田辺聖子
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田辺聖子は大阪府大阪市に生まれ、父方は広島県福山市の出身であり、祖父の代から写真館を経営していた。育った環境は大阪の風俗文化に深く親しみ、恋愛小説などを中心に活動を行っていた。第50回芥川龍之介賞などの受賞歴があります。
男と女がともに棲(す)んで仲よく過ごすということは、一面、たいへんむつかしいことで、細心の注意が要(い)る。そして絶えず、椅子は一つしかないと思いめぐらし、相手の気持ちを思いやり、自分は先にその椅子をぶんどったりしない。双方、そのつもりでいれば長つづきするんじゃないか、と思うが……まあ、現実は中々むずかしい。
ケンカしそうな男の子らがいて、横を通りかかった大人が「ほらほら落とし物」と話しかける。「何?」って探す。見つからない。そしたら大人が「ゆとり。 いっぱい落としてるで」って。自分も怒りっぽいからわかるんやろうね。
伝統的にニッポン男児は(中略)妻を、母親代用にしているのである。この傾向はよくなるどころか、ますます現代の若い男性は「アマエタ」になって、お袋にかわいがられて育ち、かゆい所に手がとどくように世話されて、長じて結婚するときも妻にそれを求める。
結婚というのは、二人で向上発展することではなく、二人でいたわりあうこと、元気づけあうことに尽きる気がする。更にいうと、二人で叱られること、二人でボロをかくしあうこと、でもあり、やっぱりこうなると、二人は同級生(※ふうの夫婦)になってしまう。
男は妻に向って、帰れ、出ていけ、と何心となく放言するが、いざ自分はどうかというと、どこへもいきようがないのである。三界に家なし、とは男のことであるのだ。辛くても切なくても、今いる家に我慢して忍ばなければならぬのだ。
親子だから、気心がしれているから、何をいってもいい、とは限らないのだ。気心が知れるということは、悲しいことなのだ。気心が知れるというのは、あきらめる、ということなのだ。多くを要求してはいけない、と知ることなのだ。