工藤勇一のプロフィール画像

工藤勇一

@01gr36q345ma7xas7w791hhf51

工藤勇一は、東京都の小中学校を任務先とした教育者。子どもの自律を重視した教育改革を行い、宿題、定期テスト、固定担任制などを廃止し、学習の自信を持つ子どもたちへの支援に力を入れている。

子どもがテストで100点をとってきたとき、ただそのまま褒めると、実はその子は将来、挫折する可能性があるんですよ。(中略)結果だけに着目してほめられ続けた子どもは、100点が取れなくなった時、“自分にはこれをクリアする能力がない”と思ってしまいがちなんです。
人と比べた点数ではなく“自分はどんな風にがんばったか”のプロセスをちゃんと聞いてもらってほめられている子どもは、たとえ、うまくいかなかくても、あぁ自分は努力不足だったなあと思えるんですよね。次はどんな工夫や努力をしようか?と気持ちを切り替えることができるんです。
学校へ行かない(=不登校の)子どもがいても、周囲の大人が平気な顔でいられるような社会がよい。
教員は子どもが行った行為一つひとつについて何が重要なのか、本質的に悪いことなのかどうか、その軽重をよく考えて、指導しなければならない。
作文は読み手を想像しながら、文章の構成や書き出しを工夫して、読んでくれる人の興味関心を喚起しようとするものです。そうした「他者意識」があってこそ、「伝わる」文章を書くことができるようになります。
幼稚園や保育園、小学校で心の教育の象徴としてよく言われている、「みんな仲良くしなさい」という言葉があります。この言葉によって、コミュニケーションが苦手な特性を持った子どもたちは苦しい思いをしているのではないでしょうか。(中略)「人は仲良くすることが難しい」ということを伝えていくことの方が大切だと私は考えています。
すでに分かっている生徒にとっては、宿題は無駄な作業(中略)宿題を出すのであれば教師は、「分からないところをやっておいで」と声掛けしなければいけないはずです。
「分からない」ことが「分かる」ようになるためには、2つの作業が必要です。一つは分からないことを聞いたり、調べたりすること。2つ目は繰り返すことで(知識や技術を)定着させることです。
自分の伝えようとした言葉が相手に伝わらないとき、理解できない相手が悪いというのか、あるいは自分が悪いと考えるのか、ここに伝えることの本質があると考えます。どんなに上手な文章でも、伝わらなければ意味がないという訓練を子どもの頃からすることは必要だと思います。
学校にきて学習指導要領に定められたカリキュラムをこなしても、知識を丸暗記してテストでよい点をとれるようになっても、社会でよりよく生きていけるとは限りません。この点について、私たち大人はもっと柔軟に考えられるようになっておきたいものです。
もし、書いた文章が相手に伝わらないとしても、それを理解してくれない相手が悪いんだと思うのではなく、相手に伝わる文章を書くべきです。言葉は伝わってはじめて価値があります。
自分を見つめ、自分の生き方を深く考えることは、自分を成長させるためにとても大切なことです。
自分が「分からない」問題を「分かる」ようにするプロセスが、多くの宿題においては欠けている。
個人に自己犠牲を求め、個性を認めないような組織は、本質的に強くなれない。
(担任による手厚い指導を受けて)自律することを学ばない子どもは、物事がうまく行かなくなると、担任教員に責任転嫁をします。勉強が分からなければ「授業が分かりにくい」と言い、忘れ物をしたら「聞いていない」と言い訳をする。
勘違いしてはいけないのは、「学校に来る」こと自体は、社会の中でよりよく生きていけるようにするための一つの「手段」にすぎないということです。
自律的に学ぶ経験を積まないと、決して工夫して仕事ができる人にはなりません。
(組織改革では)目的と手段が一致しないものや、手段が目的化しているものは廃止・見直しをする。その上で、本来の「目的」を再確認して、最適な「手段」を再構築する。そうしたプロセスで改善を図っていくことが大切です。
たとえ、何らかの事情で学校に行けなくなったりしても、学校以外にも学びの場はありますし、社会とつながることだってできます。勉強だってできるし、もちろん立派な大人になることができます。
学校が(学ぶ)「手段」の一つにすぎないことは、教師こそが理解すべきだと考えます。それができれば、不登校は世間で騒がれているほど深刻な問題にはなりません。
私はよく教員に、「どうでもよいことと、どうでもよくないことを、分けて叱りませんか」と話しています。どうでもよいことなら軽く注意を促せばよい。逆に、命や人権に関わること、差別や暴力といった行為には厳しく対応し、自身の言動の意味を認識させる必要があります。
学校で宿題を出されて子どもが勉強机に向かっていれば、勉強の習慣が付くと、保護者は安心するに違いありません。(中略)しかし、本当に大切なのは、勉強時間よりも勉強の中身です。
学校は人が「社会の中でよりよく生きていける」ようになるために学ぶ場所です。そしてその結果として、学校で学んだ子どもたちが将来、「より良い社会をつくる」ことにつながっていく。
学習は「できない」問題を「できる」ようにするプロセスでないと、意味がない。
教員が、子どもの指導・支援で用いる言葉は、子どものその後の生き方・価値観に影響する大切なメッセージです。特に、子どもが問題行動を起こした時に叱るメッセージはとても重要です。
(子どもがテストで100点をとってきたとき)結果をほめたたえるよりも、どんなふうに勉強の方法を工夫して、どんな風に努力したかを聞き、そのプロセスをほめてあげることが大事なんです。
そもそも自分の目標を立てるに当たり、その目標を他人に見せる必要はありません。誰かに言われて目標を立てるものでもありません。自分が達成したい目標を、自分だけが分かる方法で、自分のタイミングで作るのがよいのですから。
何より大切なことは、自分の特性に合った(知識や技術の定着)方法を見つけることです。そして、その適した繰り返しの方法こそが、その人の生涯を支えるスキルとなっていくのです。
大人が先回りをして、手を掛けすぎて育てられた子どもの多くは、自律できなくなっていきます。そして、自分では解決できない問題やトラブルに直面すると、うまくいかない原因を自分以外の周りに求め、安易に他人のせいにしてしまう傾向があるように思います。
学校においては、子どもたちが立てる目標は、ややもすると「立てただけで終わり」のスローガン的になりがちです。教員の中には、「目標を立てる」こと自体に価値があると思ってしまう人もいますが、それこそが「手段の目的化」です。
学校は(学校という場所で)子どもに学びたいという気持ちをどのように持たせてあげられるか、一人ひとりの学びをいかに保障するかを徹底的に考えなくてはいけません。もしそれができないのであれば、別の方法で(=学校外で)学ばせてあげればよいのです。
学校でしっかりと勉強をして、家では、好きな音楽を聴いたり、本を読んだり、スポーツをしたり、あるいは、ぼんやりと思索する。そうした時間の中で、自分自身の内面や思考が整理され、大切なことに気付いたり、思い付いたりすることは、たくさんあるに違いありません。
学校における体育の目的については、技能を高めることや競争心を養うことよりも、運動の楽しさを求めることの方が大切だ。スポーツは自分の人生を楽しませる、友達のようなものであってほしい。