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曽野綾子

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1931年9月17日に東京府南葛飾郡本田町(現・葛飾区立石)に町田英治郎とキワの二女として生まれ、1934年に大森区田園調布に移住した。聖心女子大学文学部英文科を卒業し、小説家としてのキャリアをスタート。『遠来の客たち』が芥川賞候補に挙がり、出世作となった。以後、宗教、社会問題などをテーマに幅広く執筆活動を展開。近年は生き方や老い方をテーマとしたエッセイを多く書き、保守的な論者としても知られる。現役時代は日本財団会長、日本郵政取締役を務め、文化功労者としても表彰され、今もなお多くの作品を発表し続けている。

自分らしくいる。自分でいる。自分を静かに保つ。自分を隠さない。自分でいることに力まない。自分をやたらに誇りもしない。同時に自分だけが被害者のように憐れみも貶(おとし)めもしない。自分だけが大事と思わない癖をつける。自分を人と比べない。これらはすべて精神の姿勢のいい人の特徴である。
社会が自分を裏切ったから自分はだめになった、などと言うのは口実に過ぎない。自分の教育に責任があるのは、まず自分であり、最終的に自分である。
信じるということは、疑うという操作を経た後の結果であるべきだ。疑いもせずに信じるということは、厳密に言うと行為として成り立たないし、手順を省いたという点で非難されるべきである。
テレビや本や違った体験が人間に知識を与えるのも本当だが、ただ血縁と家畜と何もない荒野の広がる静寂が、少年たちに多くのことを教えることも事実なのである。
他人が何かを「くれる」こと、「してくれること」を期待してはいけない。そのような受け身の姿勢は、若いときには幼児性、年とってからは老年性と密接な関係をもつものだからである。
実に多くの日本人が、才能と知能に恵まれながら、賢くなくなったのは、叡知の源である貧困を取り上げられたからかもしれない。
人にはできることもあれば、できないこともある。得意なものもあれば、どうしても不得意なものもある。それが一人の人間が持っている光と影なのです。光にばかり目を向けるのではなく、影の部分もしっかりと見据えることが大切です。
自分や周りにある影に目をつむり、光ばかりを見ようとする子供たち。それは幸福でなければならないという強迫観念に取りつかれた社会が生んだ産物でしょう。光しか見ないから、ちょっと影に入るとイライラしたりキレたりする。それは決して幸せな姿とは言えません。
被災地の支援も国家に頼るのでなく、「痛い」と感じるくらい(国民)自らお金を出すことだ。出さない人がいてもいい。だが、そうした人は人権だ、権利だと言わないことだ。
幸せと不幸せ。それはいつも半分半分なのです。どんなに裕福な人にも、不幸せは半分ある。貧困に喘(あえ)いでいる人でも、人生の半分は幸せだと感じることがある。それが人間というもの。そして、少しだけでも幸せの割合を多くしたい。そのために努力をすることが人生なのではないでしょうか。
僕は結婚式は嫌いだなあ。なぜかって言うと、一ヶ月もしない内に離婚したいって言って来るんだから。その点、葬式はすばらしい。完結していて完璧だ。僕は葬式は好きだね。
私たちはすべてのことから学べる。悪からも善からも、実(じつ)からも虚からもおそらく学べる。狭い見方が敵なのであろう。
貧困は叡知の源である。
我慢しろ。正しいことだったら、他人の思惑なんか構うな。
好きなことだけやって、嫌なことはやらなくてもいい。そんな風潮が子供をおかしくさせている。我が儘(まま)で他人の痛みが分からない子供を育てているのです。
この世は、原則として惨憺(さんたん)たる所である。
物事にはすべて光と影があります。明暗と言い換えてもいいでしょう。例えばどんな名画も、光だけで描かれているものはない。影があればこそ光も活きてくる。影がなければ絵にはならないのです。
すべて人生のことは、「させられる」と思うから辛かったり惨めになるので、「してみよう」と思うと何でも道楽になる。
貧困こそ、我々の中の卑怯さと残忍さを露呈し増幅する。
暗い歴史や悲しみこそ、人間の高貴な魂を作る上で必要なのである。
自分を追いつめないようにすること。その方法は、何にでも「たかが」をつけて考えることです。
どんなにその人を愛していても、その人のためにすべてを犠牲にしてはならない。なぜなら、必ず後で、その人を憎むようになるからだ。
今は子供に強制する親や教師が余りに少ない。何事も自主的にやらせるべきで、強制するべきではないと言う。これはとんでもない間違いです。
人生において何が正しいかなんて誰にもわからないのだから、自分の思うとおりに進んで、その結果を他人の責任にしないことが大切ではないかと思う。
幸せでいることに慣れてしまうと、不幸せになることが許せなくなってしまう。自分の一生はいつも幸せでなければならないと思い込んでしまう。この誤った感覚が、日本人をどんどん不幸せにしている。
私の経験からすると、多くの場合、疑った相手はいい人なのである。すると疑った人間(私)は恥じることになる。しかし疑わずに騙されて、相手を深く恨んだりなじったりするよりは、疑ったことを一人で恥じる方が始末が簡単なのである。しかも疑った相手がよい人であったとわかった時の幸福はまた、倍の強さで感じられる。
あなたは愛するもののために死ねるか。