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マックス・ウェーバー

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マックス・ヴェーバーは、プロイセン王国エアフルトにて1864年4月21日に生まれた。2歳の時に脳膜炎にかかり、華奢でひ弱な体に不釣り合いな頑張りで学業を駆け上がり、エアフルト大学で政治経済学を学び、学業を修めた。ヴェーバーは、社会学黎明期のオーギュスト・コントやハーバート・スペンサーに続く第二世代の社会学者として知られ、歴史上の人物として今なお重要な意義を持つ。

官僚制的行政は、知識によって大衆を支配する。専門知識と実務知識、そしてそれを秘密にすることで優越性を高める。
金銭は君主の中の君主である。
生きることは病であり、眠りはその緩和剤、死は根本治療。
最初の教育者は空腹である。
政治家を職業とするには2つの道がある。政治の「ために」生きるか、政治に「よって」生きるか、そのどちらかである。
情熱なしにできることは、すべて無価値である。
人生の時間は、自分の召命(しょうめい)を「確実にする」ためには、限りなく短くかつ貴重だ。
その国の政府は、その国に生きる人の鏡である。
精神のない専門家、心情のない享楽家、この無の者は、かつて達せられたことのない段階にまで登り詰めたと自惚れている。
政治家に必要な重要な資質は、「情熱」「責任感」「判断力」の3つである。そして最大の敵が「虚栄心」である。
アイデアは、熱心に働いているときに限って現れる。
二度読む価値のないものは、一度読む価値もない。
政治にとって決定的な手段は暴力である。
正直は信用を産むから有益である。時間の正確さ、勤勉、質素も同じである。
学問上の「達成」は常に新しい「問題提出」を意味する。それは他の(=誰かの)仕事によって「うち破られ」、時代遅れとなることを自ら欲するのである。学問に生きる者はこの事に甘んじなければならない。
暴力を用いて地上に絶対的正義を樹立しようとする者は、手下という人間的「装置」を必要とする。
しばしば言われてきたように、「シーザーを理解するためには、シーザーである必要はない」。そうでなければ、あらゆる歴史記述は無意味であろう。
政治とは、情熱と判断力の二つを駆使しながら、堅い板に力をこめてじわっじわっと穴をくり貫(ぬ)いていく作業である。
理想的な官僚とは、憤怒も不公平もなく、さらに憎しみも激情もなく、愛も熱狂もなく、ひたすら義務に従う人間のことである。
もしこの世の中で不可能事を目指して粘り強くアタックしないようでは、およそ可能なことの達成も覚束(おぼつか)ないというのは、まったく正しく、あらゆる歴史上の経験がこれを証明している。