長田弘のプロフィール画像

長田弘

@01gr37m53kntm5pg5awp5dekz3

長田弘は日本人の詩人、児童文学作家、文芸評論家、翻訳家、随筆家で、1965年に詩集『われら新鮮な旅人』でデビューした。代表作は児童向けの散文詩集『深呼吸の必要』であり、ロングセラーとなっている。また福島県立福島高等学校、早稲田大学を卒業した。

過ぎてゆく季節はうつくしい。
じぶんを呼びとめる小さな声が、どこからか聞こえて、しばらくその声に耳を澄ますということが、いつのころからか頻繁に生じるようになった。(中略)そうした、いわば沈黙の声に聴き入るということが、ごくふだんのことのようになるにつれて、物言わぬものらの声を言葉にして記しておくということが、いつかわたしにとって詩を書くことにほかならなくなっているということに気づいた。
詩の言葉は、意味をあらわす言葉なのではない。そうではなくて、いいあらわすことのできない意味をちゃんと手わたすための言葉が、詩の言葉だ。詩の言葉がおかれるのは、いいあらわしえぬ意味がそこにある、その場所なのだ。
急いではいけないぬかみそを漬けるとわかる毎日がゆっくりとちがってみえる手がはっきりとみえる 
わたしにとっての猫は、いわば物言わぬ哲学者のような存在であって、すぐれて耳澄ますことに秀でた、日々の対話の相手です。
いまためされているのは、何をなすべきかでなく、何をなすべきでないかを言い得る、言葉の力です。
話のための話はよそう。それより黙っていよう。最初に、静けさを集めるのだ。
こんにちは、と言う。ありがとう、と言う。結局、人生で言えることはそれだけだ。
神はわれわれに、共感する力をあたえた。
ハイドンは一番難しい生き方を貫いた。すなわち、しごく平凡な人生を誇りをもって、鮮やかにきれいに生きた。
思想というのは、その人のもつ考えかたをいうので、その人のとる考えをいうのではない。
(本は)ただ読めばいいのではありません。本は上手に読まないと、うそみたいに何ものこらない。
どれほど不完全なものにすぎなくとも、人の感受性にとっての、大いなるものは、すぐ目の前にある小さなもの、小さな存在だと思う。
書くとはじぶんに呼びかける声、じぶんを呼びとめる声を書き留めて、言葉にするということである。
そうしなければいけないというんじゃない。そうときまっているわけじゃない。掟じゃなくて、味は知恵だ。こうしたほうがずっといい、それだけだ。
しばしば、体験は言葉にはならないんだということがいわれる。わかりっこないんだ、と。確かにそういえるだろうし、体験がうけとりうるものは、結局のところ誤解でしかないかもしれない。しかし、体験のほんとうの意味は、そうしたわかりっこなさ、つたわらなさ、誤解というものにどれだけ耐えられるかということからはじめてでてくる。
今はどっちを向いても、ことごとく説明の時代ですが、見て感じて聴き入って考えて、うつくしいと言うのに、いったい説明や弁明が必要でしょうか。
世界は一冊の本である。どんなに古い真実も、つねにいちばん新しい真実でありうる。それが、一冊の本にほかならないこの世界のひそめるいちばん慕(した)わしい秘密だ。
ひとはひとに言えない秘密を、どこかに抱いて暮らしている。それはたいした秘密ではないかもしれない。けれども、秘密を秘密としてもつことで、ひとは日々の暮らしを明るくこらえる力を、そこから描きだしてくるのだ。
静けさのなかには、ひとの語ることのできない意味がある。言葉をもたないものらが語る言葉がある。独りでいることができなくてはいけない。
わたしにとって、詩は賦(ふ)である。賦は「対象に対して詩的表現をもってこれを描写し、はたらきかけるもので、そのことがまた、そのまま言霊(ことだま)的なはたらきをよび起すという古代の言語観にもとづくものである。 その表現の方法を賦といい、そのような表現方法による文辞(ぶんじ=文章の言葉)を賦という」(白川静『字統』)。
たとえまったく読んだことがなくても、ずっと気にかかる本だってあるというのも、本の奇妙な魅力なんです。
樹は、話すことができた。話せるのは沈黙のことばだ。そのことばは、太い幹と、春秋でできていて、無数の小枝と、星霜でできていた。
不幸は数えない。死んだ人間に必要なのは、よい思い出だけだ。
もしも、絵本を自分へ贈るのなら、それは自分に「もう一つの時間」を贈ることです。もしも、絵本を誰かへ贈るのなら、それはその誰かへ、この世界への眼差しを共にしたいという思いを贈ることです。
街歩きを楽しむには、目をきれいにし、耳をきれいにし、心もきれいにしなければ、何にもならない。
音楽はおもいがけない驚きであるべきだ。
広い空の下に一人でいればわかる。人間はじぶんでかんがえているほど確かな存在などではないのだ。
瞬間でもない、永劫でもない、過去でもない、一日がひとの人生をきざむもっとも大切な時の単位だ。
秘密は「隠す」ものではなくて、「見いだす」ものなんです。
音楽を聴きながら居眠りするときは、幸福である。
経験を人の経験として語ろうとすると、覚えているか、覚えていないかということになる。人の経験じゃなくて、(目に見える)風景の経験として残すことができないとだめなんですね。
「……のように美しい」の「……」に何を入れるか、どんな言葉をそこに使うかで、一人一人の自分、一人一人の経験が、その言葉のなかにそっくり出てきます。それが言葉です。
今日、建物をつくり、市街をつくっているのは、千の窓だと思う。建物に窓があるのではないのだ。いまでは、窓が建物をつくり、街をつくっている。
立ちどまらなければゆけない場所がある。何もないところにしか見つけられないものがある。
言葉はわたしにとってどのようにも「完全」な言葉ではありえない。むしろ不完全な言葉が不完全な人間としてのわたしを絶えず喚起するということにこそ、わたしは言葉の力をみとめたい。
石(=墓石)に最小限の文字を刻みこむように、記憶に最小限のことばを刻むことは、いまでも詩人の仕事の一つたりえているだろうか。
めぐりくる季節は何をも裏切らない。何をも裏切らないのが、希望の本質だ。めぐりゆく季節が、わたし(たち)の希望だ。
無名であることの誇りこそが、おろかな人間たちのあいだで生きるすべての猫たちに、つねに独自の威厳をもたらしてきた。
もしきみが相手の愛を呼びおこすことなく愛するなら、すなわち、きみの愛が愛として相手の愛を生みださなければ、そのとききみの愛は無力であり、一つの不幸である。
本を閉じて、目を瞑(つむ)る。おやすみなさい。すると、暗闇が音のない音楽のようにやってくる。
目の前に咲きこぼれる、あざやかな花々の名を、どれだけ知っているだろう?何を知っているだろう? 何のたくらむところなく、日々をうつくしくしているものらについて。
(短歌や漢詩だけでなく)日本の歌もそうですが、山と川で表現しているのは、変わらないものがそこにある、ということなんだ。
「そのなか」にいると、「そのなか」にいる自分に気づきません。「その外」にでてはじめて、人は自分が「そのなか」にいたということに気づきます。それから「そのなか」にいたときにはわからなかった自分の心が、自分に見えてきます。
この世でいちばん難しいのは、いちばん簡単なこと。
貝殻をひろうように、身をかがめて言葉をひろえ。
どんなにおカネをもっていても、おカネで買えないものが、言葉です。
あらゆる面で不都合がすくなくなって、不自由さにくるしめれることがなくなった。代わりにだた一つ、とんでもないものを手に入れた。それが孤絶感です。
夜 きみは 空を見あげて星々のかずを かぞえます。希望のかずを かぞえるように。
日常の生き方、日々を生きる姿勢というのは、それぞれの日常の振るまいにそのまま表れます。
記憶という土の中に種子を播いて、季節のなかで手をかけてそだてることができなければ、ことばはなかなか実らない。
記憶というのは、もとのものをそのままにたもつのではなく、もとからのものを、じぶんの心のかたちにしたがって、ゆっくりと変えてゆく。
(私は)悲しみを信じたことがない。どんなときにも感情は嘘をつく。
世界を、過剰な色彩で覆ってはいけないのだ。沈黙を、過剰な言葉で覆ってはいけないように。
この世には、独りでいることができて、初めてできることがある。ひとは祈ることができるのだ。
黙って朝のコーヒーを淹れる。誰のものでもないその時間は、じぶんを確かな一人としてかんじることができるのだ。人生には何のなぐさめもない。けれども、ひとの一日には、朝のコーヒーの時間があるのだ。
自分が「そのなか」で育った母語の温かさが、自分の心の体温にほかならない。
人生はじぶんが愛する人たちといがみ合って暮らすには、あまりにも短すぎる。
新しい知らない言葉というのは、そのほどんどが、ただ新しい名詞ばかりなのだ。わたしたちが手にもつ言葉のなかで、新しい知らない名詞だけがとんでもなくふえつづけている。
一人のわたしは何によっていま、ここに活かされているかを問うこと。
ものごとの事実に対しものごとの真実は、いつでも一歩遅れている。
(真実を見つけようと)必死になりすぎるのはまちがいだ。真実というのは、遠くに必死に探さなくとも見つかるはずだ。すぐ近くにあるのに、こっちがわからないでいるだけだ。それが出発点だ。
立ちどまらなければゆけない場所がある。何もないところにしか見つけられないものがある。
風景を壊す復興、何もかも新しくしてというのは、何か間違えている。風景を取り戻さないと記憶というのは残らない。
見ることは、聴くことである。
詩を書くことは、目の前の日々から思いがけない真髄を抽きだすということ。
平和とは(平凡きわまりない)一日のことだ。
言いあらそっても、はじまらない。口をつぐんで、済むことでもない。気にくわない、頭にくる、じゃない。対立する、好きだきらいだ、そんなじゃない。相違はただ一つ、もとめる幸福がちがう。あるいは、幸福の概念がちがう。
食卓は、ひとが一期一会を共にする場。
いつかはきっといつかはきっとと思いつづけるそれがきみの冒した間違いだった
森の木がおおきくなると、おおきくなったのは、沈黙だった。沈黙は、森を充たす空気のことばだ。森のなかでは、すべてがことばだ。ことばでないものはなかった。
見て感じて聴きいって考える。そうした心のはたらきのみなもとたるべき、日々の習慣の力。
子どもの本になくてはならない三つのもの──「古くて歳とったもの」「小さいもの」「大切なもの」。
「ゆたかさ」の過剰も「善意」の過剰もまた、生きものを殺しうる。
一番効果的な教育というのは、言わず語らずのうちに伝わっていく、伝えられていくこと。それが本来の教育というものだろう。
本を読むときに必要なものとしていちばん最初に求められるのは、どういう本を読むかだと、普通は考えられています。しかし、実際は違います。
悲しみは窮(きわ)まるほど明るくなる。秋の空はそのことを教える。
何をなすべきかを語る言葉は、果敢な言葉。しばしば戦端をひらいてきた言葉です。何をなすべきでないかを語る言葉は、留保の言葉。戦争の終わりにつねにのこされてきた言葉です。
一日一日が冒険なら、人の一生の、途方もない冒険には、いったいどれだけ、じぶんを支えられることばがあれば、足りるだろう?
ニュースでもなく、話題でもなく、情報でもないもので、日々にどうしても必要なものがある。そのときはそうと気づかない。けれども、ずっと後になって、じぶんのなかに、ふいにくっきりとよみがえってくる一瞬の光景がある。
ことばが信じられない日は、窓を開ける。それから、外にむかって、静かに息をととのえ、齢の数だけ、深呼吸をする。ゆっくり、まじないをかけるように。そうして、目を閉じる。十二数えて、目を開ける。すると、すべてが、みずみずしく変わっている。目の前にあるものが、とても新鮮だ。
もっとずっと考えられなければいけないのは、われわれの持つ風景とは何だろうか、懐かしい風景をつくりだすものは何だろうかという問いかけではないか。
幸福は、途方もないものではない。
私が語るのではない。私をとおしてこの世界が語るのだ。
人間は風景という大きな家の子どもなんだと思っています。ですから、自分の親であるような風景をどう見つけて、どう見詰めるかがとても大事なことなんじゃないでしょうか。
山とともに毎日の感情があり、山とともに季節が一つ、また一つ移ってゆく。子どものわたしの記憶をゆたかにしてくれたのは、そうした風景のなかの日々だ。
無名なものを讃えることができるのが歌だ。
ジャングル・ジムを発明したひとこそ天才だ。エジソンやノーベルやアインシュタインがなぜ天才だろう。先生がおしえてくれる天才たちは、子どもに何の歓びもあたえてくれないひとばかりだった。
幸福は、窓の外にもある。樹の下にもある。小さな庭にもある。
どんな王宮だって、優美さにおいて精妙さにおいて、一匹のカタツムリの殻に、建築として到底およばない。この世のほんとうの巨匠は、人間じゃない。
言葉を不用意に信じない。
風景を生きること、自分がそのなかに在る風景を生きることが、すなわち人生というものなのだといってもいいのかもしれません。
風景と共存していくということを考える中で体験が受け継がれていかないといけないんじゃないかな。
木のまわりをぐるぐる勢いよく駈けまわるうちに、トラがバターになってしまう。そういう記憶をまざまざともっているのと、まったくもっていないというのとでは、世界の見え方はどうしたって違ってきます。
時に自分との闘いだったり、自分で自分を励ますことだったり、本の言葉の向こうに、つねにもう一人の自分を見いだしていくのが読書。
戦争になるや、言葉は意味を失います。いったん戦争が始まれば、そこにはもう、倒すべき「敵」しか存在しません。
たとえまったく覚えていなくても、しかしこれは自分が呼吸した空気である、言葉であるということを、よみがえらせてくれる本があります。そういう本の記憶をどれだけ自分のなかにもっているかいないかで、自分の時間のゆたかさはまるで変わってきます。
花々があって、奥行きのある路地はうつくしい。
思考のギターの低音を掻きならすのは「しかし」という銀色の言葉なのだ。
読書は、自分が自分にかける電話のようなもの。自分で自分と話をする方法なのです。