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サン・テグジュペリ

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サン・テグジュペリは1934年7月10日にフランスで生まれたミュージシャンである。1950年代から1960年代にかけて活躍し、ジャズ、ポップス、ミュージカルなどを演奏した。1960年代以降は、作曲家としても活動し、オペラや映画音楽などを担当した。また、自身のレコード会社を設立し、若手ミュージシャンの育成にも力を注いだ。彼は、ジャズ、クラシック、ポップスなど、様々なジャンルの音楽を融合させた独自のスタイルを確立し、多くのミュージシャンに影響を与えた。

星が空で光っているのは、皆がいつか、自分の星を見つけて帰ってくるためなのかなぁ。
過去とは成就された全体、かつて未来としてあったものを乗り越えた全体であろう。
手に入れたものによってと同様、失ったことを惜しむもの、手に入れたいと望むもの、喪失を嘆くものによっても、導かれ、授乳され、成長させられる。
「心の中に一輪の花を持っている」というものではなく、「この世の中に花はたくさんあるけれど、自分が大事にするたったひとつの花がある」
重要なのは自分の生きるよすがとなったものが、どこかに残っているということだ。さまざまな慣習でもいい。家族の祝いごとでもいい。思い出を秘めた家でもいい。重要なのは還ることをめざして生きるということだ。
知性にしても、判断力にしても、創造者ではない。
ものごとの意味は、それ自身に内在するのではなく、ものごとに対する我々の姿勢のなかにある
問題はただ一つ、効果があるかどうかだ。
真の意味でぼくを豊かにしてくれたのは、ぼくが受け取ったものより多くのものを与えた場合だけだった、ということを認めなければなりません。
事件の渦中に入ってしまうと、人間はもはやそれを怖れはしない。
人間は充実を求めているのであって、幸福を求めているのではない。
本当の愛は、もはや何一つ報酬を望まないところに始まるのだ。
努めなければならないのは、自分を完成することだ。試みなければならないのは、山野の間にぽつりぽつりと光っているあの灯火たちと心を通じあうことだ。
愛と所有の陶酔とを混同してはならない。所有の陶酔は最悪の苦しみを伴う。
人間であることは、自分の意志をそこに据えながら、世界の建設に参加しているのだと感ずることである。
他人の心を発見することで、人は豊かになる。
人間は真理を発見するのではない。人間は真理を創造するのだ。
この子が綺麗なのは、心の中に薔薇を一輪持ってるからだ。
私が疑うことのできぬ唯一の勝利は、種子の力の中に宿る勝利だ。黒い大地の中に蒔かれた種子は、すでにして勝者だ。しかし、小麦に宿るその勝利に立ち会うためには、時の流れが必要なのだ。
生きる、ということは徐々に生まれることである。
僕がこんなに、あのバラのことが気になるのは、バラが僕のことを愛してくれたからじゃない。僕が、バラのことをたくさん世話したからなんだ。
人を愛することの本質は、互いに相手を見ることではなく、共に同じ方向を見る中にあるのだ。
生命力のあるものは、生きるために、創造するために、自らの法律を生活するために、あらゆるものをけちらかすものなのだ。それは防ぎようのないことだ。
征服とは、おまえの内部に、おまえを通して、おまえ自身を築きあげることである。
利害を越えた究極の目的を人と共有する時、初めて心のままに生きることができる。
救いは一歩踏み出すことだ。さらにもう一歩。そして、たえずその同じ一歩を繰り返すことだ。
秩序とは、生命の結果であって、その原因ではない。秩序とは、ある強力なる都市のしるしではあるが、その起源ではない。
君が自分でなじみになったものに対して、君はずっと責任があるんだからね。君は君のバラに対して責任があるんだよ……。
生命というものは、その時々の状態によって説明されるものではない。その歩みによって説明されるものだ。
人生には解決策などない。あるのはただ、前進してゆく力だけだ。その力を創造しなければならない。そうすれば解決策などひとりでに生まれてくる。
人間は固い水晶に穴を穿(うが)ちながら、ゆっくりとすすんでゆく。
なごやかにほほえみながら、見つめあう。それは、牢獄から解放されて、大海原の広さに目を見張る囚人に似ている。
人間はね、急行列車で走りまわっているけれど、何を探しているのか自分でもわかっていない。
やはりお前は、お前の生命を投げ出させるものによってしか生き得ないのだ。死を拒否する者は、生命をも拒否する。
歩みだけが重要である。歩みこそ、持続するものであって、目的地ではないからである。
心で見なくちゃ、ものごとはよく見えないってことさ。肝心なことは、目には見えないんだよ。
私は私自身の証人である。
砂漠が美しいのは、どこかに井戸を隠しているからだよ。
人間は、自分がすでに自分の内にいだいている世界にしか気づかぬものである。
愛とは、互いに見つめ合うことではない。ふたりが同じ方向を見つめることである。
一滴の水が、どうして己を大河と知るであろうか?だが大河は流れているのだ。樹木を作る細胞の一つ一つが、どうして己を樹木と知るであろうか?だが、樹木は伸び広がっているのだ。
船を造りたかったら、人に木を集めてくるように促したり、作業や任務を割り振ることをせず、果てしなく続く広大な海を慕うことを教えよ。
人間関係以外には喜びの望みはない。
真の贅沢というものは、ただ一つしかない。それは人間関係の贅沢だ。
人は、障害に向き合った時、自らを発見する。
人類が最後にかかるのは、希望という病気である。
愛とはなによりもまず、沈黙のなかで耳を傾けることである。
君という人間は君の行為自体の中に宿っている。君の行為こそ君なのだ。もうそれ以外のところに君はない!
みんなぼくを信頼してくれているのだ。もし歩かないとしたら、ぼくはならず者だ。
機械は人間を偉大なる自然の問題から分離させないであろう。むしろさらに深刻な問題で人間を悩ませることであろう。
あれほど多くの星の中で、早朝の食事のこの香り高いひと椀を、僕らのために用意してくれる星は、ただ一つこの地球しか存在しないのだった。
君が君のバラのために失った時間こそが、君のバラをかけがえのないものにしているんだよ。
犠牲とは、お前をなにものからも切断することなく、逆にお前を富ますものだ。
労働の一部は身を養いますが、他の一部は人間を築きあげるのです。
本当の書物とは網のようなもので、言葉がその網の目の一つ一つを作っているのである。網の目がどのようにできているかは、どうでもよい。大切なのは、漁師が海の底から引き上げる生きた獲物、網の目の間に光って見えるあの銀鱗のきらめきなのである。
おとなは、だれも、はじめは子供だった。しかし、そのことを忘れずにいるおとなは、いくらもいない。
僕にあっては飛行機は自分を創り上げる手段だ。農夫が鋤(すき)を用いて田畑を耕すように、僕は飛行機を用いて自分を耕すのだ。
デザイナーが自分の作品を完璧だと思うのは、付け加えるものが何もなくなったときではない。取り去るものが何もなくなったときだ。
大地を耕す事を通じて農夫は少しずつ自然のあらゆる秘密を引き出す。その鍬によって掘り出した真実は普遍的です。
他人を裁くより自分を裁く方がずっと難しい。
家や星や砂漠や、そういったものに美しさを与えるのは、何か目に見えないものだ。
心を高揚させる勝利もあれば、堕落させる勝利もある。心を打ちひしぐ敗北もあれば、目覚めさせる敗北もある。
あなた自身を与えれば、与えた以上のものを受け取るだろう。
人にとって最も必要なことは、ついに「存在する」ことであり、存在の豊かさの内に死ぬなら、獲得とか所有とかは問題になるはずがない。
僕ら人間について、大地が万巻の書より多くを教える。理由は、大地が人間に抵抗するがためだ。
僕の命を救ったのは、他でもない。このささやかなほほ笑みだったんだ。
一度犯した失敗は今後もう起こりにくいので、この先、失敗する可能性はひとつ減ったことになる。
人間であるとは、まさに責任を持つことだ。自分には関係がないような悲惨を前にして、恥を知ることだ。
少年は生活に直面することを恐れない。嫉妬、裁判、人生の悲しさ、これらがすべて苦にならない。
不思議なことが多すぎると、それに逆らおうなんて気がしないものだ。
人間たちはもう時間がなくなりすぎて、ほんとうには、なにも知ることができないでいる。なにもかもできあがった品を、店で買う。でも友だちを売ってる店なんてないから、人間たちにはもう友だちがいない。
子どもたちは、ぼろきれのお人形に時間を費やす。だからそのお人形はとっても大事なものになる。それで、とりあげられると泣くんだね・・・