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西田幾多郎

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西田幾多郎は日本の哲学者であり、西田哲学を確立した京都学派の創始者である。若い時には家庭的な苦境にあり、東大哲学選科を卒業した後、文学博士を取得し、『善の研究』『哲学の根本問題』などの著書を残した。彼の研究は古今東西の哲学者に影響を与え、評価されている。

何故(なぜ)に宗教が必要であるか──かかる問いを発するのは、自己の生涯の真面目ならざるを示すものである。
苦悩なき者は深き精神的趣味を理解することは出来ない。
人間は神にもなれずさりとて悪魔となりて満足することもできず、つまり五里霧中に彷徨(ほうこう)する哀れな生物である。
物を知るにはこれを愛せねばならず、物を愛するにはこれを知らねばならぬ。
知と愛とは同一の精神作用である。
人間というものは時の上にあるのだ。過去というものがあってわたしというものがあるのだ。過去が現存しているという事が又その人の未来を構成しているのだ。
花が花の本性を現(げん)じたる時最も美なるが如(ごと)く、人間が人間の本性を現じたる時は美の頂上に達するものである。
生命なき事業はヴァニチー(虚栄)であり、生命なき道徳は偽善である。
善は即(すなわ)ち美である。
人は人 吾(われ)はわれ也(なり) とにかくに吾行く道を 吾は行くなり
宗教は己の生命を離れて存在するのではない。その要求は、生命そのものの要求である。
罪悪、苦悩は人間の精神的向上の要件である。
涙をもってパンを食うた事のない人の人生観は、いかほど価値のあるものであろうか。
罪を知らざる者は真に神の愛を知ることは能(あた)わず。
ただ一つの思想を知るということは、思想というものを知らないというに同じい。
物を知るには、これを愛さねばならず、物を愛すには、これを知らねばならない。
善とは一言で言えば人格の実現である。
知は愛、愛は知である。
一事を考え終わらざれば他事に移らず、一書を読了せざれば他書をとらず。
知識に於(お)いての真理は直ちに実践上の真理であり、実践上の真理は直ちに知識に於いての真理でなければならぬ。
愛は統一を求むるの情である。自己の統一の欲求が自愛であり、自他統一の欲求が他愛である。
真摯(しんし)に考え、真摯に生きんと欲する者は、必ず熱烈なる宗教的要求を感ぜずにはいられないのである。
我々が物を愛するというのは、自己をすてて他に一致するということである。
世の中には、往々、何故(なぜ)に宗教が必要であるか、などと尋ねる人がある。しかし、かくの如(ごと)き問いは、何故に生きる必要があるか、と問うのと同一である。
罪は憎むべきものである、しかし悔い改められたる罪ほど世に美しきものもない。
愛とは知の極点である。