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セネカ

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ルキウス・アンナエウス・セネカは、ユリウス=クラウディウス朝時代のローマ帝国の政治家、哲学者、詩人であり、父親の大セネカ(マルクス・アンナエウス・セネカ)と区別するため小セネカ(Seneca minor)とも呼ばれる。第5代ローマ皇帝ネロの幼少期の家庭教師として、また治世初期にはブレーンとして支えた。ストア派哲学者としても著名で、多くの悲劇・著作を記し、ラテン文学の白銀期を代表する人物と位置付けられる。

神に見られているかのように人間の中で暮らし、人間が聞いているかのように神に話しかけよ。
おんどりは、自分の堆肥の上では王様である。
恐怖の数のほうが危険の数より常に多い。
まだ感じやすきうちに心を訓練するは容易なり。
性格のための証拠は、いかなる細事からでも取り出し得る。
賢人の精神は、何ものにも動ぜず、何ものにも傷つかず、敢然としていられる強さを宿しているのだ。
健康になりたいと願うことは、健康になることの一部分です。
人は教えることによって、最もよく学ぶ。
人は教える間に教えられる。
修正の最初のステップは過ちの認識である。
耐えがたきに耐えたことは、想い起こすごとに愉快である。
人間は弱者にして堕落させる存在であり、相争い、かつ世界の秩序を非難し、己を改変するよりも神を変えんとす。
すべての芸術は自然の模倣である。
時はわれらに生を与えると同時に、生を奪い始む。
金によりてもたらされし忠実さは、金によりて裏切られる。
険しい道こそが、偉大なる高さに結びつくのである。
運命は、志のある者を導き、志の無い者を引きずっていく。
「幸福を必要としないこと、それがおまえたちの幸福だ」と、神は言った。
貧しい者とは、ほとんど何も持っていない人間のことではなく、もっと多くを渇望する人間のことを言う。
人間は社会的動物なり。
大切なことは、何に耐えたかということではなく、いかに耐えたかということである。
希望がなくなったからといって、何も絶望する必要はない。
自然に従って生きよ。
人がいるところには必ず、親切を施す機会がある。
最もよく踏みならされ、また最も人通りの多い道ほど、どれもみな多くの人を迷わせるものである。
祖先の自慢をする者は、他人の行為を称賛しているに過ぎない。
善なるものが善き人を作る。たとえば音楽という芸(わざ)において善きものが音楽家を作る。
生きることは生涯をかけて学ぶべきことである。そして、おそらくそれ以上に不思議に思われるであろうが、生涯をかけて学ぶべきは死ぬことである。
自立への大きな一歩は、胃を満たすことである。
生きることの最大の障害は、期待を持つということである。それは明日に依存して、今日を失うことである。
我々に与えられた時間は、決して短いわけではなく、実はその多くを浪費しているだけなのである。人生は十分に長く、その全体が有効に費やされるならば、最も偉大なことをも完成できるほど豊富に与えられている。
自己の生涯のすべてを海外旅行で過ごすときは、多くの人と知り合いになるも友はなし。
才能によって世に出るように精を出せ。
気まぐれな読書は喜びを与えてくれるが、有益なものとするには注意深い指導が必要だ。
我らは常に命の短きを嘆きながら、あたかも命の尽きる時期などなきがごときに振る舞う。
未来を気づかう心は悲惨なり。
あまりに多くの事をなし得る者は、自己の能力以上のことをなさんと欲す。
不幸な人の共通の過ちは、わが身に幸せが訪れることを、決して信じたがらないことである。
我々は、学校のためではなく、人生のために学ばなければならない。
人生はつねに幸福でない。善き人生のみが幸福なのだ。
最も強いのは、自分自身の中に力を持っている者だ。
人間にとって真の大敵は胸中の敵である。
我々は己れのものを他人と比較することなしに愉しむのがよい。他人が自分より幸福であることに苦しめられるのであれば、人はけっして幸福だとはいえない。
恩恵を施した者は黙っているのがよい。恩恵を受けた者は語るのがよい。
死ぬ勇気のない生は奴隷である。
過ちをおかすことが悪いのではない。悪いのはその過ちのために、ひまわりのごとく、どんな暗い所にいても絶えず太陽の方へ伸びてゆく、柔軟にして強靭な心を失うことだ。
あとで望むのは、望まないのと同じである。
もっとも厄介な奴隷状態とは、自分自身の奴隷であることだ。
より高く持ち上げようとしたが為に失敗した場合が多い。
成功のおかげで、いくつかの罪は一見公正に見えてくる。
君が長生きするかどうかは、運命にかかっている。だが、充実して生きるかどうかは、君の魂にかかっている。
重要なのは量ではなく質である。
財産を守ることはけちであっても、時間を投げ捨てる段になると、たちまちにして、最大の浪費家と変わる。
人気のないルールは、決して長続きしない。
彼の言葉があるように彼の人生もある。
我々は気持ちを楽にして、すでに決定されたことでも、それにあまり執着してはならぬ。
女が守る唯一の秘密は、知らない秘密だ。
神は知識そのものではなく、知識の種子をわれわれに与えたり。
称賛をいかに受け止めているかをみれば、いかなる人間の人格も判断できる。
間違いは罪悪ではない。
仕事は高貴なる心の栄養なり。
わずかしかお金のない人が貧乏なのではない。たくさんお金を欲しがる人が貧乏なのだ。
もし君が人に愛されようと思うなら、まず君が人を愛さなければならない。
肉体のために生きるのではなく、肉体なしには生きられないように振る舞うべきである。
富は賢者の奴隷であり、愚者の主人である。
狂人を演じるのも、時には楽しい。
いまだかつて、不幸にうちひしがれた者といえば、ただ、幸福に惑わされた者しかいない。
運は我々から富を奪うことはできても、勇気を奪うことはできない。
老人が長く生きてきたことを証明するものを、年齢以外に何も持っていないことほど不名誉なことはない。
他人に自分の秘密を守ってもらいたいなら、最初から他人に秘密をもらしてはいけない。
もし君が自分のために生きようと望むならば、他人のために生きねばなりません
贅沢は富の倦怠を紛らす。
悔い改めれば、無実も同然だ。
ある者は過去の記憶を蒸し返して、われとわが身をさいなみ続ける。ある者はまだ見ぬ罪におびえて、われとわが身を傷つける。どちらも愚かきわまることだ。過去はもはや関係がなく、未来はまだ来ぬ。
精神的活動無き閑暇は一種の死であり、人間の生きながらの埋葬なり。
よき生まれとは何か。生来、徳の備われる人間なり。
言論が堕落したところでは精神も堕落している。
他人に対して善行をなす者は、何よりも多く己自身に対して善行をなす。
怒りから己れ自身を抑制するには、人が怒っているのを冷静に観察することである。
毎日を最後の一日のように思いつつ生きよ。
治そうと思う者は、もう半ば治っている。
文体は思想の衣
あなたを称讃する人々の価値の有無に重点を置くべきである。悪から称讃されないことこそ、真の価値であるからだ。
何も知らないよりは、つまらぬことでも知っていることの方がもちろんよい。
労働が体を強くするように、困難は心を強くする。
人生は短い。人間に与えられた時間は、束の間の虹のごとくである。
つまづいた人のために手を差し伸べようと身をかがめないのは、正義の拒絶である。それは人類共通の正しい行いなのだから。
何であれ伝え方や行い方次第で、その事柄の価値そのものが大きく変わってくる。これは人の世話をする場合によく当てはまる。とげとげしい気持ちでいやいやながら世話をすれば、親切な行いも固くなったパンみたいなものになる。
髪が白いとかシワが寄っているといっても、その人が長く生きたと考える理由にはならない。長く「生きた」のではなく、長く「有った」にすぎない。
人生より難しき芸術はなし。他の芸術学問には至るところに師あり。
どんなに豊かな土壌でも、耕さなければ実りをもたらさない。人の心も同じである。
死自体よりも死の随伴物が人を怖れさす。
富に耐えることができないというのは弱い精神の兆候である。
評判が良くない規則というのは長続きしないものだ。
我々は心穏やかでいられるだろう。集団から離れているだけで。
いかに多くの人々が汝より前進しているかを見るよりも、いかに多くの人々が汝より遅れているかを考えよ。
富を最も必要とせぬ者が、それを最も享受す。
いかに多くの者が光を見る資格がないか。それでも夜は明ける。いかに多くの者が、この世に生まれたことを嘆いているか。それでも自然は新しい子孫を生み、この世に存在しなかったことをむしろ望んだ者たちをも、存在せしめている。
おずおずと頼みごとをするのは、断ってくれというのも同じだ。
神が存在すると思わざる人は、自己を偽るものなり。たとえかかることを絶えず確信しても、日夜不安になるがゆえなり。