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トルストイ

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レフ・ニコラエヴィチ・トルストイは、ロシアの19世紀の文豪で、作家として『戦争と平和』『アンナ・カレーニナ』『復活』などの佳作を残した。また、社会・政治にも大きな影響を与えた非暴力主義者としても知られる。伯爵家の四男としてヘレングリッツ公立高校を卒業し、ロシア出身の男性である。

人間の知ることができ、また知らなければならない学問のなかで最も重要なのは、できるだけ悪を少なくし、できるだけ善を多くするように生きるための、学問です。
神は人間に額に汗して働けと命じている。銀行に金を積んで、何もしないで食べていこうとするのは人間の掟に反することだ。
戦争というものは、最も卑しい罪科の多い連中が権力と名誉を奪い合う状態をいう。
音楽ってやつは、それを作った人間のひたっていた心境に、じかにすぐ運んでくれるんですよ。
幸福は、己れ自ら作るものであって、それ以外の幸福はない
恋とは自己犠牲である。これは偶然の依存しない唯一の至福である。
人間を法律に服従させるという思想は、人間を隷属させることであり、神の法則に従うという思想は、人間を解放する思想である。
どんなに仲のよい、美しい打ちとけた関係であっても、相手の気に入ることを言ったり、賞賛したりするのは、車輪の進行に必要なように、是非なくてはならないものである。
いかなる時でも、お辞儀はし足りないよりも、し過ぎたほうが良い。
確実に幸福な人となるただ一つの道は、人を愛することだ。
真の宗教とは、人間が彼らを取り巻く無限の大生命に対して彼らの生活を、この大無限に結合させ、それによって自己の行為を指導するという関係を確立することである。
神のもとには大きなものも小さなものもありはしません。人生においてもまた、大きなものも小さなものもありはしません。あるものはただ、まっすぐなものと曲がったものだけです。
愛とは、大勢の中からたった一人の男なり女なりを選んで、ほかの者は決して顧(かえり)みないことです。
愛は人生に没我を教える。それ故に愛は人間を苦しみから救う。
慈善は、それが犠牲である場合のみ慈善である。
人間が幸福で、完全に自由であるような状態は、この世にないが、人間が完全に不幸で、少しの自由もないような状態も、またあり得ない。
夫婦喧嘩は喧嘩ではなく、あれは性欲がやんだ結果現れたお互いの本当の関係に過ぎないのです。
神々は人々に食物をつかわしたが、悪魔は料理人をつかわした。
動物的自我の否定こそ、人間生活の法則である。
(不倫を終わらす)解決法は二つしかないんだ。妻を殺すか、あの女を殺す。その他…あ、そうか、第三の道があった。自分を殺すんだ。そう、自殺だ。そうすれば二人を殺す必要もない。
愚かな人間は、沈黙しているのが最もよい。だが、もしその事を知ったならば、その人はもう愚かな人間ではない。
愛には三種類ある。美しい愛、献身的な愛、活動的な愛。
子供には、すべてに対して、最も大きな可能性がある。
正しい結婚生活を送るのはよい。しかし、それよりもさらによいのは、ぜんぜん結婚をしないことだ。そういうことのできる人はまれにしかいないが、そういうことのできる人は実に幸せだ。
善の栄光は彼らの良心にあり、人々の言葉にはない。
人生とは、とどまることなき変化である。つまり、肉(=肉体)の生活の衰弱と、霊(=魂・精神)の生活の強化・拡大である。
我々は刑法を活用する前に、囚人を罰する前に、こういう不幸な人間が作られていく環境そのものを絶滅するように努めねばならない。
知識は、記憶力によってではなく、自分の思想上の努力によって獲得された時にのみ知識であり得る。
もし善が原因をもっていたとしたら、それはもう善ではない。もしそれが結果を持てば、やはり善とは言えない。だから、善は因果の連鎖の枠外にあるのだ。
哲学は、人生の科学である。
死が、我々、皆のもとにやってくるということほど、確かなものはない。死は、「明日という日を迎える」ことよりも、「昼の次には夜になる」ということよりも、「夏が終わると冬が来る」ということよりも、確実なのである。我々は、明日に備え、夜に備え、冬に備えるというのに、なぜ、死には備えないのだろう。死にも備えねばならない。
男子の使命は広くして多様。女子の使命は一律にしてやや狭く、しかし更に深い。
一旦やろうと思い立ったことは気乗りがしないとか気晴らしがしたいなどという口実で延期するな。直ちに、たとい見せかけなりとも、とりかかるべし。いい知恵は浮かぶものなり。
理性はしばしば罪の奴隷となって、これを弁解する。
十分であろうとなかろうと、それをやるしかない。
不幸―─それはただ黄金をためす火にすぎない。
天才とは、強烈なる忍耐者をいう。
善を行なうには努力を必要とする。しかし、悪を抑制するにはいっそうの努力が必要である。
人間の考え方の果てしない多様性──其(そ)の多様性の故(ゆえ)に、どのような真理も二人の人間の頭脳に、同一に映ることがないのである。
誰もが世界を変えることを考えるが、誰も自分自身を変えることは考えない。
死ぬとき人間はひとりである。
時は一瞬も休むことなき無限の動きである。
汝の心に教えよ、心に学ぶな。
女――それは男の活動にとって、大きなつまずきの石である。女に恋しながら何かをするということは困難である。
不運は投網のようなもの。引く時は重いが、揚げると何もない。そういうものだ。
求めること、どこまでも求めることだ。
人間は奴隷でなければならない。ただ、人間にとって選択しなければならないのは、誰の奴隷であるかということである。自己の情欲の奴隷であれば、それは人間の奴隷である。自己の精神的本源の奴隷であれば、それはただ神の奴隷であるにすぎない。
この世で成功をおさめるのは、卑劣で汚らわしい人間ばかりである。
生命は他の生命と多く結びつくほど、自我が拡大する。
天才とは、異常なる忍耐者をいう。
よい人間とは、自分の罪をいつまでも忘れないで、自分の善行はすぐに忘れる者のことである。わるい人間とは、その反対に、自分の善行をいつまでも忘れないで、自分の罪はすぐに忘れる者のことである。
日記とは自己との対話である。
愛あるところには神もおわす。
この世界で私たちが見るすべてのもの、私たちが考えるすべてのものは、その根源を私たちの精神のうちに持っているのだ。
農業は人間にふさわしい職業の中の一つというわけではない。農業こそ万人にふさわしい、唯一の職業なのである
人間にとって最高の幸福は、一年の終わりにおける自己を、その一年の始めにおける自己よりも、遥かに良くなったと感ずることである。
芸術は技芸ではなく、芸術家が体験した感情の伝達である。
額に汗して営々と働かなければ、健康な肉体はあり得ない。また健康な思想も頭脳に沸き得ない。
私たちは踏み慣れた生活の軌道から放り出されると、もう駄目だ、と思います。が、実際はそこに、ようやく新しい良いものが始まるのです。生命のある間は幸福があります。
知識は手段であって、目的ではない。
人間が死んだり、金銭を失ったり、家がないとか、財産がないとかいうことが、哀れなのではない。なぜなら、これらすべてのものは、人間にもともと備わっているものではないからだ。人間は、自分の本来の財産、最高の財産、すなわち「愛するという才能」を失った時が、哀れなのである。
一生涯一人の女なり男なりを愛するということ、それは一本のローソクが生涯燃えるということと同じです。
女性は自分を、性欲を刺激する道具に仕立て上げてしまったため、男は冷静に女性と応対することが出来なくなってしまったのです。女のそばに近づいただけで、男はその妖気にあたって、ぼうっとなってしまうのです。
きわめてつまらない小さなことが性格の形成を助ける。
神の国は眼で見るべきものではなく、また語るべきものではない。神の国はここにあり、かしこにあり、それゆえに神の国はわれわれの心の裡(うち)にある。
多くの女性を愛した人間よりも、たった一人の女性だけを愛した人間のほうが、はるかに深く女というものを知っている。
人間は、自分の生が一つの波ではなく、永久運動であることを、永久運動が一つの波の高まりとしてこの生となって発現したにすぎぬことを、理解したとき初めて自分の不死を信じるのである。
戦いにおいて最も重要なことは、最後の勝負に勝つことである。
二人の兵隊、忍耐と時より強いものはほかにはない。
純粋で完全な悲しみは、純粋で完全な喜びと同様、不可能なものである。
神は真実を見られるが、速やかにはお示しにならず。
どうして俺は今までこの高い空を見なかったんだろう?今やっとこれに気がついたのは、じつになんという幸福だろう。そうだ!この無限の空(そら)以外のものは、みんな空(くう)だ、みんな偽りだ。
私は真実を愛する……とても……真実を愛している。
教養とは一切のものから快楽を作り出すことだ。
真実を語るのは実に難しい。青年でそれをできる者はまれである。
ああ、金(かね)、金!この金のためにどれほど多くの悲しいことがこの世に起こることであろうか!
永遠に比べたらほんの一瞬しか生きていられないのに、人生なぞ苦しむに値するものだろうか?
動物は子孫をもうけ得る時期にだけしか交わりません。しかるに我々人間は、この忌まわしい万物の霊長はですね、快楽が得られさせすればかまわんというわけで、時と場所をわきまえません。
純朴と、善良と、正義のないところに、偉大はない。(ver.0)
人生とは幸福への努力である。
喜べ!喜べ!人生の事業、人生の使命は喜びだ。空に向かって、太陽に向かって、星に向かって、草に向かって、樹木に向かって、動物に向かって、人間に向かって喜ぶがよい。
すべての暴力は、戦うことなく相手を屈服させることは出来ようが、相手を従順にさせることは出来ない。
死の存在とは、あるいは我々に自発的に人生を断念させ、あるいは、死が奪うことの出来ない意味を人生に与えることによって、我々の人生を変容せしめるのだ。
良かろうが、悪かろうが、つねに書かねばならぬ。書いていると、直接の利益はなくても仕事に慣れ、文体が出来てくる。反対に、書いていないと、迷いが出て、くだらぬことをすることになる。
心のふれ合わない、腹黒い人々が、連合軍を作って行動し、民衆に悪をもたらしているとしたら、世界の平和と善意を望む人が、団結し、力を合わせて、悪に対抗すればよい。何と簡単で真実なことか!
人間が馴れることのできぬ環境というものはない。ことに周囲の者がみな自分と同じように暮らしているのが分かっている場合はなおさらである。
真の賢人はいつも快活である
信仰は人生の力である。
美は善であるという完全な幻想が、往々にして存在する。
学問のある人とは、本を読んで多くのことを知っている人である。教養のある人とは、その時代に最も広がっている知識やマナーをすっかり心得ている人である。そして有徳の人とは、自分の人生の意義を理解している人である。
餓死する者はめったにいない。うまいものを食べすぎ、そして働かないために病死する人のほうがはるかに多い。
死への準備をするということは、良い人生を送るということである。良い人生ほど、死への恐怖は少なく、安らかな死を迎える。崇高なる行いをやり抜いた人には、もはや死は無いのである。
過失は、人々を結合させる力である。
謙虚な人は誰からも好かれる。それなのにどうして謙虚な人になろうとしないのだろうか。
家庭愛は自愛と同じである。罪悪行為の原因とはなるが、それの弁解にはならない。
外界を認識する方法は二つある。一つは、五感を通しての最も粗野で、しかも不可避の方法である。この方法から得られるのはカオス(混沌)である。もう一つは、自らに対する愛を通して自らを認識し、更に他に対する愛を通して他の存在を認識し、他の人、動物、植物、また石にまでも思いを致していく方法である。この方法をもってすると──全世界を創造することができる。
戦いに勝つのは、必ず勝とうと堅く決心した者だ。
人生のあらゆる贅沢品は女性によって要求され、維持されているんです。
深く愛することのできる者のみが、また大きな苦痛をも味わうことができるのだ。
自分の使命を認識する人は、そのこと自体によって自分の人間的な価値をも認識する。