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スタンダール

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スタンダールは、1783年1月23日にフランスのグルノーブル高等法院の弁護士の子として生まれました。7歳の時に亡くなる前に、彼は幼少期を地方の名士の子として何不自由なく暮らしました。彼が書いた『赤と黒』や『パルムの僧院』などの大作 近代小説の開祖の一人と考えられています。ナポレオン失脚後はミラノに移住し、評論『恋愛論』のような新しい傾向の小説を書きましたが、生前は売れなかったそうです。

愛情には一つの法則しかない。それは愛する人を幸福にすることだ。
恋愛には四つの種類がある。情熱の恋愛、趣味の恋愛、肉体の恋愛、虚栄の恋愛。
最も理性的な女と折り合いよく暮らす方法は、その女の事柄に決して干渉しないことである。
絶世の美人は二日目にはそれほど人を驚かさない。彼女の値打ちは誰にでもわかり、装飾品になっているのだから。
羞恥心の欠点は、絶えず嘘をつかせることである。
恋が芽生えるには、ほんのわずかの希望があれば、十分である。
私は恋している、恋している、間違いなしに!私のような年頃の、若くて美しくて才知のある少女は、恋でもしなければ、いったいどこに刺激を求めることができよう。
愛する人と共に過ごした数時間、数日もしくは数年を経験しない人は、幸福とはいかなるものであるかを知らない。
幸福は伝染するものだ。もし幸福になろうと思うなら、幸福な人々の中で生きたまえ。
羞恥心の効用は、それが恋愛の母であるということである。
人生のほとんどすべての不幸は、自分に関することがらについて、誤った考え方をするところから生じる。出来事を健全に判断することは、幸福への大きな第一歩である。
高慢な女は、自尊心から嫉妬を移す。
恋はうぬぼれと希望の闘争だ。
恋愛が与えうる最大の幸福は、愛する人の手を初めて握ることである。
僕の魂は、もし燃え上がらなければ苦しむ業火なのです。
自己に対するなんという無礼だ。その決心をしたときより今の自分のほうが利口だと、どうして思うのか。
精神のいちばん美しい特権の一つは、老いて尊敬されることである。
恋敵(こいがたき)に関しては、中庸を得るということはない。
猫かぶりは貪欲の一種、最悪の貪欲である。
最も賢明なことは、自分を自分の打ち明け相手にすることである。
牢獄にいて一番の不幸は、扉にこちらから鍵がかけられないことだ。
恋というものはなんと恐ろしい情熱だろうか。それなのに世間の嘘つきどもは、恋をあたかも幸福の源泉のように言っている。
「愛は罪かしら」「愛さぬこそ罪だ」
情熱的に恋したことのない男には、人生の半分――それも最も美しい半分が隠されている。
金を分かち合えば愛を増し、金を与えれば愛を殺す。
上流社会にあるような恋は、争いの恋であり、遊びの恋である。
我々男性のうちで、生涯を一緒に過ごすために、女学者よりも女中のほうを選ばない者は誰ひとりとしていない。
私にとって幸福を描写することはしばしば幸福を弱めることなのだ。それはあまりに繊細な植物なので、手を触れてはならないのだ。
軽蔑というのは、馬鹿丁寧な言葉のうちに、いつも巧みに隠されている。
恋の喜びは愛することにある。人は相手に起こさせる情熱よりも、みずから感じる情熱によっていっそう幸福になる。
女というものは、終始どこかに故障のある機械みたいなものだ。
幸福がこの上もなく大きいときには、微笑と涙が生まれる。
恋するとは、自分が愛し、自分を愛してくれる相手を見たり、触れたり、あらゆる感覚を持ってできる限り近くに寄って(相手を)感じることに、快感を感じるものである。
恋をすると、すぐ身近に、しかしいくら願っても手の届かない巨大な幸福があるような気がする。しかもその幸福は、ただひとつの言葉、ひとつの微笑にのみ左右される。
君のいない天国よりも、君のいる地獄を選ぶ。
確固たる性格を持つには、自分に対する他人の影響を経験したことがなければならない。
女は素晴らしい楽器である。恋がその弓で、男がその演奏者である。
人間の値打ちを増すのは死刑の宣告のほかにはない。金で買えないのはこれだけだから。
我々が経験しうる、いつまで経っても変わらぬ最も長続きのする喜びは、自己に満足するという喜びだ。
息子とは自然によって与えられた債権者だ。
人は、恋をして初めて全ての子供らしさから脱皮する。この革命がなければ、気取りや芝居気がいつまでも抜けないだろう。
性格を別にすれば、人はあらゆるものを孤独の中で獲得することができる。
子供は涙で命令し、聞いてもらえないと、わざと自身を傷つける。
愛情には 一つの法則しかない。それは愛する人を幸福にすることだ。
誰からも好かれる人ほど、深く好かれない。
男は女の心がわからないうちは顔のことなぞ考える暇はない。
美とは幸福の約束である。
昔の幸福の思い出は、ただそれだけで、現在手に入れうるすべての幸福よりも魅力がある。
恋においては、我々の虚栄心はあまりにたやすい勝利を軽蔑するものであり、どの種類の恋でも、男は向こうから差し出されたものの価値を誇大視するものではない。
恋をしながら、不可抗力でしばられないうちに、攻撃をあきらめた者こそ、軽蔑に値する。
男は、女に愛されていることが確かであると、彼女がほかの女より美しいか、美しくないかを検討する。
男女両性における恋の誕生の差異は、希望の性格が同じでない点からくるに違いない。一方は攻撃し、他方は防御する。一方は要求し、他方は拒否する。一方は大胆で、他方は臆病である。
一緒に暮らす女に、思うことをそのまま伝え得る幸福を持った男がいるであろうか。苦労を共にする善良な女はすぐに見つかるだろう。しかし彼は常に理解してもらうために、その思いを金に替えねばならない。
愛する女に会ったすぐ後では、他のどんな女を見てもめざわりだ。生理的に目が痛くなる。
天才の特徴は、凡人がひいたレールに自分の思想をのせないことだ。
恋が生まれるまでは、美貌が看板として必要である。
男は、俗っぽい女が与え得るすべてのものを受け取るより、いつの日か愛する女の気に入られるという、きわめて当てにならない機会を夢見るほうを好む。
憎悪にも結晶作用がある。恨みを晴らせる希望が出てくると、あらためて憎み始めるのだ。
私の言う結晶作用とは、次々に起こるあらゆる現象から、愛する者の新しい美点を発見する精神作用のことである。
よい教育とは、後悔を教えることである。後悔は予見されれば、天秤にひとつの重味を置く。
恋愛は大臣の椅子のように、簡単に手に入れることのできない一つの幸せな未来である。
高慢不遜の性格においては、自己に対する憤怒と他人に対する激怒と紙一重だ。
イタリア人の勇気は怒りの発作であり、ドイツ人の勇気は一瞬の陶酔であり、スペイン人の勇気は自尊心の現れである。
恋は熱病のようなものである。それは意思とは関係なく生まれ、そして滅びる。
私は自分の尊敬するものしかおそれない。
快楽は一種の贅沢である。これを味わうためには、必需物である安堵(あんど)が、少しでも脅かされてはならない。
人間がこの世に存在するのは、金持ちになるためではなく、幸福になるためだ。
彼らが良識と呼んでいるものは、老化現象の始まりに過ぎない。
急な山を登りつめて頂上に腰をおろす旅人は、ほっと一息いれるのが限りない喜びであるが、もし、永久にそうやって休息していろと無理強いされたら、彼は幸福であるだろうか?
暴君に最も都合のよい観念は神の観念である。
書いた、愛した、生きた。
自分に欠けているものを過大に考えると不幸になる。
久しい以前から、人生が僕には堪え難いものになっていますので、このたび終止符を打つことにしました。
少しでも気取った男は不幸である。たとえ恋しているときでも、ありったけの才知を傾けても、自分の有利な点の四分の三を失う。一瞬でもつい気取ってしまうと一分後にはしらけた瞬間がやってくる。
人は独創的でなければ大物にはなれないが、大物でなくても独創的にはなりうる。
恋においては所有することは無意味であり、享楽することがすべてだ。
若い女性は、(命令が聞いてもらえないと)、自負心によって自分をつつく。
退屈はすべてを奪う。自殺する勇気さえも。
恋は甘い花である。しかしそれを摘むには、恐ろしい断崖の端(はし)まで行く勇気がなければならない。
いとしい女にはあんな長所、こんな長所がある──と君が信じて疑わないのは、ひとえに想像力のなせるわざである。
いっさいのよい議論は、人を立腹させる。
人間は他のいかなる行為よりも、自身に多くの快楽を与える行為をしないではいられないものだ。