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ショーペンハウアー

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アルトゥール・ショーペンハウアーは1788年、ドイツのダンツィヒに生まれた哲学者。当時の国際語であったフランス語を学び、『意志と表象としての世界』という著書で著名な存在となりました。

人生は、幼年期には遠くから見た舞台装飾に、老年期には間近に見た舞台装飾に似ている。
礼儀正しさが人の本性に訴えかける働きは、熱がロウに伝える働きのごとし。
誰もが自分自身の視野の限界を、世界の限界だと思い込んでいる。
人は通常、金を貸すことを断ることによって友を失わず、金を貸すことによってたやすく友を失う。
軽信というものは、善良に生まれついた人に具(そな)わる特徴である。
人間は、自分の頭脳や心を養うためよりも何千倍も多く、富を得るために心を使っている。しかし、私達の幸福の為に役立つものは、疑いもなく人間が外に持っているものよりも、内に持っているものなのだ。
睡眠は死からの負債である。睡眠は生命を維持するために、死から借りるものである。
憐憫はあらゆる道徳律者の基準である。
卑しい人たちは、偉人の欠点や愚行に非常な喜びを感じる。
自分でおこなった貴重な省察は、できるだけ早く書きとめておくべきである。
虚栄心は人を饒舌にし、自尊心は沈黙にする
世論は振り子の運動の法則に従う。
人生には正真正銘の本質的な価値などない。人生はただ、欲望と幻影によって動き続けるだけだ。
他人の考えを読み取ることは他人の食べ残しを食べるようなもの、他人の脱ぎ捨てた衣服を着るようなものだ。
誰かが嘘をついていると疑うなら、信じたふりをするとよい。そうすると彼は大胆になり、もっとひどい嘘をついて正体を暴露する。
人生の幸福にとっては、我々のあり方、すなわち人柄こそ、文句なしに第一の要件であり、最も本質的に重要なものである。
富は海水に似ている。飲めば飲むほど渇く。名声についても同じことが当てはまる。
老年の歳月における人生は、悲劇の第五幕に似ている。人間は悲劇的な最後が近いことは知っているが、それがいかなるものであるかは知らない。
文体は、精神の現れた姿である。他人の文体を真似ることは、仮面をかぶることに相当する。
重要な思想を誰にでもわからせるように表現するほど難しいことはない。
すべての人間は、他人の中に鏡を持っている。
悪書を読まないことは良書を読むための条件である。
男同士は本来、互いに無関心なものだが、女は生まれつき敵同士である。
信仰の強制は、不信仰を喚起するだけである。
幸せを数えたら、あなたはすぐ幸せになれる。
未だかつて、自分は本当に幸福だと感じた人間は一人もいなかった。――もしそんなのがいたら、多分酔っぱらってでもいたのだろう。
我々は朝を生の本質と見、これを神聖に扱わなくてはならない。
どういう所か少しも知らずに紛れ込んだ難所が、私たちの生である。
知は力なり――とんでもない。きわめて多くの知識を身につけていても、少しも力を持っていない人もあるし、逆になけなしの知識しかなくても最高の威力をふるう人もある。
善、すなわち一切の幸福と一切の満足とは消極的なものである。言いかえれば、それは単に欲求が鎮まり、苦痛がやんでいるということにすぎない。
すべての人は、限られた世界に対して、自らの限られた視野からの見方しかできない。
女性はすぐれた才能の持ち主となることはできようが、しかし天才の持ち主とはなれない。なぜなら、女性は常にどこまでも主観的なものだから。
人々は閑暇を犠牲にして富裕を得る。だが、富裕は自由な閑暇があってこそはじめて望ましいものとなる。富裕のために自由な閑暇を犠牲にしなければならないならば、私にとって富裕が何になるだろうか。
無知は富と結びついて初めて人間の品位をおとす。
我々は、他の人たちと同じようになろうとして、自分自身の4分の3を喪失してしまう。
宗教は無知の子供であり、その母より永くは生き延びることが出来ない。
宗教とは蛍のようなものだ。光るためには暗闇を必要とする。
不道徳行為を望むのは、大きな誤謬の永続を望むことである。
人間は孤独であるかぎり、彼自身であり得る。
我々の肉体が衣服に包まれているように、我々の精神は虚偽に包まれている。
人間の幸福の敵は、苦痛と退屈である。
三種の貴族がある。1.血統と位階の貴族、2.財力の貴族、3.精神的貴族が、すなわちそれである。
医者は人間を弱いもの、弁護士は人間を悪いもの、牧師は人間を愚かなものと見る。
いかなる財産も、ちょっとしたチャンスに手に入れたものである。
読書しているときは、我々の脳はすでに自分の活動場所ではない。それは他人の思想の戦場である。
運命がカードを混ぜ、我々が勝負する。
障害と闘って勝つことが、人間を幸福にするのだ。
個々の人間にあっては、隠退と孤独への傾向の増加は、つねにその人間の知的価値の程度に応じて生ずる。
世間普通の人たちは、難しい問題の解決にあたって、熱意と性急のあまり、権威ある言葉を引用したがる。
男性の間では愚かで無知な男が、女性の間では醜い女が愛され、ちやほやされる。
自分の心の奥底にある考えだけが、真実と生命を内に秘めている。人間が本当に完全に理解できるものは、これしかないからである。
なんびとにもせよ、まったく突如として、人は生きているのである。
紙上に書かれた思想は、砂上に残った歩行者の足跡に過ぎない。歩行者のたどった道は見える。だが歩行者がその途上で何を見たかを知るには、自分の目を用いなければならない。
金銭は、人間の抽象的な幸福です。だから、もはや具体的に幸福を享楽する能力のなくなった人は、その心を全部、金銭にかけるのです。
名誉は、外に現れた良心であり、良心は、内に潜む名誉である。
善、愛、高潔な心を動かしやすい行為や愛の業(ごう)を行わせることができるのは、つねにただ他人の苦悩に対する認識にほかならない。
謙譲というものは、平凡な能力を持つ人間の場合には単なる誠実であるが、偉大な才能のある人間の場合には偽善である。
孤独を愛さない人間は、自由を愛さない人間にほかならない。なぜなら、孤独でいるときにのみ人間は自由なのだから。
人の社交本能も、その根本は何も直接的な本能ではない。つまり、社交を愛するからではなく、孤独が恐ろしいからである。
孤独は優れた精神の持ち主の運命である。
誰でも他人の悲しみに同情することはできる。しかし、他人の喜びを共に喜ぶのは、天使の特質である。
普通、人は時間をつぶすことに苦心する。才能ある人間は、時間を利用することに苦心する。
精神の豊かな人は、まったくの孤独の中でも、おのれひとりの想念や幻想にすばらしい楽しみを見出すことができるが、愚か者の場合は、社交、観劇、遊山、宴会などが入れ替わり立ち替わり絶えることなく続いても、死ぬほどの退屈から彼を防ぐ手立てはないのである。
逆境における友というものは、果たして稀であろうか。反対である。誰かと友情を結ぶや否や、その人は苦境にさいして金を借りたがる。
読まれたものは、熟慮を重ねることによってのみ、真に読者のものとなる。食物は食べることによってではなく、消化によって我々を養う。
礼節とは、道徳的にまた知的に貧弱な互いの性質を互いに無視し合いながら、非難しまいという暗黙のうちの協定である。
はなはだしい災難は別にして、善悪いずれの場合にも、重大なのはその人にどんなできごとが起こったかということより、その人がそのできごとをどう受け止めたか、つまり、さまざまな観点から見たその人の感受の仕方や度合いである。
人生というものは、通例、裏切られた希望、挫折させられた目論見、それと気づいたときにはもう遅すぎる過ち、の連続にほかならない。
礼儀は賢いことであり、非礼は愚かなことだ。非礼を不必要に気ままに行うことによって敵をつくることは、わが家に放火すようなものだ。
真実はすべて3つの段階を経る。1つ目はあざ笑われる段階。2つ目は激しく攻撃される段階。3つ目は自明なこととして受け入れられる段階。
読書で生涯を過ごし、さまざまな本から知恵をくみとった人は、旅行案内書をいく冊も読んで、ある土地に精通した人のようなものである。
強い人間は自分の運命を嘆かない。
天才は平均的な知性よりは、むしろ狂気に近い。
人は、ある種の外的活動を必要とする。なぜなら、内側は不活発だからである。
人はなんでも忘れることができるが、自分自身だけは、自分の本質だけは忘れることはできない。
時は、時をよく用いる者には親切である。
結婚とは、男の権利を半分にして、義務を二倍にすることである。
何故(なぜ)女が不幸に対して男より深い同情を示すかといえば、推理能力に弱みを持っているからである。
我々は、すでに持っているものについてはたまにしか考えないが、まだ持っていないものについては常に考える。
信仰は愛のようなもので、強制することはできない。
人生の情景は、粗いモザイク画に似ている。この絵を美しく見るためには、それから遠く離れている必要がある。間近にいては、それは何の印象も与えない。
男性の愛情は、彼が肉体の満足を得た瞬間から急降下する。ほかの女はすべて、征服した女より多くの魅力をもつように思われて、彼は心変わりする。それに反して、女性の愛情はこの瞬間から増大する。
たとえ話は嘘ではない。なぜならば、それは決して起こらなかった事柄を述べているのだから。
永遠は一瞬の中にある。
推理する能力を持っている人はたくさんいるが、判断する能力を持っている人は少ししかいない。
読書は他人にものを考えてもらうことである。本を読む我々は、他人の考えた過程を反復的にたどるに過ぎない。
泣くことは自分自身に対する同情である。
どのような運が降りかかろうと、喜びに浮かれることのないように、悲しみに暮れることのないように。万物は流転し、そして運もまた、いつ変わるとも知れないのだから。
あきらめを十分に用意することが、人生の旅支度をする際に何よりも重要だ。
船荷のない船は不安定でまっすぐ進まない。一定量の心配や苦痛、苦労は、いつも、だれにも必要である。
多く笑う者は幸福であり、多く泣くものは不幸である。
大切なのは普通の言葉で非凡なことを言うことである。
全ての享楽と、全ての幸福とは消極的なものだが、苦労は積極的なものだ。
普遍的な真理に対して人がいかに無関心でも、個別的な真理に対しては実に執着が強い。