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パスカル

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ブレーズ・パスカルは、フランスの哲学者、自然哲学者、物理学者、思想家、数学者、キリスト教神学者、発明家、そして実業家としての有名な天才であった。彼の才能は多分野に及び、「人間は考える葦である」まで言わしめた多数の名文句などの思想に加え、パスカルの三角形、パスカルの原理、パスカルの定理などの発見で彼の名を知らしめた。しかし、短命であり、三十代で逝去している。

人間は一つの極端にあるからといって、その偉大さを示しはしない。むしろ同時に二つの極端に達し、その中間をすべて満たすことによって、それを示すものである。
真の雄弁は雄弁を軽蔑し、真の道徳は道徳を軽蔑する。哲学を軽蔑することこそ、真に哲学することである。
正義と力は平行しなければならぬ。そのためには、正しき人は力をつけよ、力ある者は正しさを身につけよ。
人間は天使でもなければ、獣でもない。だが不幸なことに、人間は天使のように振る舞おうと欲しながら、まるで獣のように行動する。
人間は考えるために生まれている。ゆえに人間は、ひとときも考えないではいられない。
真理が自分の罪業を証明しないかと、真理を畏(おそ)れ始めるときほど不幸なことはない。
理性とは物事を論理的、概念的に思考する能力のことである。宗教的な経験や感性を重視して短絡的に理性を否定するのも、理性を絶対とするのも行き過ぎだというのである。
もし全ての人が、互いに何を語り合っているかを知ったならば、事実、この世に友は四人といないであろう。このことは、時折誰かが口を滑らせて告げ口をしたために起こる争いからしても明らかである
人間の過大な愚劣さは、名誉を追求することであるが、それこそまさに、人間の優秀さの最高のしるしである。
人間は必然的に狂っており、狂っていないというのも別の狂い方で狂っている事になろう。
人間が存在するということは不可解であり、神が存在しないということも不可解である。
習慣は第二の自然だといわれているが、人は、自然が第一の習慣だということを知らない。
私は人間の不幸はただ一つのことから起こるものだということを知った。それは、部屋の中で休息していることができないということである。
隠れた高潔な行いは、最も尊敬されるべき行為である。
心情は理性の知らないところの、それ自身の道理を持っている。
恐れる者は恐れることなかれ。だが恐れぬ者は恐れよ。
思考が人間の偉大さをなす。
すべて賭けをする人は、不確実を以(も)って勝つために確実に賭ける。
自我というものは、それ自体が不正なものだ。なぜならば、自我は自分が万物の中心だと思おうとするからだ。また、自我は、他人にとっても都合が悪いものだ。というのは、自我は他人に服従したがらないからだ。
生涯において最も大切なことは職業の選択である。しかし、偶然によってそれは決まる。
多くの宗教が互いに相反しているのをみる。だから、ひとつを除いて、他はみな虚偽である。どの宗教も、それ自身の権威に基づいて(人に)信じられることを欲し、不信仰者をおびやかす。
雄弁は思想を写した絵画である。従って、描き終わった後でなおも加筆する人は、肖像画の代わりに、装飾画を作ることになる。
危険な行き過ぎが二つある。理性をただちに否定することと、理性の他は何も認めないことだ。
人間にとって苦悩に負けることは恥ではない。快楽に負けることこそ恥である。
空想は感情に似ているが、感情とは反対のものである。
上品は天賦のものであり、技巧によって得られるものではない。
恥は一つしかない。すなわち、なんの恥も感じないということだ。
人間相互の尊敬を結ぶ綱は、一般的に必要から生じたものである。というのは、全ての人間が支配者になりたがるが、みながそれになるわけにはいかないため、種種の階級が存在せねばならなくなるからだ。
習慣は、それが習慣であるからこそ従われるべきで、それが合理的であるとか、正しいということから従われるべきではない。
キリスト教の信仰は二つの真理、すなわち人間の自然性の堕落と、イエス=キリストの購(あがな)いとを両立させるところである。
優しい言葉をかけるのには、お金も時間も要りません。にもかかわらず、優しい言葉は多くのことをなしえます。
不当な非難をこうむればこうむるほど、また強暴な言論の圧迫を受ければ受けるほど、我々はますます高く叫ばずにはいられない。
もし、友人が陰でしゃべっていることをお互いに知ったら、たとえ真面目にありのままにしゃべっているのだとしても、友情はほとんど保たれない。
愛には年齢がない。それは常に生まれ続けるからである。
偉人が我々より偉いのは頭が少しばかり高く出ているだけのことで、足のほうは我々と同じくらい低いところにある。
この無限の空間の永遠の沈黙は、私に恐怖を起こさせる。
役立つ人間だと人に思われたいならば、それを口に出すな。
感覚は、偽りの見せかけで理性をたぶらかす。
悲しみは知識である。多くを知る者は、怖ろしき真実を深く嘆かざるを得ない。知識の木は生命の木ではないから。
人間は神と悪魔の間に浮遊する。
真理が支配しているときに平和を乱すことがひとつの犯罪であると同様に、真理が破壊されようとしているときに平和にとどまることも、やはり、ひとつの犯罪である。
人は恋愛を語ることによって恋愛するようになる。
人間は、死、悲惨、無知を癒すことができなかったので、自己を幸福にするために、それらをあえて考えないように工夫した。
想像力は何でもやってのける。それは美と正義と幸福をつくるが、これこそ、この世におけるすべてなのである。
人間は偽装と虚偽と偽善にほかならない。自分自身においても、また他人に対しても。
我々は現在についてほとんど考えない。たまに考えることがあっても、それはただ未来を処理するために、そこから光を得ようとするに過ぎない。現在は決して我々の目的ではない。過去と現在は我々の手段であって、未来のみが目的である。
世論はいわば世界の女王であるが、力は世界の暴君である。
自然はそのすべての真理を、それぞれ自身の裡(うち)においた。我々の技巧は、それらの一方を他方の裡に閉じこめようとする。だが、それは自然的ではない。
人生における悪い出来事のほとんどは、人間が一室にじっと座っていられないところから起きる。
ささいなことが私たちの慰めになるのは、ささいなことが私たちの苦しみになるからである。
人は独りで死ぬであろう。故(ゆえ)に、人は独りであるかのごとく行動しなければならない。
クレオパトラの鼻がもう少し低かったら、世界の歴史は変わっていただろう。
戦いほど面白いものはない。だが、勝利はそれほどでもない。
圧制は、自己の秩序を超えて全般を支配しようとするところに存する。
智恵は知識にまさる。
死ぬ危険がない時に死のうと考えるよりも、死のうと考えずに死を受けるほうが、より容易に死ねる。
いかなる身分でも、気晴らしができる限り幸福である。それは自分自身について考えることから心をそらしてくれるという幸福である。
人々は美徳の点ではそんなに差異はなく、悪徳の点でのみ差異がある。
美貌のためにある女を愛する人は、その女をいつまでも愛するであろうか?否である。
人間はつねに、自分に理解できない事柄は何でも否定したがるものである。
虚栄は人間の心の中に深くいかりをおろしているので、軍人も兵卒もコックも人足も、それぞれ自慢する。
神を感じるのは心情であって、理性ではない。信仰とは、そのようなものである。
原理とは、現在だれもが使用中で、すべての人の眼の前に存在するものである。
一つの事柄について全てを知るよりも、全ての事柄について何らかのことを知るほうがずっとよい。知識の多面性が最上である。
人間には二種類しかない。一つは自分を罪人だと思っている善人であり、他の一つは、自分を善人だと思っている罪人である。
人は多くの場合、他人と異なるのみならず、また、いろいろなときにおける自分自身と異なることが多い。
実物には一向に感心しないくせに、それが絵になると、似ていると言って感心する。絵とはなんとむなしいものだろう。
世の中にはたくさんよい格言がある。人がそれらの適用を誤っているだけだ。
欠陥に満ちていることは一つの悪である。しかし欠陥に満ちていながらそれを認めようとしないのは、さらに大きな悪である。
美と呼ばれるものは、しばしば流行と地域で決められる。
恋愛に年齢というものはない。それはいつでも生まれる。
徳の高さは、人が何か特別に頑張った時に判断すべきではない。日頃の行いで判断すべきである。
栄誉を否定する論者も、よく論じた栄誉は得たいと望む。
人々は宗教を軽蔑している。彼らは宗教を嫌悪し、宗教が真実であるのをおそれている。これを矯正するには、まず宗教が理性に反するものでないことを、示してやらねばならない。
お前は主人から可愛がられ、おだてられたからといって、それだけで奴隷でなくなると思うのか?奴隷よ、お前は実におめでたい。お前の主人はお前をおだてているが、いまにお前を打つであろう。
空想が人の心に第二の天性を植えつけると、理性でいくら逆らっても無駄である。
謙遜な議論も、高ぶった人たちには高慢の種となり、謙譲な人たちには謙遜の種となる。
人は宗教的確信に促されて行う時ほど完全に、また喜んで悪事を働くことは決してない。
偉人も小人も、同じ偶然、同じ不快、同じ情熱にみまわれる。だが一方が車輪の端にいるのに対し、一方は車輪の中心にいるから、同じ動きでも振り回されることが少ないのである。
人間は互いにへつらうことばかりやっている。人間同士の結びつきは、かかる相互の欺瞞(ぎまん)の上に築かれる。
人間の偉大さは、自分の惨めさを知っているという点にある。樹木は自分の惨めさを知らない。
無知を恐れるなかれ。偽りの知識を恐れよ。
情念は過度でなければ美しくありえない。人は愛しすぎないときには十分に愛していないのだ。
雄弁も長たらしくなると退屈する。
力なき正義は無能であり、正義なき力は圧制である。
己はこの世のすべてである。
人にほめられたいなら、自分のことをほめるな。
時は悲しみと口論の傷を癒す。(時がたてば)人はみな変わる。過去の自分はもはや現在の自分ではない。悩む者も悩ます者も、時がたてば別人になる。
人間は一本の葦(あし)にすぎない。自然のうちで最も弱いものである。だがそれは考える葦である。
いつも駄洒落を言う者は、性格の悪い人間である。
人間は自分のことを一向に知らないものだから、多くの人々は、健康であるのに死んでいくように思い、また、多くの人々は、死にかけているのに健康であると思う。
正義なんて滑稽ものだ。一筋の川で限界づけられるのだから。ピレネー山脈のこちら側では真実でも、向こう側では誤りなのだ。
法律は正義であるがゆえに従うといって服従している者は、自分の想像する正義に服従しているのであって、法律の本質に服従しているのはない。
人間の悲惨を知らずに、神をのみ知ることは、傲慢を惹(ひ)き起す。
誰でもわが身がすべてである。そのため、自分は誰にとってもすべてだと思うようになる。
心には、理性で分からない理由がある。
すばらしい英知は、極度の無知と同じく狂愚として非難される。
いちばん小さい事物を軽蔑し、いちばん大きい事物を信じない人間から何が得られようか。
我々は理性によってのみではなく、心によって真実を知る。
好奇心というものは、実は虚栄心にすぎない。たいていの場合、何かを知ろうとする人は、ただそれについて他人に語りたいからだ。