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ラ・ブリュイエール

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ジャン・ド・ラ・ブリュイエールは17世紀のフランスのモラリスト作家であり、『人さまざま』で知られている。彼は宮廷人の権力欲・社交界の生態・キリスト教徒の狂態・農民生活への皮肉などを批判的かつエスプリのある精神性で描いている。彼の精神性はフランスの伝統を受け継ぎ18世紀啓蒙主義の先駆的存在となった。

ひとりの男だけを見つめている女と、ひとりの男からいつも眼をそらす女とは、結局、似たようなものである。
ずるい人間は、すぐに他人もずるいと思い込む。
ただ動機だけが、人々の行為の真価を決する。
恋愛においては、いかに難しいことがあっても、友愛におけるよりも、人の欠点を許す。
名前のほかに何の値打ちもないような人間が多く存在する。近くで見ると取り柄はひとつもないが、遠くで見るとごまかされてしまう。
何かにケチをつける喜び。それを味わうと、何か良いものに心動かされる喜びが、私たちから奪われてしまう。
私達の一切の悩みは、私達が孤独で存在し得ないということから生まれてくる。
沈黙は愚か者の知恵である。
嫉妬心と競争心には、悪徳と美徳ほどの隔たりがある。
そぶりのほうは、すでにとっくに愛していないと物語っているのに、永い習慣から会い続ける。
流行を避けるのは、流行に迎合するのと同じくらい弱いことである。
憎悪から友情までの距離は、反感から友情までの距離ほど遠くはない。
子供には過去も未来もない。だから現在を楽しむ。大人はとてもそうはいかない。
どんな秘密がばれるのも、罪は、だれかを信用してそれを話した人にある。
年がら年中嫉妬の種ばかりまいているような女たちは、少しも我々が焼き餅を焼いてやるに及ばないであろう。
むら気な女とは、もはや愛していない女である。浮気な女とは、すでに他の男を愛している女である。移り気な女とは、果たして自分が愛しているのか、また、誰を愛しているのか自分でもわからない女である。無関心な女とは、誰をも愛さない女である。
人間的に言えば、死にもよいところがある。老いに決着をつけねばならないからだ。
ゆうゆうと焦らずに歩む者にとって長すぎる道はない。辛抱強く準備する者にとって遠すぎる利益はない。
虚栄心の強い男は自分のことをよく言ったり、悪く言ったりして得する。謙遜な人は、まったく自分のことを語らない。
どんなことにも引っ込み思案になってしまうのは、凡庸(ぼんよう)な精神である。
時は友情を強めるが、恋愛を弱める。
人間にとって、自分自身の生命ほど保ち続けたいと思うものはないが、これほど大事にしないものもない。
ずるい人間は、けっして欺かれはしないが、人を欺くこともできない。
浮気と同時に貞淑な妻は、亭主には荷が重過ぎる。妻たるものは、いずれか一方を選ぶべきである。
自分は幸福な生まれでないと思っている人でも、その友人や近親の幸福によって幸せになるくらいのことはできよう。ただ恨みだけがこの最後の手を奪うのである。
もっとよく知ったら我々の友達の列に加わりそうな人々を敵としてはならない。
人は老年を恐れる。果たしてそこまで到達するかどうかも確かでないのに。
王侯による寵遇(ちょうぐう)は、その者の真価を考えに入れていないわけではないが、真価を前提にしているわけでもない。
まったく相反する二つのこと、習慣と新奇が等しく我々の心をとらえる。
私たちの全ての不幸は、私たちが独りでいられないところから生じる。
人は長生きすることを望み、しかも老齢を恐れる。人は生命を愛し、死を避けるのである。
諸君は相手をだましたと思っている。だが先方は、だまされたふりをしているのだとしたら、どちらが一体だまされているのか。
時間の使い方がもっとも下手な者が、まずその短さを嘆く。
相手のちょっとした欠点に目をつぶることができない限り、友情は長続きしない。
阿呆は話さない愚者だが、話す愚者よりもよい。
女房に愛される技術、というものは発明されないものだろうか。
愚者とは、自惚れるために必要な才知すら持たない者である。
作家になるためには才気以上のものが必要だ。
自由な男、つまり妻を持たない男は、少し才知があれば自己の身分以上の社交界に出入りして、上流階級の人々と同等に交際することができる。一方縛られている男の場合には、こんなに簡単にはいかない。結婚はあらゆる人々を自分の中に閉じ込めるから。
誘惑に恐れる者には、すべてが誘惑となる。
人が心から恋をするのはただ一度だけである。それが初恋だ。
良き医者は、特効のある薬と治療法を持っている者を言う。それを持っていない場合には、持っている医者に自分の患者を依頼する者を言う。
急に芽生えた恋は、癒えるのに最も時間がかかる 
女たちは極端である。男たちよりも良質か悪質か、そのどちらかだ。
巧みにしゃべる機知と沈黙する術を心得ていないことは大いなる不幸である。
我々が他人を認めるのは、彼らと我々との間に類似のあることを感ずるからである。誰かを尊敬するというのは、彼を自分と同等に見ることであるらしい。
醜い女なんていない。ただ、美しく見せるすべを知らない女がいるだけだ。
財産を築く最短で最良の方法は、あなたに利益をもたらすことが自分たちの得になるということを、人々にはっきりとわからせることである。
知性もあらゆる物と同じく消耗する。学問はその栄養である。知性を養い、かつそれを消耗する。
人は、くだらないとして礼儀作法をなおざりにするが、善人か悪人かを礼儀作法で決められることがよくある。
我々が偉人に近づけば近づくほど、平凡人だということが明らかになる。従者にとって偉人が立派に見えることは稀である。
人間は自分たちの話になると、まるで自分たちには小さな欠点だけしかないように語る。
敵を憎み、復仇しようとするのは弱さのためであり、落ち着き払って敵を討とうともしないのは怠慢のためである。
世に抜きん出るには二つの方法がある。自分自身の努力によるか、他人の馬鹿さ加減を利用するか、そのいずれかである。
男は女同士の憎悪の原因である。
自分に対して弱くて寛容であることと、人に対して厳しいことは、同じ悪徳にすぎない。
人生はそれを感じる人間にとっては悲劇であり、考える人間にとっては喜劇である。
我々は、我々の幸福を我々の外部、他人の評判のうちに求める。他人はみな軽薄かつ不公平で、嫉妬、気まぐれ、偏見に満ちていることを百も承知なのに。
うわべだけのつつましさは、いちばん手の込んだ虚栄である。
人生は短く物憂い。それは徹頭徹尾、欲望のうちに過ごされる。
我々は自己の過失を利用しうるほど長生きはしない。一生を通して過失を犯す。そして多くの過失を犯した末、できうる最上のことは改心して死ぬことである。
嫉妬には体質に大いに関係する。嫉妬は必ずしも大きな熱情の証拠ではない。
老人をけちにするのは、将来金銭の必要に迫られるという観念ではない。この悪徳はむしろ老人の年齢と体質の生む結果である。彼らが若い時代に快楽を追い、壮年期に野心を追った同じ自然さで、この欲に溺れているのである。
恋愛と友愛は互いにしりぞけ合う。
小人(しょうじん)がこびへつらうのは、自分に対しても他人に対しても、低劣な評価しか持たないからである。
駄洒落上手は踏んづけるほどいる。この種の虫は、国内どこへ行こうと、雨あられと降ってくる。しかし、本当の洒落の達人となると、稀少の逸材である。そのように生まれついた者でも、役柄を長くつとめるのはきわめて難しい。人を笑わせながら、人から尊敬を受けるとなると、ほとんど皆無に近い。
人は精神の力によって大きな悲しみから脱けられるものではない。・・・人間はすこぶる弱いから、いや、非常に浮気だから、すべてを思い諦める。
高い地位は偉大な人物をいっそう偉大にし、卑小な人物をいっそう卑小にする。
奴隷の主人はひとりだけだが、野望を抱く者は、自分の立場を良くするのに役立ちそうな人の数だけ主人とする。
(人が)笑うべき男とは、笑うべきことをやっている間のみ、愚者の外観を備えている男のことである。(一方)愚者のほうは、笑うべき格好を崩す時がない。
男は自分の秘密よりも他人の秘密の方を忠実に守る。女はそれと反対に、他人の秘密よりも自分の秘密のほうを大事にする。
紳士とは、大道で追いはぎを働かない人間、何人をも殺さない人間、つまり、その悪徳が破兼恥ではない人物のことである。
人生にあるのは三つの出来事のみだ。生まれること、生きること、そして死ぬこと。人は誕生を意識せず、死を前に苦しみ、そして生きていることを忘れる。
すべての嫉妬にはなんらかの羨望がつきまとう。また、しばしばこの2つの情念は混じり合っている。一方、羨望はときには嫉妬からはっきり分離していることもある。
偉人とは、あらゆる職業ができる人間である。裁判所・軍隊・書斎・宮廷等々どこでも立派にやりこなせる人間だと思われる。
この世で成功するには二つの道しかない。一つは自分自身の勤勉、もう一つは他人の愚かさ。
物を与えたばかりの相手の人の眼に出会うのは楽しい。
人間の希望は絶望よりも激しく、人間の喜びは悲しみより激しく、かつ永続するものである
恋愛は恋情によって始まる。したがって、いかに強い友情からも弱い恋情にしか移行できない。
愛すまいとするが意のままにならなかったように、永遠に愛そうとしても意のままにはならない。
大恋愛の経験のある者は友情を重んじない。
男は自分を愛してくれなくなった女に対して激昂するが、すぐにあきらめる。女は捨てられるとそれほど騒ぎ立てないが、長い間慰められない思いを胸に抱く。
人生には、真実と素朴さが最良の処世術になる場合がある。
女性は恋愛においては、たいていの男よりも徹底する。だが、友情においては男が女に勝っている。女が互いに決して愛し合わない原因、それは男である。
貧困が犯罪を生む母であるとすれば、知性の欠如はその父である。
男性における知的な風貌は、最も自惚れの強い連中の熱望する美の形成である。
けちであるためには、根気も若さも健康も必要ではない。また収入を貯蓄するには少しも急ぐこともいらず、身体を動かす必要もない。ただ自分の財産を金庫に入れておいて、食うや食わずにしていればいい。これは老人に都合のいいことだ。何もせずにいれば、それでいいのである。
恋の始めも終わりも、二人だけの場合には当惑を感ずるものである。
男は見せかけの愛で女を欺くことができる。ただし、他の女を心から愛していない限りは。
素晴らしい信念と、公平さと、誠実さを併せ持つ人物を賛美すること、それは人間全般に対する不信を表明しているのと全く同じだ。
目的を遂げるのに、長い忍耐をするよりも、目覚ましい努力をすることのほうが、まだ容易である。
最大の快楽とは、他人を楽しませることである。