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田辺聖子

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田辺聖子は大阪府大阪市に生まれ、父方は広島県福山市の出身であり、祖父の代から写真館を経営していた。育った環境は大阪の風俗文化に深く親しみ、恋愛小説などを中心に活動を行っていた。第50回芥川龍之介賞などの受賞歴があります。

男と女がともに棲(す)んで仲よく過ごすということは、一面、たいへんむつかしいことで、細心の注意が要(い)る。そして絶えず、椅子は一つしかないと思いめぐらし、相手の気持ちを思いやり、自分は先にその椅子をぶんどったりしない。双方、そのつもりでいれば長つづきするんじゃないか、と思うが……まあ、現実は中々むずかしい。
幸福と面白いこととはちがいます。幸福いうのは、面白いことが無くても成り立つ。
人生も四十半ばとなれば、身辺におこる話はみな、こみ入ってくるのだ。こみ入らない話なんか、中年の人間にはないのである。
女の子の集まりがながつづきするヒケツは、「KINTAMA」のひとことに尽きる。つまり、「協調すれども介入せず」ということ。
ハイ・ミスが老けるのは、自分で、(もうアカン……)と思ったときだ。
オバンは、オバンには理解できないことをみとめない。
人生は非常時の連続である。
およそ恋というものには、お芝居ごころが要るものだ。
批評しない、というのは気に入っている証拠だ。気に入らない理由はあげやすいが、気に入った、ということは言葉を失わせる。
面白い話というのは、体臭(=人間臭さ)があればこそ、のものなのだ。
「主婦」が「人間」に変身するとき、その引き金となるのは、ある種の悪魔的な決断力である。それは女の中にひそむ、男性的な要素だ。
教育というのはある部分、どうにも独裁的なものではなかろうか。
使命感も、権力欲の一種である。
老眼鏡さえあれば、老いもこわくもなくわるいものでもない。
共讃主義ね。一緒に誉め合うって仲。
本音というのは、だまっているから本音なんですよ。しゃべるとタテマエになってしまうわよ。
人間は大なり小なり、演技力なくしては生きられない。
人間は、自分でルールをつくって自分でたのしんでいる動物である。
腹ぎたなくない男、というのは世のタカラモノで、珍重するに足り、愛着するに足る。
どんな人だって、愛するものや愛されるものを一人も持たなければ、心は死んでしまう。
本人のそとを歳月が勝手に流れていってるだけなのに、その歳月のほうにばかり目をやるのが人の習性である。
四十半ばにもなって阿呆で気品のない男は女房が悪い。
作為的に堰(せ)きとめ、食い止めなければならぬことが人生にはある。そうしなければ、とめどなく、水を指ですくうように洩れ出てしまうことが、人生にはある。
何でも知ったかぶりをするのはアサハカであるが、ほんまに、よう知ってることでも、人に教えるということは、なまなかにできることやない。教える、というのは恥、はずかしいことなのである。
バカと貧乏人はあきらめが早い。
美しく老いるのはむつかしい。やさしく老いるのはよりむつかしい。可憐に老いるのは更にむつかしい。
ほんまに人生で大切なんはなあ、仲のええ人間とめぐりあう、いうことだけなんやで。
一緒に笑うことが恋のはじまりなら、弁解(いいわけ)は、恋の終わりの暗示である。
子どもは貧乏でもつくれるけれど、仲のいい男女は貧乏から生まれない。
七十やからこそ第二の結婚をする、そのほうがずっと自然や。
ええ女というのは、明敏にしてちゃらんぽらんなトコのある女。
すべてこの世の人は自慢が生き甲斐なのではないか。
オトナの男女たるものは、ヒルの話をヨルするな、ヨルの話をヒルするな。
妻があれば、どんなにしても、「恰好(かっこう)よく」生きることはむつかしい。
日記にはなぜか〈愉(たの)しかりし年月〉のことは書かず、〈面白くなき日々〉のうれいのはけ所、憂(う)さの捨て所になってしまう点に特徴がある。
女というものは、こと身内に関するかぎり、他人の侵入や介在を許さないのだ。男もそうかもしれないが、ことに女は、その度合いが強い。女にとって身内は神域なのだ。
地金(じがね)あらわれ、本音で生きるというのも、品のいいことだ。
男性たちの発言や発想は、女に関する部分から古くなる。
一人ぐらしなんて、人間の幸福の極致じゃないのか?
私は、オトナのくせに「見境いなくなる」一点を、持病のように持っている女って好きである。
たのしいことは、終わりばかりに思える。始まりは中々、来ないのに。
ケンカしそうな男の子らがいて、横を通りかかった大人が「ほらほら落とし物」と話しかける。「何?」って探す。見つからない。そしたら大人が「ゆとり。 いっぱい落としてるで」って。自分も怒りっぽいからわかるんやろうね。
期待とはずみごころ。人間の持ってる、よきもの二つ──は、まさにそれ。年経ても、それは失せないはず。
いつもその町に住んでいるくせに、ふと旅愁を感じてしまう(それは人生の旅愁かもしれないけど)それがまつりの面白さである。
叱られる、怒られる、咎(とが)められる、責められることによって、人は、自分と違う価値観、人生観に出会い、ビックリする。そのことで荒波に揉まれて、想像力が養われ、よりやさしくなる。
言うて聞かす、いうても、それは一方的に自分の考えを押しつけることになるわ。(中略)人間の心なんて、ハイ、それでは、ときくもんとちがうわよ。
食べ物が安いというのも文化程度の高いことである。
人それぞれ。魅力それぞれ。
四十路(よそじ)の人間の人生は戦場だ。敵味方入り乱れての白兵戦なのである。(生きながらえようよ、な、がんばろうよ、な)という戦友の悲鳴がきこえる。
人生、いつも、はずみごころ。
人、老いては口別嬪(べっぴん)になるべき。年をとってもそばへ人が寄ってくれる。
人を責めることが大好きな人があるね、正義の味方の中には。
(※女は)可愛い男とはすぐに切れるが、憎めない男とはだらだらと続く。
人間は、人前で一ぺん泣いたら、クセになってしまうのである。
キチンとソツなく、手ばしこく、ぬかりなくリッパに世を渡ってる男は、頼りがいがあって心配ないかわり、旨味(うまみ)も面白みもなく、かわいげもない。
人生でたのしみをみつける条件というのは、想像力や好奇心をもてるかどうか、にかかっていると思うものだ。
オジサンはダイエットの必要があると思うと、ジョギングでもしようか、と思うが、オバサンは、手術で下腹の贅肉(ぜいにく)がとれるというニュースを熱心に読む。
女に対し、興味しんしんの男は、女をホメたり、女の話に耳かたむけたり、女にホメられたがったりするから可愛げもある。それが男の力になる。
男は口を開けば失敗談になる。女は口を開けば自慢ばなしと美談になる。
本当におもしろいのは、その人のハートから出たコトバ。本当の文化はそういうもんだよ。
女は生まれながらにして、大きな大きな心の空洞をもっていて、それが女を故(ゆえ)しらぬ欲求不満にし、ゆううつにし、不平家にする。
生きいそぐことはない。生きいそぐことはトシとるのもいそぐことになるんでね。
結婚の成功というのは、互いに相手から何かを発見し続けていくことができるかどうかだ。
伝統的にニッポン男児は(中略)妻を、母親代用にしているのである。この傾向はよくなるどころか、ますます現代の若い男性は「アマエタ」になって、お袋にかわいがられて育ち、かゆい所に手がとどくように世話されて、長じて結婚するときも妻にそれを求める。
結婚というのは、二人で向上発展することではなく、二人でいたわりあうこと、元気づけあうことに尽きる気がする。更にいうと、二人で叱られること、二人でボロをかくしあうこと、でもあり、やっぱりこうなると、二人は同級生(※ふうの夫婦)になってしまう。
夫に対していつまでも好奇心をもつというのも、結婚の幸福かもしれない。
親子だからといって気が合うとは限らない。気の合わぬ肉親は他人より始末がわるい。血は水より薄い、というのが私の持論である。
人間に対する知識が深まってくるというのは、老いの楽しみでなくてなんだというのだろう。
化粧水もクリームも、しみじみ、自愛の手つきで使いましょう。お化粧は決して、そそくさと事務的にしてはダメ。また自分自身との対話だから余人をまじえてはダメ。
西洋風の、カーテンだ、じゅうたんだ、ソファだ、画だとごてごてしてる間(ま)の中に、活けられた花は造花のようで死んでしまう。
老い先みじかい身は、血のつながりで肌を暖めたがるものだ、とは(※人の)愚かしい思い込みである。
やってみたら、またべつの力も出てくる。人間は変わる。倍々ゲームみたいに、変わった分の大きさでまた変わるから、度合いがだんだん大きゅうなっていく。
ユーモアは戦争避ける素(もと)の素
〈家庭〉というものは、人が、〈面白(おもしろ)疲れ〉したときに要るのだ。
笑うこと。毎日笑えるナニかをみつけるか、つくること。
私にいわせれば、飽(あ)かないから遊びなのであって、飽くのは、単なるヒマつぶしである。
お化粧は、自分を大事にする作業である。個人の〈美しき秘めごと〉である。
親が子におカネを使いすぎる、というのも、オトナ国でない証拠。
亭主は妻を叱ったりできない。(中略)男は、(自分と)寝た女を叱れない。大体、女は、寝た男に叱られたって鼻で嗤(わら)うだけだ。
人間は、人のワルクチをいっているときの方が、聞く身としてはおもしろい。その人間の度合いが、ワルクチをいうときに露呈するからである。
ココロとココロのむすびつきは食べることからはじまる。
(※女は)〈可愛い男〉とはすぐに切れるが、〈可愛げのある男〉とは、だらだらと続くものである。
音楽もそうだが、活字からひきおこされるイメージは、深くてゆたかで、容易に消えない。
トシなんか、個人的に伸び縮みするもんやさかい、自分の思うトシをてんでに自己申告しといたらエエのや。
いくつになっても男は子ども。
宴は、果てるものである、つねに。
男は妻に向って、帰れ、出ていけ、と何心となく放言するが、いざ自分はどうかというと、どこへもいきようがないのである。三界に家なし、とは男のことであるのだ。辛くても切なくても、今いる家に我慢して忍ばなければならぬのだ。
時によって、人生では、約束ごとは、香辛料の役目を果たすこともある。
親子だから、気心がしれているから、何をいってもいい、とは限らないのだ。気心が知れるということは、悲しいことなのだ。気心が知れるというのは、あきらめる、ということなのだ。多くを要求してはいけない、と知ることなのだ。
全く、「慕わしい」男の存在というのは、なんと女をイキイキさせ、ふるい立たせ、美しくするものであろう。
夫と妻というのは鞍馬天狗と杉作ね。背中合わせになって前にいる敵、後ろの敵と戦ってるから、内輪でケンカなんかしてられないわ。
(※人をとっちめるなんて)めんどくさい。そんな馬力ないよ。人を苛(いじ)めるなんて情熱の最たるものだ。
オトナ(中年)というのは、じーっとそこにいるだけでも(男女を問わず)臭いものであるのだ(生物的に、ではない)。説教臭、自慢臭、ヒガミ臭、イバリ臭。
人間にとっての大きな財宝というのは、これは、いい人間の愛情を、自分がもらうこと、自分のそれも他人にあげること、そこに尽きるように思う。
経験がたとえあっても、それが女の心にも体にも何ほどの痕(あと)も残さない、そういうあっけらかんとした女を処女という。
皮肉やワルクチは〈芸〉なくして扱ってはならず、その才のないことをわきまえるのも才能のうち、そういうときは礼を失しないように控えるのが言論人の知性であろう。
男は(※女の)着ているものより、着ていないほうに興味がある。
死後に仕事が残る人と残らない人。「みんなが好きなものが好きな(時流に乗った)人よりも、自分の好きなもんでええ、と通した人が残るみたい。
私は、自我定期券説である。定期券を改札口で出してみせるように、出すべき処(ところ)だけ、自我を出せばいいのであって、いつもいつも出してみせびらかすものではない。
家庭は重き駕篭(かご)を担(かつ)いで、遠き道を行くが如し。先棒(さきぼう)と後棒(あとぼう)をかついでゆくのが、男と女のありかただ。