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桐生悠々

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桐生悠々は、1873年に石川県で生まれたジャーナリストで、信濃毎日新聞主筆時代に書いた社説「関東防空大演習を嗤ふ」で反権力・反軍的な言論をくりひろげた評論家である。小学校以来の同級生徳田秋声と親交を深めるものの、1892年に上京し小説家を志しても失敗し帰郷する。また、1895年に東京法科大学政治学科に入学するが1903年に中退し、府官、保険会社勤務を経て信濃毎日新聞の編集者となり着任し、1912年から主筆に就任した。1941年に死去した。

言いたい事と、言わなければならない事とは厳に区別すべきである。
人間は他の動物なみに概して、安心せしめられるよりも、おどかされやすい動物である。特に群集心理が手伝った場合には、常軌を逸(いっ)して、狂態をすら演ずる。
人は誰でも、一国家、一民族の構成員である限り、彼の心理作用は、その従属国家または民族の伝統によって左右されます。だが、この伝統は、ややもすれば往々にして、また、ほとんど常に、世界の平和、人類の幸福を阻止し破壊すらもした。私たちはこの一大弊害に顧みて、なるべく超国家的、超民族的でありたいと思います。そして世界の平和、人類の幸福に貢献したいと思います。
言論は言論を以(も)って正すべきである。「権力的に」これを統制しては、人を以って言わしむる天の声は、おのずから為政者の耳には入らない。
狡猾なる政治家は、群集心理を利用して、自家(じか)の利益に資する。国民は心して、そうも容易におどろかされてはいけない。
言いたいことを、出放題に言っていれば、愉快に相違ない。だが、言わねばならないことを言うのは、愉快ではなくて、苦痛である。何ぜなら、言いたいことを言うのは、権利の行使であるに反して、言わねばならないことを言うのは、義務の履行だからである。
近代的体制において、「平和か」「戦争か」を決定するものは、戦時に総動員を必要とする国民であらねばならない。政府を作るものは国民であって、政府が国民を作るものではないからである。
私は言いたいことを言っているのではない。徒(いたずら)に言いたいことを言って、快を貪(むさぼ)っているのではない。言わねばならないことを、国民として、特に、この非常時に際して、しかも国家の将来に対して、真正なる愛国者の一人として、同時に人類として言わねばならないことを言っているのだ。