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車谷長吉

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車谷長吉は日本の作家であり、兵庫県飾磨市(現・姫路市飾磨区)出身である。詩人李賀を唐代にちなんだ筆名「長吉」を名乗る。私小説を書き詩歌も書き、挫折感や煩悩を主題とした作品は高い評価を得る。代表作となるのは『鹽壺の匙』『漂流物』『赤目四十八瀧心中未遂』などである。

他人の評価の中で生きる人生。厭(いや)だな、と思うても、これからは逃れられない。
文学とは「火」である。ドストエフスキー、カフカなどはまさに「火」である。「火」の中に飛び込んだこともない者が、「火にさわったら、あちちよ。」と言うているのである。
ほう、あんた地道に働くんが、厭(いや)なんやな。人にお祝いの会して欲しい人なんやな。芥川賞が欲しいんやな。あんたは甲斐性なしの癖に、うまい物喰いたがる。
貧しい人はお金をもらうと、素直に嬉しいんですよ。
小説家、詩人、歌人、俳人。いずれ功名心の強い業突張りである。人間の屑のようなやからである。
一体、人生で一度挫(くじ)いて、それを精神的に克服したなどと言える人が、この世にいるのだろうか。いるとすれば、余程の悟りを啓(ひら)いた人か、余程の阿呆であろう。
私は若い頃から多くの女と知り合ったが、いまになって見ると、まぐわいをしないで別れた女がなつかしい。まぐわいをした上で別れた女は、私のことを怨んでいるであろうから、なつかしくない。その怨みを、私は藝(げい)のこやしにして来たので、罪悪感があるのだ。
私は乳繰り合うた上で別れた女には、つねに罪悪感を持って来た。併(しか)し肉体関係を持たずに別れた場合は、罪悪感など一切なく、言わば純愛の気持をいまでも色濃く持っている。
私小説を書くことは罪深い振る舞いである。悪である。業である。(中略)私のように毒虫のごとき私小説を書いていると、まず一家眷属、すなわち血族の者たちに忌み嫌われている。
人間の善には、どんなに善人でも限りがあり、併(しか)し人間の悪ぶりは底なしである。
写真に写った人の姿は過去の影であり、たとえその人がいまもまだ生きているとしても、すでに死者となったその人である。
地球温暖化、資源枯渇、環境破壊、原子力発電の核燃料のごみは溢(あふ)れ、それでもなお人は「空騒ぎ」を続けるであろう。その時、私はもうこの世にいない。ざまァ見やがれ。
私小説は自己曝露の文学である。この場合、自己曝露とは自己の周縁の他人曝露をもふくむ。
自尊心、虚栄心、劣等感、この三つは人生の癌である。
男と女の間に金が介在すれば、純愛はない。
文学の本質が悪を書くものである以上、書くことはそれ自体が悪であり、あらゆる文学者はある意味で犯罪者、言うなれば人非人(にんぴにん)である。
私はどうせ(作家という)蛇になるなら、毒なし蛇ではなく、毒蛇になろうと思うた。
地方人はまだ地方にいる時は、田舎者ではない。東京に出て来て、はじめて「田舎者」にされるのである。
四十六歳の夏、私は血族の者から、これだけは書いてはいけない、と哀願されていたことを、小説に書いた。二十数年のためらいの果てに、私の中の悪の手がなしたのである。
「人類の滅亡」を前提に生きなければならないということは、言わば「時間の停止」である。
世の中には、自分が近代人であることに得々としている人がいる。私は、厭だな、と思う。が、それを咎(とが)めることは出来ない。自分も近代人であるから。せめて私に出来るのは、贋(にせ)世捨人であるかのように生きることだけだ。
愚か者、悪人の方が、偉人、善人よりも深みがあるのである。
人間の三悪。高い自尊心(プライド)、強い虚栄心、深い劣等感。
私小説は自己の存在の根源を問うものである。己の心に立ち迷う生への恐れを問うものである。そうであるが故に、生への祈りなのである。
いくら私小説と言うても、やはり文学における「嘘」は必要なのである。
無論、小説を書くことも、広告と同様、騙(だま)しである。併(しか)し広告の騙しは商品を売り付ける手段であるのに対し、小説の場合は、嘘を書くこと、つまり騙しそのものが目的である。その意味で、小説を書くという悪事には救いがない。
いったん文学の魔に魅せられると、先行き何の見込みもなくとも、文学からは離れがたいのが現実であって、そこに文学の恐ろしさもあり、美しさもあるのだった。
人生を棒に振る。これが私の一つの理想だった。
人間性という言葉が、随分よい意味に使われているが、併(しか)し人間性の根幹の一つには卑劣さがふくまれているのではないか。
東京を古里にしている人がある。東京は言う迄(まで)もなく日本の首都である。併(しか)し私のような田舎者にとっては、植民地に過ぎない。
古来、すべての青年は哲学を愛した。併(しか)し、その後の人生において、哲学を実践した青年はだれもいなかった。わたしはこれが愚論であることを願っている。
休みの日は大抵は精根尽きて、終日、アパートで死人のように眠っていた。併(しか)しこの死人はまた背広・靴を身に着けて、「いましばらく生きるために。」会社へ出て行くのだった。
元を糺(ただ)せば、私たちが所有している言葉は、すべて他人の言葉である。それをいつしか自分の言葉のように錯覚して、人は生きているのである。
人の隠された本質は弱肉強食の畜生である。牛や豚の屍体(したい)を「お肉」と言い換えて、平気で喰(くら)うている畜生以上の畜生である。
人間の偉さ(崇高さ)には、どんなに偉い人であっても限りがあるが、人間の愚かさは底なし沼である。
人にとって大事なものは過去と虚栄である。
自分が自分であることの不快、これが私が書きたいことだ。
人間としてこの世に生まれて来たことが、すでにそれだけで重い罪である。私は言葉でそういう思想を語りたかった。すると人は「お前の小説を読むと、それだけで自分が人間であることが、つくづく厭(いや)ンなるわ。」と私に背を向けるのだった。私は厭ンなって欲しかったのである。
歓びを知らずに生涯をおえるひとはあっても、苦しみを知らずにその生涯をおえるひとはない。
作家は毒蛇になって、人に咬みつかなければいけない。咬みつかれた方は悲鳴を上げるだろう。併(しか)しその悲鳴こそが、小説の面白さなのである。
文学のほか一切を捨てて生きて来た。無常(死)を感じたら、文学をやる以外に、生きる道はなかったのである。
よい風景とは、歴史があって、謂(いわ)れがあって、個人的に強烈な思い出がしみ付いた場所である。いくら美しい風景でも、歴史や謂れがないところは駄目だ。
人の魅力は「生活の破綻」の臭いをさせているかどうかによって決まる。
本を読むことには、何か辛いものがある。よい本はよい本なりに、悪本は悪本なりに。多分、言葉の毒に中毒するのだろう。いや、言葉だけではなく、絵や写真にも毒はあり、それにも(自分という)存在の一番深いところを刺し貫かれることがある。
言葉で何かを知ることは苦痛なのだ。知らなければよかった、と思うが、私はどんどん知って行く。それが私が生きるということだった。