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猪瀬直樹

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猪瀬直樹は日本の作家、政治家であり、特に東京都知事(第18代、1期)を歴任しただけでなく、官僚的政治の体制を改革すべく多くの活動を行った。アメリカなど多くの国で講義を行なうなどまた学術面でも活躍しており、小説『ミカドの肖像』で大宅壮一ノンフィクション賞を受賞している。

若いうちは赤字でも、戦うためにまず(自分に)投資をする。いまの自分に投資できない人が未来をつかむことなんてできない。
自分だけが不運だと思い込む人は、より不運になるような気がする。
スポーツは自分で考えるもの。コーチや指導者が提案し、その中から自分の向上心を前提に、鍛錬をしてよい成績をあげ、記録をつくる。これがスポーツ。
孤独を友とした仕事と向き合った時間は、けっして自分を裏切らない。
ギリギリまで自分を追い込めば仕事力が磨かれて、それが閉塞状況を打ち破る武器になる。
“秀才”というのはダメなんですよ。秀才は隣の秀才を見ているから、より秀才である秀才を追いかけるだけで、独自の発想が出てこない。
新卒にこだわっている企業の採用担当者にも、「トーナメント思考」からの脱却を勧めたい。トーナメント戦によって人材を獲得する手法は、かえって優秀な人材を取りこぼすことになっているのではないだろうか。
母国語で論理的思考ができない人間が、外国語でコミュニケーション力を発揮できるわけがない。
幾何学の問題は補助線を一本引けば解けるけれども、それと同じで、どんな課題にも一本の補助線があるはずなんです。
権力があればなんでもできるという錯覚。課題ごとにプロジェクトチームをつくり辛抱強く解決していくプロセスがあって、初めて信頼してもらえるのです。思いつきでこれをやれと言えば、適当にサボタージュされるだけ。
秀才は要らない。秀才は隣の秀才を真似る。必要なのは発想力、閃きだ。
「10で神童、15で秀才、20歳(はたち)過ぎたらただの人」という言葉がある。学生のころは勉強ができていたけど、社会人になったらどこかへまぎれてしまって、何をやっているかもよくわからないという人が、みなさんのまわりにもいるだろう。一方で、「10でただの人、15で秀才、20歳(はたち)過ぎたらできる人」という逆のタイプの人間もいる。
20代の自信は誰も認めてくれない自信です(たまに運よく世に出る人がいますが、それは例外)。その自信を第三者に理解してもらうことはほとんど不可能です。それでも理解してもらえると信じるのがほんとの自信です。
(選手に)一時的に暴力で緊張感を与え、アドレナリンを放出させても、それは一瞬の効果であって、全くスポーツの向上にはつながらない。
どんなにひどい失敗をしたところで、明日が来なくなるわけではない。
問題を解決する思考力は、頭の良し悪しではなく、頭の持久力で決まります。斬新な発想がなくてもいい。壁にぶち当たったら別の方法を考え、また行き詰ったら、さらに他の方法を試してみる。その繰り返しこそが、新しい道を拓きます。
いつもニコニコしている人は要注意です。笑顔の仮面をつけているようなもの。楽しい時に笑い、腹を立てれば怒るもの。時と場合によって表情は変化するのがふつうです。
「上から目線」という言葉を使うタイプは大成しない。卑屈だから。
若い人は感性の大風呂敷を拡げてほしい。ハンカチじゃだめだ。
自信と独り善がりは外見は似ているけど、違うよ。自信は人並み以上の努力に裏打ちされるもの。
日本人は、英語ができないから国際交渉に弱いのではない。日本語ができないからだ。
人生はトーナメント戦ではなく、僕はむしろ「リーグ戦」だと思っている。たとえるなら大相撲だ。相撲は最初に5連敗しても、あとから10連勝して取り返すことができる。8勝7敗でもよいのだ。
希望は、自分とひたすら向き合う過程で生まれる。希望は孤独と背中合わせだ。ただ、人と人とのつながりの中で、希望がより力強く紡がれていくこともある。
現在の採用システムでは、人間の成長過程から20歳くらいの時期だけを切り取って、人材を評価している。「遅咲き」の人はチャンスを与えられないのに、「早枯れ」の人には企業のリソースが注がれることになる。
変人というのは自分の世界を持っていて決断できる。