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スピノザ

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バールーフ・デ・スピノザは17世紀のオランダの哲学者であり、彼の汎神論は新プラトン主義的な一元論でもあり、後世の無神論や唯物論に強力な影響を及ぼした。彼は抽象的な合理主義解釈を実践する著名な哲学者として知られ、カント、フィヒテ、シェリング、ヘーゲルらドイツ観念論やマルクスなどの影響を受けている。

一つのものが同時に善であったり、悪であったり、そのいずれでもなかったりすることがある。例えば、音楽は憂鬱な人には善であるが、喪に服している人には悪であり、耳の聞こえない人にとっては善でもなく悪でもない。
人があれもこれもなし得ると考える限り、何もなし得る決心がつかない。
運命とは受け入れるべきものではなく、自ら選び創り出すものだ。
自卑は、人間が自己を他人の人々よりも劣ると信じる謬見(びゅうけん)から生ずる悲しみである。
私たちは自分たちが永遠であるのを感じ、知っている。
ほほえましい人生を送りたいなら、まずは気分の良い生活を身につけるべきだ。
定義や公準や公理から結論を導くのに用いられる数学的な方法は、研究や知識の伝達に際して、真理を発見し知らせるための最も良い最も確かな手段である。
あらゆる規定は否定である。
肉的愛、言いかえれば外的美から生ずる生殖欲、また一般的には精神の自由以外の他の原因を持つすべての愛は容易に憎しみに移行する。
人間は人生にあるこれらの良いもの(=食物・衣服・感覚・遊戯など)をできるだけ利用し、できるだけ多く愉快に、快活に努めるとともに、自分だけ愉快になって喜ぶのでなく、他の人々にも喜びを分けてやるがよい。喜びが大きければそれだけ、生活への意欲はいっそう大きく強くなるものであろう。
問題を解決しようとしないで、それを切り抜けなさい。
平和は戦争を免れることにあるのではなく、考え方の一致・融和にある。
すべて存在するものは神の裡(うち)にあり、神なくしては何者も存在しえず、また理解もされない。
ある行為を後悔する者は、二重に不幸あるいは無能である。最初に邪悪な欲望によって、ついで悲しみによって征服される者だからである。
名誉の悪用やこの世の虚妄について最も多く呼号する者は、最も多く名誉に飢えているのである。
人間の心は、肉体とともに滅びるものではない。ある永遠なものが残るのである。
神を畏(おそ)れるは知識の始めである。
平和とは、ただ闘いのないことではなく、魂の力より生まれる美徳である。
賢人の仕事は、いかに死ぬかというよりも、いかに生きるということにある。
自分にできないと考えている間は、本当はそれをやりたくないと心に決めているのだ。だからそれは実行されはしない。
悪徳を非難するよりは、徳を教える方がよい。
真に神を愛する者は、神からも愛されることを願ってはならない。
失うものは何もない。守るものなどはじめから何もない。
食物・衣服・感覚・遊戯、すべてにわたり良い感じを与えるものは、いかなる害も与えない。これは我々には娯楽であるかもしれないが生活に欠くことのできないもので、これらのものがなかったら、我々はこの苦しい人生を生き通すことができないかもしれない。
理解することは同意することの始まりだ。
あり余るほど自由な時間のある人間は、たいてい悪いことを考えるものである。
喜びを持てば持つほど、我々は完全さを持つことになる。完全さとは充足感である。
幸福は徳の褒賞ではなくて、徳そのものである。
世界が存在するのは誰のためでもない。
生活は生命の瞑想であって、死の瞑想ではない。賢者が問題を考える中で、死を考える時間は最も少ない。
愛は、憎しみで始まった場合の方が、より大きくなる。
人は互いの助けがあれば、ずっと簡単に必要なものを準備できる。そして力を合わせれば、あらゆるところで襲ってくる危険をもっと簡単に避けられる。
個人に、自分の思うことを言ったり教えたりする自由が与えられない統治が、もっとも暴力的な統治である。
情念は、われわれがこれについて明確な観念を形成するや否や、たちまち情念たることをやめる。