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寺田寅彦

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寺田寅彦は、1878年11月28日に東京市に生まれ、日本の物理学者、随筆家、俳人として知られている。彼は立命館大学で学んだ後、東京大学の物理学科を卒業した。物理学の研究と並行して、冬彦などの筆名で随筆を書いていた。研究上の業績としては、1913年に「X線の結晶透過」(ラウエ斑点の実験)についての発表などを行っている。

天災は忘れたころにやってくる。
頭のいい人には恋ができない。恋は盲目である。
私の方では年齢の事など構わないでいても、年齢の方では私を構わないでおかないだろう。
「心の窓」はいつでもできるだけ数をたくさんに、そうしてできるだけ広く開けておきたいものだ。
愛憎はよくないと言って愛憎のない世界がもしあったら、それはどんなにさびしいものかもわからない。
頭のいい人は批評家に適するが、行為の人にはなりにくい。すべての行為には危険が伴うからである。
頭のいい人には他人の仕事のあらが目につきやすい。その結果として自然に他人のする事が愚かに見え従って自分がだれよりも賢いというような錯覚に陥りやすい。そうなると自然の結果として自分の向上心にゆるみが出て、やがてその人の進歩が止まってしまう。
科学者になるには自然を恋人としなければならない。自然はやはりその恋人にのみ真心を打ち明けるものである。
きのうの出来事に関する新聞記事がほとんどうそばかりである場合もある。しかし数千年前からの言い伝えの中に貴重な真実が含まれている場合もあるであろう。
いわゆる頭のいい人は、言わば足の早い旅人のようなものである。人より先に人のまだ行かない所へ行き着くこともできる代わりに、途中の道ばたあるいはちょっとしたわき道にある肝心なものを見落とす恐れがある。
「科学者になるには『あたま』がよくなくてはいけない」これは普通世人の口にする一つの命題である。これはある意味ではほんとうだと思われる。しかし、一方でまた「科学者はあたまが悪くなくてはいけない」という命題も、ある意味ではやはりほんとうである。
雪は天からの手紙である。
自然現象の不思議には、自分自身の眼で驚異しなければならぬ。
私は猫に対して感ずるような純粋なあたたかい愛情を人間に対していだく事のできないのを残念に思う。そういう事が可能になるためには私は人間より一段高い存在になる必要があるかもしれない。
頭のいい人はいわば富士のすそ野まで来て、そこから頂上をながめただけで、それで富士の全体をのみこんで東京へ引返すという心配がある。富士はやはり登ってみなければわからない。
ばかを一ぺん通って来た利口と始めからの利口とはやはり別物かもしれない。
科学の歴史はある意味では錯覚と失策の歴史である。偉大なる迂愚者(うぐしゃ)の頭の悪い能率の悪い仕事の歴史である。
興味があるからやるというよりは、やるから興味ができる場合がどうも多いようである。
子供を教育するばかりが親の義務でなくて、子供に教育されることもまた親の義務かもしれないのである。
美術家は時に原始人に立ち返って自然を見なければならない、宗教家は赤子の心にかえらねばならない、同時に科学者は時に無学文盲の人間に立ち返って考えなければならない。
科学者は、普通の頭の悪い人よりも、もっともっと物わかりの悪いのみ込みの悪い田舎者であり朴念仁(ぼくねんじん)でなければならない。
最後の一歩というのが実はそれまでの千万歩より幾層倍むつかしいという場合が何事によらずしばしばある。
頭の悪い人には他人の仕事がたいていみんな立派に見えると同時にまたえらい人の仕事でも自分にもできそうな気がするのでおのずから自分の向上心を刺激されるということもあるのである。
けがを怖れる人は大工にはなれない。失敗をこわがる人は科学者にはなれない。科学もやはり頭の悪い命知らずの死骸の山の上に築かれた殿堂であり、血の川のほとりに咲いた花園である。
頭のいい人は見通しがきくだけに、あらゆる道筋の前途の難関が見渡される。少なくも自分でそういう気がする。そのためにややもすると前進する勇気を阻喪(そそう)しやすい。頭の悪い人は前途に霧がかかっているためにかえって楽観的である。そうして難関に出会っても存外どうにかしてそれを切り抜けて行く。どうにも抜けられない難関というのはきわめてまれだからである。
科学はやはり不思議を殺すものではなく、不思議を生み出すものである。
疑うがゆえに知り、知るがゆえに疑う。
普通にいわゆる常識的にわかりきったと思われることで、そうして、普通の意味でいわゆるあたまの悪い人にでも容易にわかったと思われるような尋常茶飯事の中に、何かしら不可解な疑点を認めそうしてその闡明(せんめい)に苦吟するということが、単なる科学教育者にはとにかく、科学的研究に従事する者にはさらにいっそう重要必須なことである。
災難は忘れた頃にやって来る。
健康な人には病気になる心配があるが、病人には回復するという楽しみがある。
頭の悪い人は、頭のいい人が考えて、はじめからだめにきまっているような試みを、一生懸命につづけている。やっと、それがだめとわかるころには、しかしたいてい何かしらだめでない他のものの糸口を取り上げている。そうしてそれは、そのはじめからだめな試みをあえてしなかった人には決して手に触れる機会のないような糸口である場合も少なくない。