいよここ波にうごかぬたしかな海底
私の心の海は毎日波だちますが底から何かうまれそうなのでそれをじっと見ています
この線路はここから無限につづいているが途中の駅でいちど乗り換える
薄日さすこの道遠くつづきまだ際涯(はて)はみえません
妻とふたり小さい あきないをするのだが妻は このあきないを小さいとは思わず精を出す
私のあたまにつのがあったつきあたって折れてわかった
あるとき目がひらけば天から何か降り地から何か湧いている私はただそれを拾う拾い屋さん
人間に生まれこの煩悩にくもる目で無限を覗(のぞ)くたのしみを教えられ
小学生が自転車で得意そうにジグザグ私もこのようなことをふとしているのではないか仏 照覧の世の中で
同じように見えるがきょう咲いた花はきのう咲いた花と同じでない
あの人この人もう一度話したいとおもう人は茫茫とした歳月のなかにいる
私が漕ぐ舟は海図もない島へ着きまた出発するあとへは帰らない
真珠貝は 海の中で何かコロコロするような異物を抱いたまま今は それを除きたいともおもわず生きている
またひとつしくじったしくじるたびに目があいて世の中 すこし広くなる
仏法にふれるには身辺のなんでもないことをただ こころをこめてすること
門ひとつくぐると未知の風光がひらけ道があって行けばまた門がある
人間は何十億いるのに私とおなじ人間がどこにもいないのはフシギなことだこの私のなかに無限のせかいがあるのはさらにフシギなことだ
私の奥底には色もかたちもない泉があって私が邪魔しなければ尽きずに 涌くようです
私を見ていてくださる人があり私を照らしてくださる人があるので私はくじけずに今日をあるく
重い墓石の下へはゆかぬ縁ある人びとのこころの中が私のすみか
人も草木も虫も同じものは一つもないおなじでなくてみな光る