ジャン・ジャック・ルソーのプロフィール画像

ジャン・ジャック・ルソー

@01gr3602ssj74brss6zr0xjfst

1712年6月28日にジュネーヴのグラン・リュ街で誕生したジャン=ジャック・ルソーはフランス語圏のフランスに生まれ、哲学者、政治哲学者、作曲家として活躍した。ルソーはプロテスタントの都市共和国であるジュネーヴに生まれ、父イザークが時計職人を生業としていた家族であった。

自由を放棄することは、人間としての資格を放棄することである。人間としての権利を放棄することである。すべてを放棄する人にとっては、いかなる補償もありえない。
気を落とさないようにしなさい。見てごらん、空はなんときれいに澄んでいるのだろう。
拒絶に慣れていない子供は、欲しいものが手に入らないということより拒絶されたことを一層辛く考えることになる
恋する男にとっては、相手がどんな身なりをしていても、そんなことはどうでもいい。相手も彼のことを考えていることがわかればいいのだ。
学問とはわずかな時の間に、数百千年の人類の経験を受け取ることである。
最大の災害は自ら招くものである。
感謝は支払われるべき義務であるが、誰であろうとそれを期待する権利はない。
特定の土地を囲い込んで「これは俺の土地だ」と宣言することを思いつき、他人にもごく素直に自分の言い分を信じ込ませた最初の人間こそ、市民社会の真の創始者であった。
幸福は何処にあるのか、誰がそれを知っているのか。皆それを求めているのだが、それは誰にも見つからない。人々は一生を費やして幸福を追っかけまわしているのだが、それを捕まえることもなく死んでいく。
四ヶ月の交際が一生を保証するだろうか?
人間は生まれながらにして自由である。しかし、いたるところで鎖につながれている。自分こそが主人だと思っている人も、実は奴隷であることに変わりはない。
苦しみを味わうことがない人間は、人間愛から生まれる感動も快い同情の喜びも知ることはあるまい。
文明人は奴隷状態において生まれ、生活し、死ぬ。
アクセントは会話の生命である。アクセントは会話に感性と真実を与える。
過失をするのは恥ずかしいことだが、過失を改めるのは恥ずかしいことではない。
人間の全ての知識の中で、最も有用でありながら最も進んでいないものは、人間に関する知識であるように思われる。
教育の原点は、食べることを通して自己保存できる知恵を学ぶこと。
方便の嘘とは、正真正銘の嘘である。というのは、他人とか、あるいは自分の利益のために人を欺くことは、自分の利益を犠牲にしてまで欺くのと同じく、不正だからである。
恋文を書くには、まず何を言おうとしているかを考えずに書きはじめること。そして何を書いたかを知ろうとせず書き終わらなければならない。
我々が災難に苦しんでいるとき、思慮なく我々にうるさく迫る慰めは、我々の悲しみをいっそう激しくするのに役立つのみである。
世の中で生きるには、人々とつきあうことを知らなければならない。
理性、判断力はゆっくりと歩いてくるが、偏見は群れをなして走ってくる。
子供を不幸にする一番確実な方法は、いつでもなんでも手に入れられるようにしてやることだ。
一緒に泣くことほど、人の心を結びつけるものはない。
ものを知らない人はよくしゃべり、よく知っている人はあまりしゃべらない。
人は、実際の恋愛対象よりも、自分で心に描き出した相手の像の方を一層愛する。人がその愛する者を正確にあるがままに見るならば、もはや地上に恋は無くなるだろう。
人類の義務の為に一日の快楽を犠牲にできぬ者に禍あれ。
節制と労働が人間にとって最良の薬である。
人生は短い。わずかな時しか生きられないからというよりも、そのわずかな時のあいだにも、私たちは人生を楽しむ時をほとんど持たないからだ。
自然と美徳は、社会や財産の産物である学問と芸術によって害される。
慣習とは反対の道を行け。そうすれば常に物事はうまくいく。
この世の生活の幸福を求める私たちの計画は、すべて幻想なのである。
名声は人々のささやきに他ならないが、それはしばしば腐敗しきった息である。
最も教育された者とは、人生のよいことにも悪いことにも最もよく耐えられる者である。
いかなる訓練をも受けない精神は、無為の中に鈍重になり不活発になる。
どんなものでも、自然という造物主の手から出るときは善であり、人間の手に渡ってからは悪となる。
生きるとは、呼吸することではない。行動することだ。
忍耐は苦い。しかしその実は甘い。
他人の不幸に同情するのは、自分に無関係だと思えない時だけである。
過ちを犯すことは恥ずべきことではない。むしろその過ちがわかった後も、その過ちを改めようとしないで、繰り返すのは恥ずかしいことだ。
人民の自由は、国家の強さに比例する。
子どもに純真な心をも持ち続けさせるよい方法は一つしかないと思われる。それは、子どものまわりにいるすべての人が純真なものを尊重し、愛することだ。
青年時代は知恵を磨く時であり、老年はそれを実践する時である。
ラブレターを書くには、まず何を言おうとしているかを考えずに書きはじめること。そして何を書いたかを知ることなく書き終わらなければなければならない。
自然を見よ。そして自然が教える道をたどっていけ。自然は絶えず子供を鍛える。
子供達が父親に結び付けられているのは、自分達を保存するのに父親を必要とする期間だけである。
(誰かが始めた土地の占有宣言と行為に対して)もし誰かが、杭や溝を引き抜いたり埋め戻したりし、「この嘘つきの言うことは聞くな。 (中略)君たちは、土地は誰のものでもなく、そこから生じる果実は万人のものということを忘れている」と叫んだら、この人は人類に、いかに多くの罪悪・戦争・殺戮(さつりく)・不幸・恐怖をまぬがれさせたことだろう。
エミール、幸福にならなければならない。これはあらゆる感覚を持つ存在の目的なのだ。これは自然が私達に感じさせる基本的な欲求であり、決して私達になくならない唯一つの欲求でもある。
あらゆる有用なことのなかでもいちばん有用なこと、つまり人間をつくる技術はまだ忘れられている。
イギリスの人民は(自分たちは)自由だと思っているが、それは大まちがいだ。彼らが自由なのは、議員を選挙する間だけのことで、議員が選ばれるやいなや、イギリス人民は奴隷となり、無に帰してしまう。
人は手に入れているものよりも、期待するものを喜ぶ。
下劣な人間は、偉大な人物のあることを決して信じない。
自然は決して我々を欺かない。我々自身を欺くのは常に我々である。
賢明さと幸福は非常に接近している
不運は確かに偉大な教師だが、その授業料は高く、それから得た利益は、しばしばそれに費やした費用に匹敵しない。
科学や芸術は一種の贅沢にすぎない。虚偽の装飾にすぎない。
気軽に約束しない人が、いちばん約束を守る。
僕ぐらい僕に似ていない者はいない。
なんと速やかに我々はこの地上を過ぎてゆくことだろう。人生は短い。
世界で一番有能な教師よりも、分別のある平凡な父親によってこそ、子供は立派に教育される。
女性が男性を自由にするということは、それ自体は害悪ではない。これは女性が人類の幸福の為に自然から享(う)けた賜物である。
奴隷は繋がれた鎖によって全てをなくしてしまう。「そこから逃れたい」という欲望さえも。
私たちは無知によって道に迷うことはない。自分が知っていると信じることによって迷うのだ。
人間が生きている間、決して消え失せることのない唯一の情欲は、自愛である。
私達は何事にも刃向かえる。が、好意にだけは反抗できない。
勇気がなければ幸福は得られない。戦いなしには美徳はありえない。
肉体があまり安楽すると、精神が腐敗してくる。
死に対する用心深さが死を恐ろしいものにし、死の接近を促進する。
歴史は人生の方面よりも悪の方面をいっそう強く描き出す。歴史家にとって革命や困難は面白い材料だが、平和に栄えゆく世は材料にならないから。
嘘には二種類ある。過去に関する事実上の嘘と、未来に関する権利上の嘘である。
人間をつくるのが理性であるとすれば、人間を導くのは感情である。
人はよくあることには動じない。
用心というやつは絶えず我々を先へ先へと連れて行き、しばしば我々が到達する見込みのないところまで我々を連れて行く。我々の不幸はここにある。
ある真実を教えることよりも、いつも真実を見出すにはどうしなければならないかを教えることが問題なのだ。
自愛こそ愛すべきものである。
他人を愛せよ。そうすれば彼らもまた、あなたがたを愛するだろう。彼らの役にたて、そうすれば彼らもあなたがたの役にたつであろう。
女にとって束縛は逃れられない運命で、女がこの束縛から離れようとすれば、いっそう激しい苦しみに出会う。
政治とは、支配者と民衆の間に結ばれる単純な契約である。
私たちは、いわば二回この世に生まれる。一回目は存在するために、二回目は生きるために。
ある者は明日に、他の者は来月に、さらに他の者は十年先に希望をかけている。誰一人として、今日に生きようとする者がいない。
洗練された眼差しは、細やかで鋭敏な感性に他ならない。
十歳では菓子に、二十歳では恋人に、三十歳では快楽に、四十歳では野心に、五十歳では貪欲に動かされる。人間はいつになったら、英知のみを追うようになるのであろうか。
悔恨の情は、得意の折には熟睡し、失意のときには苦味を増すものである。
私はすべての自分の書物を閉じてしまった。その中でただ一冊だけ、全ての人間の眼に対して開かれたものがある。それが自然という書物である。
女よ!人類をかく乱する暴風を起こすのは汝である。
金持ちでも貧乏人でも強い者でも弱い者でも、遊んで暮らしている市民はみんな詐欺師だ。
ある人の生き方が非合理だといって反対するのは手前勝手なでしゃばりではあるまいか。なぜなら、そのように言うことは、その人の信念確定の方法が自分のそれとは違う、ということを言っていることにすぎないからだ。
最も長生きした人間とは、最も年を経た人間のことではない。最も人生を楽しんだ人間のことである。
無知は決して悪を生まない。危険な罪悪を生むのはただ誤謬の懸念である。
恋と同じで、憎悪も人を信じやすくさせる。
「生きること」は、単に呼吸をすることではなく、「活動する」ことである。それは我々の全器官を、感覚を、機能を利用すること、つまり、我々に「生きている」という感覚を与える肉体のあらゆる部分を利用することである。
男は知っていることをしゃべり、女は人に喜ばれることをしゃべる。
人は、善意を別にすれば、何にでも手向かうことができる。
教育とは自然の性、すなわち天性に従うことでなければならない。国家あるいは社会のためを目標とし、国民や公民になす教育は、人の本性を傷つけるものである。
人生の最初の四分の一は、その使い途(みち)もわからないうちに流れ去り、最後の四分の一はまたその楽しさを味わえなくなってから過ぎてゆく。しかも、我々に残された時の四分の二は、睡眠、労働、苦痛、束縛、あらゆる種類の苦しみによって費やされる。人生は短い。
都市は人類の掃き溜めである。
単によい歌い手や踊り手であるだけでは、世間で抜きん出るわけにはいかない。
良心は魂の声であり、情熱は肉体の声である。
我々は生まれると競技場に入り、死ぬとそこを去る。その競技用の車をいっそううまく操るすべを学んだとて何になろう。いまとなっては、ただどんなふうに退場したらよいかを考えればよいのだ。