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アウグスティヌス

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聖アウレリウス・アウグスティヌスはローマ帝国時代の信仰家、神学者、哲学者、説教者であり、キリスト教を公認したテオドシウス1世の時代に活動し、正統信仰の確立に貢献した教父である。彼は聖公会、カトリック教会、ルーテル教会をはじめとする教派の聖人として崇められ、多くの地域で祭られている。

習慣は第二の天性なり。
いかなる場合にても、喜び大なれば大なるほど、それに先立つ苦しみもまた大なり。
外に出るな。汝自身の中に立ち帰れ。内的人間にこそ真理は宿るのである。
ここに印刷された言葉は考えであり、実際、身をもって経験しなければなりません。
皮肉屋とは、犬の哲学者なり。
葬式は、死者に対する務めというよりは、生者に対する慰めである。
詩は悪魔の酒である。
もし神が女性に男性を支配させたいと考えていたなら、神はアダムの頭から女性を創ったであろう。また、もし神が女性を男性の奴隷にしようと考えていたなら、アダムの足から女性を作ったであろう。だが、神はアダムのわき腹から女性を創り給うた。
見えないものを信じるのでなければ、何が信仰であろうか。
永遠の平和を期待しつつ戦うほうが、解放を念頭に置くことすらなく隷属状態でいるよりはましである。
信仰も神の賜物である。平和と愛が与えられるものから信仰もまた起こる。
心を高く保つという一種の謙譲があり、心を低く保つという一種の傲慢がある。
敵意がそれを抱く者の心に与える傷は、敵に対して与えることのできるいかなる傷よりもはるかに深い。
嫉妬しない者に、恋愛はできない。
自分の実力が不十分であることを知ることが、自分の実力を充実させる。
神は人間を、その本質が天使と獣類との中間に存在するものとして創られた。
世界とは一冊の本であり、旅に出ない者は同じ頁ばかり読んでいるのだ。
人のなすあらゆる行為に際して自ら次のように問う習慣を持て。「この人は何をこの行為の目的としているか」と。ただし、まず君自身から始め、第一番に自分を取調べるがいい。
我々の心には二つの扉がある・・・欲望と恐怖と。
植物は人間から見られる事を求め、見られる事が救済なり。
習慣はもしそれに反対しなければ間もなく当然のことになってしまう。
酒は、人を魅了する悪魔である。うまい毒薬である。心地よい罪悪である。
一人の人間の心に起こる多様な動きを、誰が描き出すことができるか?
信仰は目に見えぬものを信ずることである。そして信仰の報酬は、信ずるものを見ることのできることである。
自己の内なる情念と戦うほうが、何らの抵抗も示さずそれらに支配されるよりはましである。
食べ物を選ぶように、言葉も選べ。
人は許しながらなお残酷になれるし、罰しながらなお慈悲深くなれる。
私にしてみれば、快楽や恥辱のうちにあって喜んでいる者のほうが、艱難に耐えているとおぼしい者よりなお、同情に値する。
良心と名声は二つの事柄なり。良心は汝自身に帰すべきものにして、名声は汝の隣人に帰すべきものなり。
正しく考えるとき、我々は神の中にある。正しく生きるとき、神が我々の中にある。
剣で人を殺すよりも、言葉で戦(いくさ)をつぶすほうが名誉なことである。
認識は信仰の報酬である。信じるために認識するのではなく、認識するために信じよ。