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大塚英志

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大塚英志は、日本の評論家、研究者、漫画原作者、小説家、編集者、元漫画家である。1981年から1988年まで徳間書店で編集者として働き、1988年から1996年まで講談社で漫画原作をし、1997年から2012年まで集英社で小説家として働いた。2006年から2014年まで神戸芸術工科大学教授及び特別教授、2014年から2016年までは東京大学大学院情報学環特任教授を務め、2012年から国際日本文化研究センター研究部教授であり、2006年から東京藝術大学大学院映像研究科兼任講師も務める。現在も研究誌『TOBIO Critiques』(太田出版)を私費で刊行している。

不確かで不徹底で非常に脆弱な自我を、私たちはみんな抱えているわけですよ。近代の中で、その自我をきちんと作ってこられなかったし、確立された自我なんて近代の理想論ですからね。
感情化の問題というのは、結局、論理的展開のプロセス遮断です。
(インターネットの登場で)私たちはみんなメディアの発信者になってしまったのです。そのことに無自覚なのが一番まずい。かつて新聞などのマスメディアが求められたメディアとしての責任を個人が負うという厳しい局面に、人々は準備なく入り込んでしまった上に、みんなサボっている。
ネットの若い人たちの「批評」を見ていると、格闘技でマウントをとるみたいなことをやる。相手に優位なポジションをどうとるか相対的な勝利を求めるみたいな気がしてならない。
世の中は基本的に面倒くさくない方に行きます。
(日本は)個人を作りえないまま民主主義のシステムを稼働させてしまったので、それがうまく機能せず、いわば、宿題をサボった状態のまま、普通選挙制度の下この国は民意として、戦争を遂行する議会を選択したわけです。
上手下手はともかく大抵の人々がきちんと基礎的なトレーニングを行えばそれなりに水泳やサッカーやゴルフをこなせるように、小説もまたそれなりに書けるようになるはずです。
柳田国男は、(中略)国民が個人としてでなく、同調圧力に従って、魚の群れのように考えなしで皆の行く方に投票してしまったことに怒り狂いました。「選挙民」じゃなくて「選挙群」じゃないかって。
どこかで不安定な何かを抱えていなかったら、ものを本気で描こうなんて思わない。ぼくだって若い時はそうだった。
脆弱(ぜいじゃく)な自我を無自覚に何かに重ねているところが、私たちにはある。そこに何かが触れるときに、感情みたいなものが暴発するわけですよね。
ぼくは、いつも近代(の理想論)は努力目標だからって言います。でも、努力は止めちゃだめねって。
批評というのは、理性です。それを根拠づけるのが内省です。
民主主義の前提として、個人が自分の考えを持ち、そして他者とコミュニケーションをとりながら合意をしていく、その最終局面として選挙がある。
言葉で丁寧に理解し合う「やり方」が不在なまま、感情による共感がコミュニケーションに対し支配的になる。そうやって、人々がお互いに感情でつながることを求め、その感情が社会を動かす最上位のエンジンになる状態を「感情化」と呼んでいます。
ディティールには意味が宿る細部と宿らない細部がある。
ポピュリズムとは、民主主義の「感情化」です。