榎本栄一は1903年10月に兵庫県淡路島三原郡阿万町で生まれる。5歳の頃に大阪に移り父母が小間物化粧品店を始めた。学生時代には父が死亡し母と家業に精を出す。念仏のうたと称する仏教詩を書き、1994年仏教伝道文化賞を受賞した。
石川啄木は日本の歌人、詩人であり、東京に新聞の校正係として勤める傍ら、小説家を志すも失敗したが、1910年に三行分かち書き形式の初の歌集『一握の砂』を刊行し、名声を得た。結核により満26歳で没したが、彼の作品は今でも人々の心に残っている。
ジョージ・ゴードン・バイロンは、第6代バイロン男爵として知られ、ロマン派の詩人として19世紀に人気を集めた。『チャイルド・ハロルドの遍歴』などの長編物語詩を発表し、ギリシア独立軍に参加したが、熱病にかかって没した。
糸井重里は、日本のコピーライター、エッセイスト、タレント、作詞家であり、株式会社ほぼ日代表取締役社長、フィールズ株式会社社外取締役でもある。群馬県立前橋高等学校を卒業し、バンドを組みたくなり、10台のオルガンやピアノを販売するなど、稼ぐためのサイドワークをした。有名人である樋口可南子の妻でもある。
レオナルド・ダ・ヴィンチは、ルネサンス期を代表する芸術家であり、芸術家、画家、博学者、科学者、占星術師、鏡文字、音楽など多様な領域で活躍したアイデンティティーを持つ人物である。
ヘンリック・イプセンは、ノルウェーの劇作家、詩人、舞台監督であり、近代演劇の創始者として「近代演劇の父」とも言われています。代表作として『ブラン』『ペール・ギュント』『人形の家』『野鴨』『ロスメルスホルム』『ヘッダ・ガーブレル』などがあります。彼はノルウェーを嫌い、長くドイツやイタリアで生活しましたが、現在では国の象徴として尊敬され、ノルウェーの最高額面の100クローネに使用されています。
七代目立川談志は、落語家であると共に政治家としても活躍した有名人です。古典落語に広く通じるほか、講談、漫談なども得意としていました。落語立川流を率いる家元としても知られており、「江戸落語若手四天王」と呼ばれていました。
ヴァン・ゴッホは、オランダの画家、版画家、詩人、作家である。彼は、象徴主義、印象派、表現主義などの芸術運動を牽引した。彼の最も有名な作品は、「スターライト・ナイト」、「サン・レミーの聖母」、「アイスランドの農夫」などである。彼は、自然の芸術的な表現を求めて、様々な場所を旅した。彼は、自然を描くことで、芸術的な表現を探求した。
フランスの彫刻家であるフランソワ=オーギュスト=ルネ・ロダンは、19世紀を代表する彫刻家として『近代彫刻の父』と称ばれ、『地獄の門』などの代表作を残した。10歳の時に絵を描くのを始め、14歳の時に小さな学校に入学したという。その後は特に青年期以降はほとんど独学で彫刻を習得した。
ハリール・ジブラーンはレバノン出身の詩人、画家、彫刻家である。1883年1月6日にレバノン北部の山間部の村ブシャッレに生まれた。母親と兄1人・妹2人を連れて1895年にアメリカ合衆国のボストンへ移住した。その後、アラビア語の高等教育を受け、母親の兄の助力もあり、1904年にボストンに有名なデイツマン・アカデミー(Deering High School)卒業した。1931年にニューヨーク市で没した。
アメリカの詩人であり、彼女の詩にはタイトルがなく、推定創作年順に全作品を並べたジョンソン版とフランクリン版のコレクションの番号で、J323(ジョンソン版の323番)、F14(フランクリン版の14番)といった形で呼ばれるか、詩の1行目が通称となっている。マサチューセッツ州ニューイングランドのアマースト(アーマスト)で、政治や教育の世界で勢力のあった有名な家庭に生まれた。
さだ まさし(本名:佐田 雅志、1952年4月10日 - )は、日本のシンガーソングライター、俳優、タレント、小説家。國學院大學、東京藝術大学客員教授。ファンとスタッフの間では「まっさん」の愛称で親しまれている。フォークデュオのグレープでメジャーデビュー。「精霊流し」のヒットにより全国にその名を知られるようになった。ソロシンガーになってからも「雨やどり」「案山子」「関白宣言」「道化師のソネット」「親父の一番長い日」「北の国から〜遥かなる大地より〜」など、数々のヒット曲を生み出す。2019年10月6日時点で、日本で最も多くのソロ・コンサートを行った歌手でもあり、その回数は4,400回を越えている。トークの軽妙さは大きな魅力とされており、それで自身のコンサートのお客を楽しませ、またテレビ・ラジオ番組のパーソナリティーやMCなどとしても活躍。小説家としても活動した。
俵万智は日本の歌人、エッセイストである。大阪府北河内郡門真町(現門真市)で生まれ、福井県立藤島高等学校に入学し、演劇部に所属した。指定校推薦で早稲田大学第一文学部に入学、日本文学専修に進級した。在学中に佐佐木幸綱に師事し、短歌の世界に入った。1985年に大学を卒業し、神奈川県立橋本高等学校の国語教員として働きながら発表した短歌で第31回角川短歌賞次席を受賞した。翌年は『八月の朝』で第32回角川短歌賞を受賞した。
星野 富弘は日本の詩人、画家であり、キリスト教徒でもある。群馬県勢多郡東村神戸で1946年4月24日に生まれ、1970年に群馬大学教育学部保健体育科を卒業した。6月17日のクラブ活動の指導中の墜落事故で、頸髄を損傷、手足の自由を失うが、病室で筆をくわえて文や絵を描き始める。1979年に前橋で最初の作品展を開き、雑誌や新聞に詩画作品やエッセイを連載する。1982年、高崎で「花の詩画展」を開催。1991年に群馬県勢多郡東村に立館した「村立富弘美術館」があり、花の詩画展は国内外で開催されている。
ジェフリー・チョーサーはイングランドの詩人であり、当時の教会用語であったラテン語、当時イングランドの支配者であったノルマン人貴族の言葉であったフランス語を使わず、世俗の言葉である中英語を使って物語を執筆した最初の文人とも考えられている。1343年頃生まれのそのジェフリー・チョーサーはイプスウィッチの豪商の家系であり、祖父と父はロンドンの豊かなワイン商人の家に生まれた。父ジョンを大金持ちの叔母が無理やりに連れ出し、自分の12歳の娘と結婚させて跡取りにしようとしたことがあり、そのため叔母は投獄の上に250ポンドの罰金を支払うこととなった。結局父はその娘と結婚し、叔母の所有するロンドンの大店舗を受け継ぐことになった。
フジコ・ヘミングはロシア系スウェーデン人の画家である父親と、日本人ピアニストの母親から育てられ、ヴァイマル共和政下のベルリンで生まれました。5歳から母親の手ほどきでピアノを始め、10歳からレオニード・サルトレーイ率いるロシア系ドイツのピアニストの指導を受けました。日本とヨーロッパ・アメリカで活躍するピアニストとして幅広く活動しています。
高村光太郎は、日本の詩人・歌人・彫刻家・画家である。歴史上の人物でもある。父は彫刻家の高村光雲で、弟は鋳金家の高村豊周、甥は写真家の高村規である。1883年(明治16年)に東京府東京市下谷区下谷西町三番地(現:東京都台東区東上野一丁目、二丁目付近)に生まれ、当時は練塀小学校(現:台東区立平成小学校)に入学していた。著作には評論や随筆、短歌などがあり、『道程』『智恵子抄』といった詩集が有名である。日本文学史上、近現代を代表する詩人として位置づけられる。
田口ランディは、日本の小説家、エッセイストです。1996年、エッセイ『忘れないよ!ヴェトナム』を発表し、2000年6月に長編小説『コンセント』を上梓して小説家としてデビュー。性的オカルトを特徴とする複数の著作があり、2001年には『できればムカつかずに生きたい』で第1回婦人公論文芸賞を受賞。
初代准男爵サー・ウォルター・スコットはスコットランドの詩人であり、ロマン主義作家として歴史小説で名声を博した。1771年エディンバラに生まれ、父は弁護士、母は医学部教授の長女であり、祖先はスチュアート朝の庶流の分流である。幼時3歳時に小児麻痺で左足を不自由にしたが、スコティッシュ・ボーダーズ地域で古い史譚やおとぎ話などの伝承文化から多くの影響を受けた。
河井寛次郎は、1890年(明治23年)安来町(現安来市)に誕生した日本の陶芸家である。松江中学を経て、1910年東京高等工業学校(現東京工業大学)窯業科へ入学し、師弟関係を重んじる陶工の世界に新しい世代の陶工となる。京都市陶磁器試験場で、1万種以上の釉薬の研究や、中国陶磁の模倣や研究を行った。同時に彫刻、デザイン、書、詩、詞、随筆などの分野の作品も残している。
1934年に本名の「山下清泉」で満州国(現・中国遼寧省瀋陽市)から小学生の時大阪府茨木市に引き揚げたジェームス三木は、高校2年の時、演劇部で自ら主演・演出した芝居が大阪府高校演劇コンクールで1位入賞し、俳優志望となり上京して俳優座養成所に入所した。しかし、学費や生活費を稼ぐために忙しすぎて落ち、市原悦子らと同期になった。脚本家、作家、演出家、元歌手として多くの作品を残している。
佐藤春夫(1892年~1964年)は近代日本の詩人・小説家であり、艶美清朗な詩歌と倦怠・憂鬱の小説を軸に、文芸評論・随筆・童話・戯曲・評伝・和歌など多岐に活動を行いました。筆名を潮鳴、沙塔子、能火野人と称し、明治末期から昭和まで旺盛に活動しました。
東山魁夷は、日本の画家、版画家、著述家で、昭和時代を代表する日本画家の一人であり、風景画の分野では国民的画家といわれる。1908年に神奈川県横浜市の海岸通で生まれ、兵庫県立第二神戸中学校(現:兵庫高校)を経て、東京美術学校(現:東京芸術大学)の日本画科へ入学。帝国展の入賞をきっかけに有名になり、第2回日独交換留学生としてドイツのベルリン大学(現:フンボルト大学)に留学、国内外で多くの展覧会を開催、文化功労者や名誉市民などの名誉を授かった。
シシリー・タイソンは、アカデミー助演女優賞にノミネートされた有名な女優である。彼女は1924年にハーレムで生まれた黒人の女の子として、ニューヨーク市の貧しい家庭で育ちました。彼女は子供の頃からモデルとして活躍し始め、1956年に映画芸能界へ入りました。歴史的な黒人テーマの脚本を伴う作品で活躍し、数多くの賞を獲得しました。そのキャリアを経て現在も多くのドラマや映画で続いて活躍中です。'
フェルディナン・ヴィクトール・ウジェーヌ・ドラクロワは19世紀フランスのロマン主義を代表する画家であり、1798年4月26日にパリ近郊のシャラントンに生まれ、新古典主義の画家ピエール=ナルシス・ゲランに入門し、1822年に『ダンテの小舟』がサロンに入選、1824年に『キオス島の虐殺』がサロンに出品された。
ジョージア・オキーフは20世紀のアメリカを代表する女性画家であり、70年にも及ぶ長い画歴のなかで、ほとんど風景、花、そして動物の骨だけをテーマとして描きつづけた。かつてアメリカで抽象画を描きはじめた最初期の画家の一人でもあり、抽象画も手がけ、精密派の画家として生涯を捧げたウィスコンシン州出身のアイルランド系とハンガリーの両方の血を繋ぐ大家族の生まれである。
ポール・セザンヌは1839年1月19日フランスのエクス=アン=プロヴァンスに生まれた。当初は、父の希望に従い、法学部に通っていたが、先にパリに出ていた親友Emmile Zolaの勧めもあり、1861年、絵を志してパリに出た。印象派のグループの一員として活動していたが、1880年代からグループを離れ、伝統的な絵画の約束事にとらわれない独自の絵画様式を探求した。ポスト印象派の画家として紹介されることが多く、キュビスムをはじめとする20世紀の美術に多大な影響を与えたことから、しばしば「近代絵画の父」として言及される。'
アンナ・マニャーニはイタリアの女優であり、ローマ出身である。第一次世界大戦後にフランス人修道女が運営する寄宿学校に入学したが、短期間で終わった。ピアノを学んだ後、サンタ・チェチーリア音楽院で2年間音楽を学ぶ。1934年、彫りが深い顔立ちと線の太い面持ちで映画デビューし、数々の名作に出演した。'
広島県豊田郡瀬戸田町で1930年6月15日に生まれた日本の画家、教育者で、文化勲章を受章した平山郁夫は、旧制広島修道中学三年生として勤労動員のために広島市内の軍事施設にいたが、戦災により軍事施設は破壊される。戦後、復興を担った日本美術院理事長、一ツ橋綜合財団理事、東京芸術大学第6・8代学長といった公職を歴任し、文化功労者として顕彰され、文化勲章を受章している。
フェオファン・グレクはビザンティン(東ローマ帝国)からルーシのノヴゴロド、モスクワに移り住んだギリシャ人で、ロシアにおいて最も偉大なイコン画家の一人であり、アンドレイ・ルブリョフの師でもある。イコン画家として活動する傍ら、キリスト教の聖書の翻訳、研究や教訓の教師として活動した、歴史上重要な人物です。
アントニー・ガウディは、19世紀から20世紀にかけてのモデルニスモ(アール・ヌーヴォー)期のバルセロナを中心に活動したカタルーニャ出身の建築家である。世界に名を轟かせる彼の作品群は、サグラダ・ファミリア(聖家族教会)・グエル公園(1900 - 1914年)・カサ・ミラ(1906 - 1910年)などが含まれている。1984年にユネスコの世界遺産に登録されている。
熊谷守一は日本の画家であり、フォービズムの画家と位置づけられている。しかし作風は徐々にシンプルになり、晩年は抽象絵画に接近した。富裕層の出身でありながら極度の芸術家気質で貧乏生活を送り、「二科展」に出品を続け「画壇の仙人」と呼ばれた。
与謝蕪村は、江戸時代中期の日本の俳人、文人画家である。本姓は谷口、あるいは谷。俳号は蕪村以外では「宰鳥」「夜半亭(二世)」があり、画号は「春星」「謝寅(しゃいん)」など複数ある。摂津国東成郡毛馬村(現:大阪府大阪市都島区毛馬町)に生まれ、京都府与謝野町(旧丹後国)に戻って俳句や絵画などを制作した。
エルケ・ソマーはドイツの女優、画家であり、7ヵ国語に堪能で、ドイツのみならず、アメリカ・フランス・イタリアの作品にも出演している。ベルリンで生まれ、第2次世界大戦の空襲を避けてバイエルン州のエアランゲンへ移り、イギリスのロンドンで住み込み家事手伝いをしながら英語をマスターした。休暇で訪れたイタリアでミス・ヴィアレッジョに選ばれ、それから映画監督ヴィットリオ・デ・シーカに見出され、映画界デビューした。1963年からはハリウッドにも進出、均整のとれたプロになった。
ピカソは、スペインのサラゴサ出身の芸術家である。20世紀を代表する画家の一人として知られている。彼の作品は、現代美術の代表的なものとして、世界中で認められている。彼は、自由な表現を追求し、多くの作品を残した。彼の最も有名な作品は、「ガイアの肖像」、「ガイアの肖像(1937年)」、「母子」などである。
梅原龍三郎は、明治21年(1888年)生まれの日本の洋画家。京都府京都市下京区出身。京都府立第二中学校(現・京都府立鳥羽高等学校)を中退し、伊藤快彦の画塾・鍾美会で学び、1908年(明治41年)に帰国後、東京の聖護院洋画研究所(現・関西美術院)に入り研鑽を積んだ。南米、イギリス、ドイツなどが欧州を巡り、ヨーロッパで学んだ油彩画に、桃山美術・琳派・南画といった日本の伝統的な美術を取り入れ、絢爛な色彩と豪放なタッチが織り成す装飾的な世界を展開した。昭和の一時代を通じて日本洋画界の重鎮として君臨し、1986年(昭和61年)に86歳でこの世を去った。'
ディーター・ラムスはドイツ出身のインダストリアルデザイナーであり、家電製品メーカーであるブラウン社と関わりを持ちながらインダストリアルデザインにおける「機能主義」派の代表的な存在である。自身のデザインアプローチを「Less, but better」と表現するなど、常に機能と美的なバランスを考慮したデザインを行ってきた。ブラウン社に勤務していた期間中には、記憶に残る数多くの製品を設計してきた。