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ジョン・ラスキン

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ジョン・ラスキンは19世紀イギリス・ヴィクトリア時代を代表する評論家・美術評論家であり、ターナーやラファエル前派と交友を持ち『近代画家論』を著した。芸術家のパトロンで、設計製図や水彩画をこなした。また、中世のゴシック美術を賛美する『建築の七燈』『ヴェニスの石』などを執筆した。ロンドンに生まれ育った富裕な葡萄酒商人の一人っ子で、宗教色の強い家庭教師による教育を受けた。

慈悲、同情は決して罪を許すことにてはなく、ただ悲しみを憐れむことなり。
人の将来の成功は忍耐によって得られる。長い間耐えることができない者は、その希望するところのものを失う。
強き人の怒りは、常にその時期を待ち得る。
その人によって成し遂げられたすべてのことは、つねに大きな程度において偶然の事情によるものである。
進歩が生まれるのは、多様性の中の選択からであって、画一性の保持からではない。
ことわざは一人の機智であり、万人の智恵である。
我々は、中傷・偽善・裏切りを憤(いきどお)る。というのは、それらが真実でないからではなく、我々の心を傷つけるからである。
独立などと言わぬがよい。なぜなら、諸君は単に未見聞の現代の人たちのありとあらゆる努力にのみならず、すでに去った幾百年間の人々の過去の行為に依頼しているからである。
ささやかな愛は、巨額の施しよりもはるかに価値がある。
この世のすべての人間が働くことは神の御心である。だがそれと同時に、働けば誰でも幸福になれるということも、明らかに神の御心である。
忍耐は力よりも貴く、辛抱は美よりも貴し。
誹謗(ひぼう)も裏切りも、この世にそう大きな害を及ぼすものではない。それらは絶えず打ち負かされ、その克服の際に感じられるだけだからである。
芸術の価値と科学の価値は、万人の利益への私欲のない奉仕にある。
金銭は何人(なんぴと)たるを問わず、その所有者に権力を与える。
我々の隣人の繁栄は、結局我々の繁栄である。
賢者はつねに万物のうちに自己への扶助を見出す。というのは、彼らに授けられた才能は、すべての事物から善いものを引き出すことにあるからである。
事物に内在する力が外に現れうるためには、ある程度の運動の自由が必要である。
心の澄んだ思慮深い精神は、色彩を最愛とするものである。
読む価値のある書物は、買う価値がある。
愛情と技術がともに働くとき、傑作は生み出される。
自由とは、あらゆる虚像の中で最も虚偽的なものだ!なぜならほんのわずかな理性の光を当てるだけでも、自由の獲得だけでなく、そもそも自由の存在さえ不可能であることが、確実に示されるであろう。
人生は短い。この書物を読めば、あの書物は読めないのである。
労働してよくその生産物を処理する国民は、たとえ宇宙に黄金がないにしても、富裕であり、幸福であろう。
概ね大きな誤りの底には高慢があるものである。
働こうともせず、どんな種類の知的享受も知らない人間は、まるで悪魔に身柄を委(ゆだ)ねてしまったかのように、必ずや悪の道具となるであろう。
生命以外に富はない。
死ぬべき時を知らない人は、生きるべき時を知らない。
本当に偉大な人間の最初の試練は、彼の謙遜であると思う。
結婚とは、発作的な愛を永久にする証書のようなものである。
我慢は力よりも立派である。忍耐は美しさに勝る。
人々が仕事で幸福であるためには三つのことが必要だ。その仕事に向いていること。その仕事をやりすぎないこと。その仕事で成功すると感じていること。
人類の最も大きな悲劇が快楽欲に源を発したように、人類の最も大きな努力はつねに名誉欲に発していた。
心から人に手を差し伸べる、思いやりのある人間になれば、感情全体がいつも落ち着いて深みが出るとともに、ちょうど心臓の鼓動が体に絶えず活力を与えるように、その人の魂を生き生きとさせる。
一人の人間の歴史において、最も重要なことは、その人が何を目的としたかということである。
我々が相互扶助の生活に終始し、真の幸福に生きるようにという──これが神の意志だ。
悪い命令であることを知りながら、それを甘んじて受け入れる人は、悪い命令の甘受を勧めることになる。不正の存在を前に沈黙する人は、まさしく不正の共犯者に他ならない。
ビジネスマンとして幸福であろうとすれば、その仕事を好きにならなくてはいけない。
不幸を耐え忍ぶより、人間にとって実は、幸福をしっかり受け止めることの方がずっと困難なのだ。
すべて不滅な作家は、その衷心(ちゅうしん)を吐露(とろ)する。
キャッチ・フレーズは、ホテルの人混みでボーイに名前を呼ばれる時のような、個人的に訴えるものでなければならない。
恐怖は革命の生みの親である。というのは、恐怖はおよそ成功した政治の真髄をなす適応性を抑制するからである。
教育とは、人々が知らないことを教えるのではなく、実例によって道を拓(ひら)いてやる不断の困難な仕事である。
純粋な真実を語るということは、明晰な文章を書くことと同じように、意志の問題であるよりも、むしろ習慣の問題であり、天性の行使およびその完成の問題である。
生命にまさる富はない。
失われた時は決して取り戻せない。すでになされた悪は決して修正されない。
人生の真の喜びと力とは、尊敬のうちにあり。
宗教はたくさんあるが、道徳はひとつのみである。
喜びのない労働は下賤だ。悲しみのない労働も下賤だ。労働のない悲しみは下卑(げび)ている。労働のない喜びも卑しい。
もし著者が読者より賢くなければ、読む必要はない。もし賢ければ、彼は多くの点で読者と異なった考え方をするであろう。
真の偉人の最初のテストは、その謙虚さにある。
無垢(むく)とあらゆる完全な可能性とを持っている子供が絶えず生まれてこなかったとしたら、世界はどんなに恐るべきものであったろう。
絶対に、また、どこもかしこも醜いというようなものは稀有(けう)である。
この世で最も美しいものは、最も無用なものである。たとえば、孔雀(くじゃく)と野の百合(ゆり)を見よ。
最も偉大な人たちの人生は、その人たちが実現した結果よりも、その人たちの目的と努力との中において、より多く表現されている。
無限の慈悲は、真の偉大な最高の贈り物であり遺産である。
喜びのない労働は卑しい。悲しみのない労働はさもしい。労働のない悲しみは品がない。労働のない喜びは粗野だ。
教育の目的は、人々に善事を行わしめるだけでなく、そこに悦びを見い出させることである。
人が品質を少し落とし、少し安く売れないものなど、この世にほとんど存在しない。
人生は非常に短い。しかもその中の静かな時間はあまりに少ない。私たちはつまらない本を読むことによって、その一時間をも浪費すべきではない。
一切(いっさい)の本はこれを二つの種類に分けることができる。その時代時代の本と永遠の本と。
山岳はすべての風景の始めであり、終わりである。
社会の「体面を保つこと」は単なる虚栄者間の利己的競争に他ならず。
勤労なき富は罪悪なり。
真の偉人の最初のテストは、その謙譲さにある。
これまでの人より、これからの人を目指せ。
ものごとを正しく見るには、たった一つのやり方しかない。物ごとの全体を見ることだ。
勤勉のない人生は犯罪であり、芸術のない勤勉は野蛮である。
あらゆるものの美と品格と完全性は、自己を制限することにある。
知らないという言い訳は、決して責任を消滅させるものではない。
すべて偉大な歌は、真剣な歌であった。
人々が機嫌よく働くためには次の三つが必要だ。その仕事に向いていること、働きすぎないこと、そして、やればうまくいくと感じていることだ。
何が正しいかは常に感じることができるが、何が可能かは、必ずしも常に分かることではない。
あらゆる旅は、その速さに比例してつまらなくなる。
高尚な芸術は一個の偉大な心霊の表現にほかならない。しかも偉大な心霊ははなはだ稀(まれ)である。
どんな旅行でも、その速度が正確に定まってくるにつれ、つまらなくなる。
教育の意義は人々に知らざることを知るように教えることではなく、人々が日常の挙動を一新せしめることにある。
偉大な芸術とは、芸術的才能による純粋な魂の表現である。
絶対的な醜悪というものはまずない。
自分に合った仕事に就いている時は、豊かな庭に色づいた花が咲くように、楽しみが仕事から生まれる。
贈り物をするは、返礼をするよりも大なる喜びなり。
その人に適した仕事についていると、ちょうど実り多き果樹から美しい花が咲き出るように、仕事の中から楽しみが咲き出てくる。
知恵の第一段階が汝自らを知るにあるがごとく、慈善の第一段階は汝自ら足るにあり。