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島崎藤村

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島崎藤村(1872年-1943年)は日本の詩人、小説家。父の馬籠で新しい領地を開拓した島崎家の祖で、自然主義作家としての作品で知られている。「若菜集」「破戒」「春」「家」「新生」「夜明け前」などが代表作だ。

人間のためと言いましても、自分のすぐ隣にいる人から始めるよりほかに仕方がない。
寂しい道を歩きつづけて来たものでなければ、どうしてそれほど餓(う)え渇いたように生の歓びを迎えるということがあろう。
この世にあるもので、一つとして過ぎ去らないものは無い、せめてその中で、誠を残したい。
人が四十三歳にもなれば、この世に経験することの多くがあこがれることと失望することとで満たされているのを知らないものもまれである。
ああ、自分のようなものでも、どうかして生きたい。
生命は力なり。力は声なり。声は言葉なり。
人力の限りあるを知るのが自信だ。
ユーモアのない一日は、極めて寂しい一日である。
かつては「平和」のために軍備が拡張せられねばならぬと言われた。今は「平和」のために軍備が縮小せられねばならぬと言われる。「平和」がそれを聞いたら何と答えるだろう。
親はもとより大切である。しかし自分の道を見出すということは猶(なお)大切だ。人は各自自分の道を見出すべきだ。
今日まで自分を導いてきた力は、明日も自分を導いてくれるだろう。
皆一緒に学校を出た時分──あの頃は、何か面白そうなことが先の方でわれわれを待っているような気がした。こうしているのが、これが君、人生かね。
待ち受けた夜明けは、何もそう遠いところから白んで来るでもなく、自分の直(す)ぐ足許(あしもと)から開けて行きそうに見えた。
病のある身ほど、人の情(じょう)の真と偽とを烈しく感ずるものは無い。
人の世に三智(さんち)がある。学んで得る智、人と交わって得る智、みずからの体験によって得る智がそれである。
人生は大いなる戦場である。
明日は、明日はと言って見たところで、そんな明日はいつまで待っても来やしない。今日はまた、またたく間(ま)に通り過ぎる。過去こそ真(まこと)だ。
旧(ふる)いものを毀(こわ)そうとするのは無駄な骨折(ほねおり)だ。ほんとうに自分等が新しくなることが出来れば、旧いものは毀れている。
わきめもふらで急ぎ行く 君の行衛(ゆくえ)はいずこぞや 琴花酒(ことはなざけ)のあるものを とどまりたまえ旅人よ
すべて、徹底を願うことは、それにともなう苦痛も多い。しかしそれによって与えられる快感は何ものにも見出すことが出来ない。
ずっと年をとってからの日のために、雪が降ったから茶でも飲みにお出で下さいと言えるような、そういう老後の友達を三、四人つくって置きたい。
何とかして生きたい。
生きたくないと思ったって、生きるだけは生きなけりゃ成りません。
新しき言葉はすなわち新しき生涯なり。
弱いのは決して恥ではない。その弱さに徹しえないのが恥だ。
旅じゃ有りませんか、誰だって人間の生涯は。
文章を添削することは心を添削することだ。その人の心が添削されない限りは、その人の文章が添削されようがない。
好(よ)い笑いは、暖かい冬の陽ざしのようなものだ。誰でも親しめる。
愛の舞台に上って馬鹿らしい役割を演じるのは、いつでも男だ。
結婚するのに精神の勇気を要するならば別れるのにとっては猶更(なおさら)精神の勇気を要する。