ブレーズ・パスカルは、フランスの哲学者、自然哲学者、物理学者、思想家、数学者、キリスト教神学者、発明家、そして実業家としての有名な天才であった。彼の才能は多分野に及び、「人間は考える葦である」まで言わしめた多数の名文句などの思想に加え、パスカルの三角形、パスカルの原理、パスカルの定理などの発見で彼の名を知らしめた。しかし、短命であり、三十代で逝去している。
アナグラムのヴォルテールという名で知られるフランソワ=マリー・アルエ(François-Marie Arouet)は、フランスの哲学者、文学者、歴史家であり、啓蒙主義を代表する人物として有名です。また、百科全書派の学者の一人としても活躍し、『イフィリディ』『征服』『フィルヌーヌ』などの書物で知られています。
ベンジャミン・フランクリンはアメリカ合衆国の政治家、外交官、著述家、物理学者、気象学者であり、印刷業で成功を収めた後、政界に進出しアメリカ独立に大きな貢献をした。雷が電気であることを明らかにした実験で知られており、米100ドル紙幣や米50セント硬貨に彼の肖像が描かれている。勤勉性、探究心の強さ、合理主義、社会活動への参加など18世紀の近代的人間像を象徴し、国民性を超えて讃えられる存在である。
ニッコロ・マキャヴェッリは、ルネサンス期のイタリアの政治思想家、外交官である。1469年5月3日生まれのフィレンツェ共和国の出身で、『君主論』『ティトゥス・リウィウスの最初の十巻についての論考(ディスコルシ)』『戦術論』などの著書を残した。現実主義的な政治理論を創始したルネサンス期の理想主義的な時代において、政治を宗教・道徳から切り離し考えるべきであるという主張をする。
フランシス・ベーコンは、イギリスで1561年1月22日に生まれ、父ス・ニコラス・ベーコンが大法官兼庶民院議長兼国璽尚書であり母は女王エリザベス1世の側近であった初代バーリー男爵ウィリアム・セシルの子として生まれました。一番末っ子である彼は、イングランド近世(ルネサンス期、テューダー朝(エリザベス期)からステュアート朝)の一番著名な政治家として知られており、「知識は力なり」(Ipsa scientia potestas est)の名言や、「イドラ」の概念で有名です。
サミュエル・ジョンソンは18世紀イングランドの文学者で、詩人、批評家、文献学者として知られ、『英語辞典』の編集で有名になった人物である。生前から「文壇の大御所」として名高く、警句から「典型的なイギリス人」と呼ばれることもあった。父親は小さな書店主であり、家が貧しかった彼はオックスフォード大学の学費がかさみ、故郷に戻り教員になる。その後20歳年上の未亡人エリザベス・ポーターと結婚した。
アルトゥール・ショーペンハウアーは1788年、ドイツのダンツィヒに生まれた哲学者。当時の国際語であったフランス語を学び、『意志と表象としての世界』という著書で著名な存在となりました。
スタンダールは、1783年1月23日にフランスのグルノーブル高等法院の弁護士の子として生まれました。7歳の時に亡くなる前に、彼は幼少期を地方の名士の子として何不自由なく暮らしました。彼が書いた『赤と黒』や『パルムの僧院』などの大作 近代小説の開祖の一人と考えられています。ナポレオン失脚後はミラノに移住し、評論『恋愛論』のような新しい傾向の小説を書きましたが、生前は売れなかったそうです。
ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンは、1770年12月16日にケルン大司教領のボンで生まれたドイツの楽聖、作曲家、ピアニストである。父ヨハン・ヴァン・ベートーヴェンと母マリア・マグダレーナ・ケーヴェリヒ・ライムの第二子であったが、長男であるルートヴィヒ・マリーアは生誕6日後に死去した。ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンの作曲は古典派音楽の集大成かつロマン派音楽の先駆とされ、後世の音楽家たちに多大な影響を与えた。
1724年、東プロイセンの首都ケーニヒスベルク(現ロシア領カリーニングラード)で馬具職人の第四子として生まれた。1732年、敬虔派宿泊施設であるフリードリヒ校に通学し始める。当校ではラテン語教育が重視されたほか、哲学は正規授業としてあり、ヴォルフ派の哲学が教えられていた。イマヌエル・カントは1724年、東プロイセンの首都ケーニヒスベルク(現ロシア領カリーニングラード)で馬具職人の第四子として生まれた。生涯のほとんどをその地で過ごしそこで没した。両親はルター派の敬虔主義を信仰していた。
貝原益軒は、江戸時代の本草学者、儒学者であり、福岡藩士出身である。50年以上にわたり著述を残し、経学、医学、民俗、歴史、地理、教育などの分野において先駆者的な業績を挙げた。貝原は1648年、18歳で福岡藩に仕えたが、2代藩主黒田忠之の怒りに触れ、7年間の浪人生活を送ることとなった。その後、27歳のときに3代藩主光之に許され帰藩し、藩費による京都留学を行った。7年間の留学の後、黒田藩の祐筆に就任した。
ジョージ・ゴードン・バイロンは、第6代バイロン男爵として知られ、ロマン派の詩人として19世紀に人気を集めた。『チャイルド・ハロルドの遍歴』などの長編物語詩を発表し、ギリシア独立軍に参加したが、熱病にかかって没した。
Jean de La Fontaineは17世紀のフランスの作家、詩人、思想家です。有名な『フランスの動物詩』を作った真っ先に思い浮かぶフランスの詩人です。彼の詩は現在でも人々に人気を博しています。
吉田兼好は鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての歴史上の人物で、官人・遁世者・歌人・随筆家として知られている。彼は卜部氏の系譜に属し、『徒然草』を作成している。また、中学校国語の検定済み教科書に「兼好法師」と表記されている。
アレキサンダー・ポープはイギリスの詩人であり、1688年5月21日に生まれた。幼少の頃から詩作を試み、『牧歌』で16歳の時の作であるとして評判を博する。1715年から1720年の間、ホメロスの『イーリアス』の翻訳を行い、『オデュッセイア』の翻訳を1725年から1726年の間に行った。また、1725年に『シェイクスピア全集』を出版した。
ウィリアム・ヘイズリットは、イギリスの著作家、批評家、随想作家である。1793年にロンドンのハックニーにあるユニテリアン・ニュー・カレッジに入学したが、牧師には向いていなかったということから1年後にウェムに戻った。イギリスやフランスの哲学書、セルバンテス、ボッカチオ、ラブレー、モンテーニュなどに影響を受けたヘイズリットの作品は言語と感情の力を重視している。
日本の江戸時代の儒学者である佐藤一斎は、1772年11月14日(当時の明和9年10月20日)江戸浜町(現在の中央区日本橋浜町)で生まれた。佐藤家は美濃国岩村藩出身で、代々藩の家老を務める家柄だった。1790年から岩村藩に仕えていたが、翌年に免職となり、大坂で遊学した後、江戸に戻り、林簡順の門下となり、1845年の江戸大地震を経て、婦人(夫人か妹か不明)の付き添いで林家の令嬢を越えて建てた屋敷を「捨蔵」と名付けるなど、多くの方々と出会い、学問の拠り所となった。安政6年(1859年)9月24日に病死した。
聖アウレリウス・アウグスティヌスはローマ帝国時代の信仰家、神学者、哲学者、説教者であり、キリスト教を公認したテオドシウス1世の時代に活動し、正統信仰の確立に貢献した教父である。彼は聖公会、カトリック教会、ルーテル教会をはじめとする教派の聖人として崇められ、多くの地域で祭られている。
ジョン・ミルトンはイングランドの詩人であり、共和派の運動家でもある。イギリスのケンブリッジ大学のクライストカレッジに入学し、学士、修士号を取得した。彼の代表作となる『失楽園』はルネサンス期の長編叙事詩として知られており、清教徒革命時には教会改革論や言論の自由などについても論じた。
ジャン・パウルは1763年3月21日、ドイツのフランケンに生まれた。父親は学校教師兼教会のオルガン奏者でしたが、1779年にすでに死去していたため、一家は極貧状態となってしまいました。ジャン・パウルはそうした貧しい家庭の中で育ちましたが、1784年には精神医学論文を発表し、1786年には『陽気なヴッツ先生』を発表し、これを皮切りに『ヘスペルス』『ジーベンケース』『巨人』『生意気ざかり』『彗星』など作品を山積みするようになりました。彼の作品は該博な知識に基づく機知とユーモアていっぱいで、古典主義やロマン主義とは全く違う独自の文学世界を構築しました。
ジョン・ドライデンはイングランドの詩人、文芸評論家、劇作家であり、王政復古時代のイングランド文学を支配し、影響力のある人物であった。ノーサンプトンシャー州オーンドルのドライデン夫妻の間に生まれた14人兄弟の長男であった。1644年にウェストミンスター校へ入学しカリスマ派の教師で厳格な教育を受けた。
トーマス・ジェファソンはアメリカ合衆国の政治家で第3代アメリカ合衆国大統領(1801年 - 1809年)であり、アメリカ独立宣言の執筆者の一人であり、共和制を推進し、イギリスの帝国主義に対抗する偉大な「自由の帝国」の陰にある力としてアメリカの姿を描いた首都ワシントンD.C.で就任演説を行った最初の大統領である。'
ウィリアム・ブレイクはイギリスの詩人、画家、銅版画職人である。1757年11月28日ロンドンで生まれ、1772年に画家ジェイムス・バザイアの元に入門し1780年に新入詩人として御用達となる。1783年の『ソングス・オブ・インナースペース』でデビューし、後に『ミルトン』の序詞「古代あの足が (And did those feet in ancient time)」が聖歌『エルサレム』として現在のイギリスで流行した。
エドマンド・バークはアイルランド生まれのイギリスの政治思想家、哲学者、政治家である。彼は「保守思想の父」として知られ、1765年から1794年までイギリス庶民院(下院)議員を務めた。アメリカ独立革命運動を支持した一方、その後のフランス革命には反対した。彼はフランス革命を止める立場である「旧ホイッグ」と呼ばれ、それに反対してフランス革命を支持する「新ホイッグ」を提唱した。主著は『フランス革命の省察』であり、ロマン主義およびリアリズムの歴史的な起源を説明した。
アダム・スミスは18世紀のイギリスを中心とした啓蒙時代に生きた哲学者・経済学者で、『道徳感情論』および『国富論』の著書で知られる「経済学の父」として国際的な評価を得ている。彼の大きな影響を受けた18世紀のイギリス社会は「啓蒙の世紀」と呼ばれるかたちで発展を遂げながら、貧困・格差・財政難・戦争といった深刻な社会問題をも抱えていた。
デジデリウス・エラスムスは、1466年10月27日生まれのネーデルラント出身の司祭・神学者・哲学者である。『痴愚神礼賛』『エンキリディオン』『平和の訴え』などの著作でキリスト者の一致と平和をテーマにし、『校訂版 新約聖書』を作成した。
ジョゼフ・アディソンは、イギリスのエッセイスト、詩人、劇作家、政治家、文学者である。熱心なホイッグ党の支持者であり、アン女王の治世に友人のリチャード・スティールと共にエッセイ新聞『スペクテイター』を創刊して、18世紀市民文学の基礎を確立したことで知られている。
ウィリアム・クーパーは18世紀イギリスのロマン主義詩人であり、1731年にイングランド南部のハートフォードシャーで牧師の子として生まれました。ウェストミンスター学校を卒業した後、ミドルテンプル法曹学院に入り、ロンドンの法律事務所で書記として働いていました。精神的な問題から苦しみ、ケンブリッジャーのハンティンドンの小さな家に転居したのち、彼は福音主義信仰のアンウィン一家と出会い、彼らと長期間一緒に暮らした。その中で彼は数多くの詩を書き、数々の名著を残しました。
ゴットホルト・エフライム・レッシングは、1729年1月22日生まれのドイツの劇作家、思想家、批評家である。彼はフランス古典主義からの解放を目指し、ドイツ文学のその後のあり方を決めるべくドイツ啓蒙思想の代表的な人物となり、ゲーテやシラー、カントなど当時のドイツ文学・思想に多大な影響を及ぼした。西洋近代の転生説を最初に明記し、現代日本への影響も大きい。文学・哲学界でスピノザ論争が起きている。ライプツィヒ大学で医学と神学を学んだ後、著作・創作活動とともにベルリンとライプツィヒで活動し1748-1781年にかけて歴任した。
エドワード・ヤングはイギリスの詩人であり、英国ロマン主義に大きな貢献をしました。1773年7月3日にイングランドのカムデンシャーで生まれ、サラーズ大学を卒業した後、8年間パリで余暇生活を送りました。1757年に『ナイト・Thoughts』を出版し、1765年に『悲しみの哀歌』を出版しました。1797年に亡くなりました。
サー・アイザック・ニュートンは、イングランドの自然哲学者・数学者・物理学者・天文学者・神学者であり、ニュートン力学の確立や微積分法の発見、1717年の造幣局長として定めたニュートン比価、国際単位系(SI)における力の単位であるニュートン(N)など様々な業績を残している。
サミュエル・テイラー・コールリッジはイギリスのロマン派詩人であり、批評家、哲学者である。1791年にケンブリッジ大学ジーザス・カレッジに入学し、ジョゼフ・プリーストリーなどの著作からユニテリアニズムに近づいた。1772年10月21日生まれ、イギリスの南西部デヴォンシャー州オタリー・セント・メアリーで、13人兄弟の末子として生まれた。幼い頃から読書に親しみ、6歳からグラマースクールに通い、神童と呼ばれる。1834年7月25日に亡くなるまで、読書や哲学に親しみ、ウィリアム・ワーズワースとの共著『抒情民謡集』を刊行し、イギリスのロマン主義運動の先駆けとなった。
クロード=アドリアン・エルヴェシウスは18世紀フランスの哲学者、啓蒙思想家である。親交のあったドルバックとともに、啓蒙時代の唯物論の代表的作家とされる。スイスからパリに移住した医者の家系に生まれ、ルイ15世の王妃マリー・レクザンスカの筆頭侍医の父親となった。勤め先では徴税請負人などを務め、1751年にグラフィニー夫人の姪アンヌ=カトリーヌ・リニヴィル(愛称ミネット)と結婚する。その後、王妃の司厨長の地位を購入し、冬場を除く一年の大半を学問研究に捧げた。
ウマル・ハイヤームは、セルジューク朝期のイラン出身の学者・詩人で、イラン・イスラーム文化の代表者である。数学・天文学に通じた学者としてセルジューク朝のスルターンであるマリク・シャーに招聘され、メルヴの天文台で暦法改正にたずさわり、現在のイラン暦の元となるジャラーリー暦を作成した。
ジェイン・オースティンは1775年12月16日ハンプシャーのスティーブントン出身のイギリスの小説家である。9歳で孤児となった父のジョージ・オースティンは伯父のフランシス・オースティンに助けられ牧師となった。ジェイン・オースティンの作品では、イングランド南岸部の田舎の中流社会を舞台として、女性の私生活などを結婚を中心として描いている。英語における自由間接話法(描出話法)の発達に大きく貢献したことでも有名である。'
William Wordsworthは、1770年4月7日、イングランドのカンブリア(現在のCumbria)において父親が5人兄弟の2番目に生まれたロマン派詩人である。その主要な著作は『抒情民謡集』で、サミュエル・テイラー・コールリッジとの共著となっている。彼が行った自然讃美の情熱をその詩に押しめたことで、イギリス国内での知名度が上がっていった。1843年、73歳の時、彼は桂冠詩人となり、1850年、80歳で亡くなった。
トマス・ホッブズは、1588年4月5日にイングランドで生まれた哲学者であり、17世紀の近世哲学において、機械論的世界観の先駆的哲学者の一人であるほか、唯物論の先駆的思索を行った哲学者、政治哲学者としても側面が広く周知されており、人工的国家論の提唱者であり、イングランド王チャールズ2世の時代には家庭教師としても活躍していた。'
サー・トーマス・ブラウンは17世紀イングランドの著作家であり、フランシス・ベーコンの自然史研究に影響を受け、自然界に深い興味を持つ著作家として知られている。彼の文章の技巧や古典、聖書などの引用が散りばめられた作品が特徴で、豊かで特異な散文を操ることができた。ロンドン生まれでウィンチェスター・カレッジで学んだ後オックスフォード大学に進学した後、海外を旅行するなどしていた。'
松尾芭蕉は江戸時代前期の俳諧師であり、和歌の余興を主とした滑稽な句風を芭蕉風と呼ばれる芸術性の高い句風として確立しました。元禄2年3月27日に河合曾良と共に東北から北陸を経て美濃国の大垣まで巡った旅を記した『おくのほそ道』は特に有名です。'
ピエール・コルネイユは、17世紀フランスで有名な古典主義の時代の劇作家であり、ラシーヌ、モリエールと並び称される。彼の最初の作品である『馬鹿な青年のメリット』(Mélite)は1629年に書かれた。彼の劇作の内容は、キリスト教信仰とフランス社会の相乗効果を生み出し、彼に多くの賞賛をもたらした。1637年に出版された『ル・シッド』は彼の独創的な旋律表現を次の世代に受け継がせるために確固たる地位を保ち続けている。
ダニエル・ウェブスターは南東部アメリカのニューハンプシャー州ソールズベリーで、エベネゼル・ウェブスターとアビガイル夫妻の息子として生まれた。一家は貧しかったが、教育には熱心で息子を高校に送り、1801年に栄誉学位を取得した。資金難に見舞われた彼は、自分で貯蓄を積み、1802年にハーバード法学校に入学し、1807年に卒業した。同年に信用ではあっても、弁護士の資格を得た。歴史上のスーパースター弁護士として名を残し、アメリカ合衆国憲法体制の大好き者でもあった。
ジョージ・ワシントンは、アメリカ合衆国の軍人、政治家およびアメリカ合衆国建国の父のひとりとされている。1732年2月22日にバージニア植民地で生まれたジョージ・ワシントンは、1752年に軍部に従事するようになった。1775年にはアメリカ独立戦争を指揮し、1783年までをアメリカ合衆国の初代大統領として務めた。1787年にはアメリカ合衆国憲法の制定を決めるなど重要な働きをした。1797年には歴任を退き、1799年12月14日に死去した。
ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトは、1756年1月27日にザルツブルクで誕生し、古典派音楽・ウィーン古典派を代表する存在である。彼は神聖ローマ帝国領(当時の正式名称は「ドイツ国民の神聖ローマ帝国」)に属していたオーストリアから発展した才能ある音楽家で、主に現在のオーストリアを活動拠点にしていた。モーツァルトはハイドンやベートーヴェンと共に、古典派音楽の発展に大きく貢献した。
初代准男爵サー・ウォルター・スコットはスコットランドの詩人であり、ロマン主義作家として歴史小説で名声を博した。1771年エディンバラに生まれ、父は弁護士、母は医学部教授の長女であり、祖先はスチュアート朝の庶流の分流である。幼時3歳時に小児麻痺で左足を不自由にしたが、スコティッシュ・ボーダーズ地域で古い史譚やおとぎ話などの伝承文化から多くの影響を受けた。
ウィリアム・ペンはイングランド植民地の政治家、宗教家(非国教徒)であり、アメリカ合衆国であるペンシルベニア植民地総督を務め、フィラデルフィア市を建設しペンシルベニア州を整備した人物です。ペンが示した民主主義重視は、アメリカ合衆国憲法に影響を与えました。
ヘーゲルは18世紀後半から19世紀初頭にかけて活躍したドイツの哲学者で、当時ドイツの状況を反映した観念論を代表する思想家として著名です。ヨハン・ゴットリープ・フィヒテ、フリードリヒ・シェリングと並ぶ観念論の代表格で、巨匠と評される存在です。
アントワーヌ・フランソワ・プレヴォ・デグジルは、1697年にフランスのエダンに生まれ、カトリック教会の聖職者として働いた。彼はイエズス会学校で学び、後に軍に入隊したり外国に逃亡するなどの経験をした。その後、彼は小説家として活躍し、特に『マノン・レスコー』という作品が有名である。この作品は、彼自身の人生経験をもとにしているとされ、18世紀のフランス文学において重要な位置を占めている。彼は1763年に死去した。
1766年4月22日にフランスで生まれたアンヌ・ルイーズ・ジェルメーヌ・ド・スタールは、フランスの批評家、小説家として政治思想や文芸評論を行い、ナポレオンと対立を続けた。スイス人の政治家・財政家の娘として生まれ、幼少時から両親の教育を受ける。フェミニズムの先駆者の1人でもある。
沢庵宗彭は江戸時代前期に活躍した日本の臨済宗の僧で、但馬国出石(現兵庫県豊岡市)の生まれ。8歳のとき但馬山名家は織田信長の侵攻に遭い配下の羽柴秀吉に攻められて滅亡し、父は浪人した。沢庵は天正10年(1582)に宝暦寺隠居となった。詩文、書画、茶の湯に親しみ、多くの墨跡を残し、沢庵漬けの考案者と言われている。正保2年12月11日(1646年1月27日)には江戸で普光国師として諡われた。'
近松門左衛門は江戸時代の人形浄瑠璃および歌舞伎の作者である。福井県の武士杉森信義の次男として生まれ、肥前国唐津、山城国、長門国萩など諸説があるが、現在は越前とされている。杉森信義は福井藩第三代藩主松平忠昌に仕え、死後はその子松平昌親に分知された吉江藩で藩主昌親に仕えた。
ロバート・バーンズは1759年1月25日にスコットランド南西部のサウス・エアシャイア、アロウェー(Alloway)の貧しい小作農の家に7人兄弟の長男として生まれました。かつての独立戦争の精神に共感し、1781年からフリーメイソンに加入しました。1786年にはスコットランド語のエアシャイア方言を使った詩集『Poems- Ch'iefly in the Scottish Dialect』を発表しました。1796年7月に癆で死去した、スコットランドの国民的詩人です。
フランソワ・ド・サリニャック・ド・ラ・モート=フェヌロンは、フランスの神学者・作家である。1651年8月6日、サン・モンダン(Sainte-Mondane, ヌーヴェル=アキテーヌ地域圏)のフェヌロン城に生まれる。祖先の何人かはサルラ(Sarlat)の司教を勤めたという。兄弟が多かったので早くから聖職者となるよう期待され、幼い時から家庭教師からギリシア語と古典を学んだ。16歳の時、カオール大学へ送られ、哲学と修辞学を学んだ。聖職者ジャン・ジャック・オリエールやヴァンサン・ド・ポールの友人であった叔父アントワーヌの紹介で、コレージュ・デュプレシスで神学を学ぶかたわら、ソルボンヌにも通い、最終的にパリの大司祭に任命された。
チャールズ・ラムは、イギリスの作家・エッセイストであり、『エリア随筆』は随筆(エッセイ)の傑作と評価されている。1782年から1789年までクライスト・ホスピタル校に在学し、南海会社に入り、恩給をもらって退職した。1796年、姉メアリーがナイフで母親を刺殺し、ラムは結婚を断念し精神疾患の患者の姉の面倒を見続ける。副業としての文筆業では、姉との共著『シェイクスピア物語』など数多くの作品を発表している。
シャルル=モーリス・ド・タレーラン=ペリゴールはフランスの政治家・外交官であり、ウィーン会議のブルボン家代表として知られる。第一帝政時にはベネヴェント大公、ブルボン王政時にはオータン司教となり、長期にわたってフランス政治に君臨した。有名な画家ウジェーヌ・ドラクロワとの酷似から息子ではないかといわれる。
1759年に豊姫(ふぉうき)の婿養子としてお重定入りした上杉鷹山は、1760年に米沢藩主上杉重定の養嗣子となって桜田の米沢藩邸に移り名を改め、1763年より尾張国出身の名門校である三条院の学びを開始しました。高鍋藩改革を開始し、江戸時代の名君として知られるようになりました。
岡本文弥(おかもと ぶんや)は、大阪出身の浄瑠璃太夫で古浄瑠璃太夫として知られる。道頓堀を拠点に操り芝居を興行し、カラクリや糸繰を駆使した舞台演出で得た人気は今なお続いている。弟子に三代目岡本文弥(元禄中期-末期)、都越後掾らがいる。
ピエール・アンブロワズ・フランソワ・ショデルロ・ド・ラクロは、1741年10月18日にフランスのアミアンで生まれた軍人であり、小説『危険な関係』の作者です。フランス語話者の間では「Choderlos」と発音するかどうかについて論議されることもあるそうです。彼は特に由緒ある家柄の貴族ではなく、軍人を志してかつての貴族家族に続くために、教養と軍事等の軍隊で尚良の適任を得た。
王陽明(1472-1529)は中国明代の儒学者・思想家・高級官僚・武将である。彼は朱子学に批判的であり、書物による物事を窮めることで物事の理を得るのではなく、それが本来自分自身に備わっているという陽明学を起こした。また、武将としても優れており「三征」などの功績もある。
大田南畝は、天明期(1736~1830年)を代表する文人・狂歌師で、牛国を舞台にした「お半翅文書」の刊行者としても知られています。彼は高い支配勘定の職についていながらも、狂歌、洒落本、漢詩文、狂詩、などを積極的に発表し、狂歌三大家(唐衣橘洲・朱楽菅江と共に)の1人として知られていました。'
江戸時代中期の儒学者、思想家、文献学者である荻生徂徠(おぎゅう そらい)は、物部氏の出身であり、江戸幕府第5代将軍徳川綱吉の侍医だった、荻生景明の子として生まれた。古代の言語を全く新しい角度から扱った朱子学や伊藤仁斎の仁斎学を批判して、古代の言語、制度文物の研究を重視する「古文辞学」を標榜した。'
ラプラスは18世紀のフランスの数学者、物理学者、天文学者です。彼の重要な貢献は、統計力学、数学原理の証明と発見にあります。彼は独自の方法を用いて複雑な現象を記述し、分類し解決しました。
ベルナール・ル・ボヴィエ・ド・フォントネルはフランスの著述家であり、1686年、29歳のとき、『神託の歴史』、『アジャオ人物語』、『世界の多数性についての対話』を発表した。多宇宙論の啓蒙書、『世界の多数性についての対話』が当時のヨーロッパ諸言語に訳され、知識階級に影響を与えた。アカデミー・フランセーズの会員であり、ルーアンに生まれた母の2人の兄は有名な劇作家であった。
トマス・モアは、イングランドの法律家、思想家、人文主義者であり、ユートピアという政治・社会を風刺した作品で有名である。ロンドンの法律家の家で生まれ、オックスフォード大学、ニュー法学院、リンカーン法曹院を経て、1504年に下院議員に選出された。1535年にヘンリー8世により反逆罪で処刑されたが、1935年に没後400年を経てカトリック教会と聖公会で聖人となった。
第4代オーフォード伯ホレス・ウォルポールは、イギリスの政治家、貴族、小説家。政治家で初代首相ロバート・ウォルポールとキャサリン・ショーターの三男である。イートン校とケンブリッジ大学で学び、1739年から2年間、詩人トマス・グレイとともにフランス、イタリア遊学を行っている。下院議員(1741年 - 1768年)を務めた。1791年に死んだ甥の第3代オーフォード伯ジョージ・ウォルポールの襲爵で第4代オーフォード伯となり、1797年に69歳で死去している。彼の名は、『オトラント城奇譚』というゴシック小説で知られている。
サー・フィリップ・シドニーは、イングランドの詩人、廷臣、軍人であり、『アストロフェルとステラ』、『詩の弁護』、『アーケイディア』などの著者として知られています。ケントのペンスハーストでサー・ヘンリー・シドニーとレディ・メアリー・ダドリーの長男として生まれ、初代ノーサンバーランド公ジョン・ダドリーの娘であり、初代レスター伯ロバート・ダドリーの姉妹であった。妹のメアリーと第2代ペンブルック伯ヘンリー・ハーバートとの結婚で、詩人達のパトロンとなった。『オールド・アーケイディア』は妹メアリーに献呈された散文ロマンス作品で、弟は初代レスター伯ロバート・シドニーである。
ジャン・ル・ロン・ダランベールは18世紀フランスの哲学者、数学者、物理学者であり、百科全書派の知識人の中心者でした。母は「百科全書」の編集にも貢献し、著名人、知識人、上流貴族らを集めたサロンをサントノレ通り界隈で開かれていました。産まれてすぐに母によってノートルダム大聖堂の北側に隣接したシテ島のサン=ジャン=ル=ロン教会の近くで育てられました。
ボリングブルックは、イギリスの政治家、詩人、作家である。1600年にイギリスのチェシャー郡で生まれ、1646年にデビンシャム大学で卒業した。オックスフォード大学から政治学の名誉学位を受けている。イギリスの政略に重要な役割を担ったことで有名である。
初代ネルソン子爵ホレーショ・ネルソン(英: Horatio Nelson, 1st Viscount Nelson KB, 1758年9月29日-1805年10月21日)は、アメリカ独立戦争・ナポレオン戦争などで活躍したイギリス海軍提督。ナイルの海戦でフランス艦隊を壊滅させる武功を挙げ、そしてトラファルガー海戦でフランス・スペイン連合艦隊に対して戦史上稀に見る大勝利を収め、イギリス本土侵攻を阻止したが、自身は同海戦で戦死した。イギリスの軍人史上の偉大な英雄と言われ、世界三大提督の筆頭に挙げられることが多い。
レオンハルト・オイラーは、18世紀の数学者・天文学者(天体物理学者)である。18世紀の数学界の中心となり、続く19世紀の厳密化・抽象化時代の礎を築いた。右目を失明していたため「数学のサイクロプス(単眼の巨人)」とも呼ばれたが、あまりにも数学の研究に没頭し過ぎたため左目も失明したが、その後も亡くなるまで研究をやめることはなかった。1720年にはバーゼル大学に入学し哲学を学び、数学者ヨハン・ベルヌーイから数学の教育を受けた。
デモステネスは古代ギリシアの政治家・弁論家であり、アテナイの指導者としてギリシア諸ポリスの自立を訴えて反マケドニア運動を展開し、イサイオスに師事して弁論術を学んだ。古代ギリシア諸都市国家(ポリス)は、かつての市民が武装して防衛に従事する戦士集団がいたが、それを破壊し一人一人の市民の自立を訴えた。
ウィリアム・ピットは18世紀末から19世紀はじめにかけてイギリスの首相として活躍した有名な政治家である。1783年、わずか24歳でイギリス最年少の首相となり、1801年にいったん辞任したが、その後1804年に返り咲き、1806年に没するまで首相の職にあり、首相と大蔵大臣とを兼任していた。彼は当時のイギリスの国内外での功績である社会奉仕活動、税制改革、国家破綻からの回復、アメリカ独立戦争はじめとした海外政策などを手がけるなど、政治家として名を馳せた。
司馬光は中国北宋時代の儒学者であり、歴史家であり政治家でもあった。字は君実、号は迂叟、諡名は文正で、温国公の爵位を贈られた。歴史書『資治通鑑』の編者として著名な司馬光は、旧法派の領袖として王安石ら新法派と対立し、1038年(宝元元年)に進士となった。明の司馬恂はその後裔である。
ジェイムズ・ボズウェルはスコットランド出身の法律家、作家です。1740年10月29日に生まれ、1795年にロンドンで死去しました。グラスゴーの大学で法律を学び、1763年からサミュエル・ジョンソンと友人関係であったことで知られています。オランダのライデン大学で学んだ後、1763-1766年のグランドツアーを行い、ドイツやスイスなどを回ったことが記録されています。1768年に『コルシカ島記』を出版し、1791年に『英米文學詩話』を発表しました。
クレルヴォーのベルナルドゥス(ラテン語:Bernardus Claraevallensis、フランス語:Bernard de Clairvaux、1090年-1153年8月20日)は12世紀のフランス出身の神学者、すぐれた説教家としても有名である。彼は聖公会とカトリック教会の聖人であり、35人の教会博士のうちの一人でもあり、教皇ピウス8世から教会博士の称号を贈られている。卓越した聖書注釈により「蜜の流れるような博士」と称ばれ、また第2回十字軍の勧誘に大きな役割を果たした。ベルナルドゥスはフランスのディジョンに近いフォンテーヌで生まれ、騎士テセランの子として母親アレトはモンバールの貴族の家出で信仰厚く、子供のために宗教的な教育を受けさせた。
ジョシュア・レノルズはロココ期のイギリス画家であり、1723年7月16日にプリンプトンで生まれた。彼の父親は教師であり、1740年から1743年の間にはトマス・ハドソンのもとで修業した。サミュエル・ジョンソンと親交が深く、1746年2月にはジョンソンらとともに「ザ・クラブ」を創設した。1749年にはオーガスタス・ケッペルと知り合い、センチュリオという戦列艦に乗船した等、彼は芸術家としての知名度を高める一方でロイヤル・アカデミー・オブ・アーツの初代会長にも就任した。
式亭三馬は江戸時代後期の地本作家で薬屋、浮世絵師、滑稽本『浮世風呂』『浮世床』などで知られる。浅草の版木師である父のもと、幼少の頃から読書を好み本石町の地本問屋翫月堂掘野屋仁兵衛方に住み込み出版界の事情を知り、成人後に戯作者へと歩み始めた。
ヨハン・フリードリヒ・ヘルバルトは、ドイツの哲学者・心理学者・教育学者である。1776年5月4日に近いオランダ国境のオルデンブルクで生まれ、イェーナ大学で学び、その後ゲッティンゲン大学で私講師として教え、1809年にケーニヒスベルク大学の教授に就任した。1833年に教育学の古典的人物として有名になるが、1841年8月14日に逝去した。彼の影響を受けた教育の分野は多岐に渡り、心理学・倫理学・数学・芸術・社会学・歴史学などに及んでいる。'
千宗旦(せん の そうたん、せん そうたん)は茶人であり、父は利休の後妻千宗恩の連れ子、母は利休の娘お亀である。10歳の頃に祖父利休の希望で大徳寺に喝食として預けられ、禅修行を積み、1594年(文禄3年)に還俗した。その後利休流のわび茶の普及に努めた。
17世紀イギリスの詩人であるサミュエル・バトラーは、ウスターシャーのストレンシャム出身。幼児伯爵夫人の小姓を務め、のち清教徒の保安官サー・サミュエル・リュークに仕えた。1660年王政復古ののち、ウェールズ総督カーベリーの秘書官になり、ラドロー城の執事を務めた。代表作である風刺詩『ヒューディブラス』では清教徒を痛烈に風刺している。『ドン・キホーテ』の影響があるという。晩年は貧苦で死んだという。
伊藤仁斎は江戸時代の前期に活躍した儒学者・思想家で、朱子学から古義学に移行し、『論語古義』『孟子古義』『語孟字義』『中庸発揮』『童子問』『古学先生文集』などの著述を行ない、『論語』を「最上至極宇宙第一の書」として尊重した。
8歳のときに父親の死去により孤児となったジャン・バティスト・ジョゼフ・フーリエ男爵は、フランスの数学者、物理学者として活躍した。彼は熱伝導に関する研究から「フーリエの方程式」を導き、これを解くために「フーリエ解析」と呼ばれる理論を展開した。フーリエ解析は複雑な周期関数をより簡単に記述することができるため、音や光といった波動の研究に広く用いられ、現在でも調和解析の分野として研究されている。また、次元解析の創始者としても注目を浴びている。
フレーベルは、1782年4月21日にドイツのオーベルヴァイスバッハで生まれました。5人の兄弟姉妹と末子として育つも、生後9ヵ月で母を亡くし、継母の息子が生まれ、疎まれていくのを経験して育ちました。彼は、子供たちの養育をめざして人間の教育に捧げる姿勢を育み、ヨハン・ハインリヒ・ペスタロッチに啓発され、幼稚園を創業しました。
フェオファン・グレクはビザンティン(東ローマ帝国)からルーシのノヴゴロド、モスクワに移り住んだギリシャ人で、ロシアにおいて最も偉大なイコン画家の一人であり、アンドレイ・ルブリョフの師でもある。イコン画家として活動する傍ら、キリスト教の聖書の翻訳、研究や教訓の教師として活動した、歴史上重要な人物です。
新井白石は江戸時代中期の旗本・政治家・朱子学者であり、代将軍である徳川家宣とともに幕政を実質的に担った人物である。間部詮房と共に家宣の死後も7代将軍・徳川家継を守り立てていたが、政権の外におかれた譜代大名と次第に軋轢が生じ、家継が夭折し8代将軍に徳川吉宗が就くと失脚し引退した。学問は朱子学、歴史学、地理学、言語学、文学、詩人などを擅としており、多くの漢詩が伝わる。白石は号で諱は君美だった。1657年2月10日、江戸大火により上野国新田郡新井村に没落した父親の所属する上総久留里藩に仕官し、目付をつとめている。
アルブレヒト・デューラーは、ドイツのルネサンス期の画家、版画家、数学者であり、1471年5月21日にニュルンベルクに生まれた。1455年にハンガリー出身で金銀細工師をしていた父アルブレヒトから連れてきた父の家庭の14人から18人の兄弟の3番目として生まれた。彼の作品はその独特な手法で国際的な評価を受けており、彼の芸術は、技術的な精巧さと強い感受性を兼ね備えたものだった。
慈雲(じうん)は江戸時代後期の真言宗の僧侶で、戒律を重視した正法律を提唱した雲伝神道の開祖であった。大坂中之島で上月安範の子として生まれ、摂津の法楽寺で出家し、京都に行き古学派の儒学を学んだ後、奈良に遊学し河内の野中寺で修行を行い、1738年に具足戒を受け、翌年に忍網から灌頂を受けた。
広瀬淡窓(1782年5月22日-1856年11月28日)は江戸時代に活躍した日本の儒学者、教育者、漢詩人である。彼は豊後国日田の出身で、少年の頃より聡明で、久留米の浪人で日田代官所に出入りしていた松下筑陰に師事し、詩や文学を学んだという。16歳のときに筑前国亀井塾(南冥昭陽父子の学塾)に遊学しているが、大病を患い19歳の暮れに退塾し帰郷した。その後、日田で予備校を開いたほか、自らの漢詩を発表するなど、文学活動にも励んだ。']
慈円(じえん)は、1155年5月17日(慈円の旧字体では久寿2年4月15日)に生まれ、1225年10月28日(嘉禄元年9月25日)に没した天台宗の法華宗僧である。父は摂政関白・藤原忠通、母は藤原仲光、兄に九条兼実がいる。仁安2年(1167年)、明雲に師事して入門した慈円は治承2年(1178年)に法性寺座主に任ぜられ、養和2年(1182年)に覚快法親の座を継いだ。慈円の最大の特徴は『愚管抄』を書いたことである(なお、杉橋隆夫立命館大学名誉教授によると、そうではないとする異説がある)。