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阿満利麿

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阿満利麿は日本の宗教学者、明治学院大学名誉教授であり、専攻は宗教学、日本思想史である。1962年京都大学教育学部卒業後NHK入局し、教養番組のチーフ・ディレクター等を経て1987年明治学院大学国際学部教授として招聘され、民族学・仏教文化論・日本文化論などを教えた。また、2007年3月明治学院大学から名誉教授として依願退職し、「念仏者九条の会」の呼びかけ人として憲法九条改正反対の運動も行っている。

呪術とは、自己の欲望を投影するところに生じる。神仏に祈るといっても神仏にわが欲望の実現をせまっているだけだとしたら、それは呪術的行為といわねばならない。それに比べると、宗教とは、自己の否定の上に成立する。
従来の仏教では煩悩からの解放が目的であったが、善導や法然の浄土教では、煩悩のただなかにあって、しかも煩悩を超える道を提示したのである。煩悩の否定や克服は問題ではないのだ。文字通り「凡夫」のままで救われて行く道があるのである。
先祖たちが「輪廻」という考え方を受け入れたのは、ほかでもない、人間存在があまりにも不可解で不条理に満ちていたからではないだろうか。いったい人はどこから生まれてきてどこへ去っていくのか、一切確実なことは分からない。また卑近なことでいえば、たとえば、正直に一所懸命働いても、いつまでも貧困から免れることができないとか、あるいは、大悪人ほどこの世を栄耀栄華に生きるとか、人生には不条理があまりにも多すぎる。
人間には、改悛したくても改悛できないような人間もいる。宗教の立場は、改悛できない人の、できない理由を認めるのであり、したがって、宗教の立場からいえば、死刑制度はあり得ない。
人間の固有性とは、法然の立場からいわしめれば、人々の背負っている業のなかにある。そして、その業を背負うのは、本人でしかない。このような考え方においては、一つの価値を絶対視して、それをあらゆる人々に強制するということは生まれない。
自然と一体感を得ることによって、さまざまな人生の危機や死の問題を超えていく道があるのではないかと申しましたが、それだけで超えていけるなら世の中の宗教は必要ではありません。
カリスマにひきいられる集団では、異質なものの考え方が生きていくことができません。
心理学やカウンセリングの心理療法で死の問題は超えられません。(中略)現代という時代は、人間の悩み、不幸、苦しみ、不条理をカウンセリングが解決しようとします。有限の世界では手に負えない問題を、有限の世界の心の持ち方で解決しようとします。しかし、それはすぐに破綻することだと思います。
煩悩が一度わきおこれば、善悪の区別等意味をなさなくなってしまうのである。