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カント

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1724年、東プロイセンの首都ケーニヒスベルク(現ロシア領カリーニングラード)で馬具職人の第四子として生まれた。1732年、敬虔派宿泊施設であるフリードリヒ校に通学し始める。当校ではラテン語教育が重視されたほか、哲学は正規授業としてあり、ヴォルフ派の哲学が教えられていた。イマヌエル・カントは1724年、東プロイセンの首都ケーニヒスベルク(現ロシア領カリーニングラード)で馬具職人の第四子として生まれた。生涯のほとんどをその地で過ごしそこで没した。両親はルター派の敬虔主義を信仰していた。

法律においては、他人の権利を侵害する時には罰せられる。道徳においては、侵害しようと考えるだけで罪である。
人は人によりてのみ人となり得べし。人より教育の結果を取り除けば無とならん。
われは孤独である。われは自由である。われはわれみずからの王である。
幸福は物に求むべからず。心に求めよ。
あらゆる事物は価値を持っているが、人間は尊厳を有している。人間は決して、目的のための手段にされてはならない。
教育は、人間に課すことのできる最も大きい、難しい問題である。
宗教とは、我々の義務のすべてを神の命令とみなすことである。
努力によって得られる習慣だけが善である。
苦労を伴う学問研究や難渋を極める思索に、たとえ女性が成功したとしても、それは彼女の性にふさわしい美点を破壊する。(中略)それによって彼女は冷ややかな尊敬は受けようが、異性に対して絶大な力をふるう魅力は失われる。
純粋な歓びのひとつは勤労後の休息である。
笑いは消化を助ける。胃散よりはるかに効く。
我が上なる星の輝ける空と、我が内なる道徳律とは、それを考えることしばしばにして、常に新たにして、増しきたる感嘆と崇拝とをもって心を満たす二つのものである。
人間はすべて、文明が進めば進むほど俳優になっていく。つまり、人間は他人に対する尊敬と好意、典雅と無私の風を装うが、それにたぶらかされる人はいない。
真面目に恋をする男は、恋人の前では困惑し、拙劣であり、愛嬌もろくに無いものである。
子供の教育では、知識と能力を次第に結びつけるように努力することが必要である。あらゆる学問の中でも、数学はこの要素を最も高度に満たすただ一つの方法であるように思われる。
人間は安楽に満足して生きたいと思うが、自然は人間に対して、安楽と無為の満足に甘んじさせず、労苦や労働に打ち克つ手段の発見に知恵をしぼらせようとして、労苦や労働の中に人間を放り込む。
すべての知識は経験に基づく。
常備軍が刺激となって、たがいに無際限な軍備の拡大を競うようになると、それに費やされる軍事費の増大で、ついには平和が短期の戦争よりもいっそうに重荷となり、この重荷を逃れるために、常備軍そのものが先制攻撃の原因となるのである。
われわれは、光のもとで暗闇を、幸福のもとで悲惨を、満足のもとで苦痛を思い起こすことはまれである。しかし、その逆はいつもである。
常備軍は、時とともに全廃されなければならない。常備軍はいつでも武装して出撃できる準備を整えていることによって、ほかの諸国をたえず戦争の脅威にさらしているからである。
崇高なものは我々を感動させ、美しいものは我々を魅了する。森は夜崇高であり、昼美しい
笑いとは張り詰められていた予期が突如として無に変わることから起こる情緒である。
友情関係は同等関係である。
美術ないし芸術は、人々が自分自身に対する不満を揉(も)み潰(つぶ)さんがために、これに馳(は)せ寄れば馳せ寄るほど、ますます大きな要求をそこに感ずるところの娯楽として役立つにすぎない。
真の人間性に最もよく調和する愉しみは、よき仲間との愉しい食事である。
大自然の秩序は宇宙の存在を立証する。
善なる行為も、習慣のおかげで善行でなくなってしまう。
何度も繰り返し長い時間をかけて考えれば考えるほど、いつも新たな、いよいよ強い感嘆と畏敬(いけい)とで心をみたすものが二つある。私の上なる星空と私の内なる道徳法則とである。
啓蒙とは、人間が自分の未成年状態から抜け出ることである。
1.私は何をすることができるか。2.私は何をなすべきであるか。3.私は何を希望してよいか。4.人間とは何であるか。第一の問いに答えるのは形而上学であり、第二の問いには道徳、第三の問いには宗教、第四の問いには人間論が答える。結局これらすべては人間論に含ませてよいであろう。
高慢な人は常に心の底では卑劣である
酒は口を軽快にする。だが、酒はさらに心を打ち明けさせる。こうして酒はひとつの道徳的性質、つまり心の率直さを運ぶ物質である。
天才は生得の心の素質であり、これによって自然は芸術に規則を与える。
徳にとってまず要求されることは、自己自身を支配することである。
最も平安な、そして純粋な喜びの一つは、労働をした後の休息である。
天才とは自ら法則を作るものである。
人が財産を使うに際しては、慎重さとためらいとがある。それは善行ではないし、手腕も能力も必要とはしない。
善行は、これを他人に施すものではない。これをもって自分自身の義務を済ますのである。
平和状態は創設されなければならない。
暗黒の中では、我々の想像力は、明るい光の中におけるよりもたくましく働くのを常とする。
内容なき思惟(しい)は空虚であり、概念なき直感は盲目である。
何よりもまず、純粋な実践理性の国とその国の正義を求めて努力せよ。そうすればなんじらの目的(永遠平和の幸福)はおのずから与えられよう。
苦悩は活動への拍車である。そして活動の中にのみ、我々は我々の生命を感じる。
将来の戦争の種をひそかに保留して締結された平和条約は、けっして平和条約とみなされてはならない。
汝の意志の規律が、いつの場合でも、一般に立法の原理として適用できるように行動せよ。
人間を目的として尊重し、手段としてだけ利用してはいけない。
民主政治は専制政体と変わらない。なぜならば、民主政治とは全員がひとりの意志を無視し、時にはこれに逆らって議決し得る。という全員ならぬ全員が、議決し得る執行権を認めるからである。
自然にあるすべてのものは法とともに行動する。
我々は動物の扱い方によって、その人の心を判断することができる。
互いに自由を妨げない範囲において、我が自由を拡張すること、これが自由の法則である。
諸君は私から哲学を学ぶのではない。哲学することを学ぶのだ。
我が行いを見習えと、誰にでも言い得るよう行為せよ。
美には客観的な原理はない。
自由とはすべての特権を有効に発揮させる特権である。