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鈴木大拙

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鈴木大拙は、仏教学者で文学博士である。1870年11月11日(明治3年10月18日)生まれの本名貞太郎の居士号でもある大拙は、西田幾多郎や藤岡作太郎と共に日本の仏教文学を海外に広めるために、英語で禅についての著作を残した。1963年にはノーベル平和賞の候補にも挙がっていた。

日本人は別段、生の哲学は持たないかも知れぬが、確かに死の哲学は持っている。
本当の自由はこころから生まれ出る。
本というものは読まないでもいいんだ。積んでおくだけでも立派に値打ちがある。
機械的な工夫というものは、たいへん能率的で仕事がはかどることは論をまたないが、どうも機械というものは、非人間的で創造的ではなく、したがってそれ自身意味というものを持たぬものである。
やらねばならぬ、やらねばならぬ、目的に向かってやらねばならぬ。
哲学者や宗教家が何というとも、人生は苦に相違ないのである。事実をいえば、この苦があるがために、哲学も生れ、宗教も出来るのである。 この苦観は必ずしも厭世[世を厭う]の義[意味]にはならぬ。
困るときには、ただ困るだけでなく、なんとかするんだね。あとは天にまかす、「人事を尽くして天命を待つ」だね。
宗教は、人間が人間である限り有るものである。宗教は動物にはない。
意志は冷静で持続的な惰性であり、惰性は熱烈で一時的な意志だとも考えられる。
それになりきって、そのほかのことを考えない。
智は悲によってその力をもつのだということに気づかなくてはならぬ。
すべて偉大な改革者たちは、峻烈(しゅんれつ)この上ない戦いから生まれた。かれらはその戦いを勇敢に、血と涙をもって、戦い抜いたのである。
九十歳にならんとわからんこともあるんだぞ。長生きをするものだぞ。
外から(日々の生活を)眺める時には必然的に、実際に生きるという事実から遠ざかってしまう。
この節(せつ)は、人々の目を引くようなことをやらぬと、立派でないように考える人もあります。あるいは、何でも異常なことでも申さぬと偉い人になれぬと思うのです。
厭世は消極的で、奮闘は積極的である、苦なるがゆえに厭うべしともいえば、苦なるがゆえに闘うべし、努むべしともいいうる。
禅は日々の生活を生きることであって、外からそれを眺めることではない。
仕事の最中、仕事そのものにとって、評価は重要ではない。第二義の問題である。
われわれの一生というものは、なにも目を驚かして、偉い者になろうとか、なったとかいうところにあるのでなくして、日々の仕事をやることが一番です。
悲しみのパンを口にすることなくしては、あなたは真実の人生を味わうことはできない。