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寺山修司

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日本の歌人・劇作家である寺山修司は、言葉の錬金術師、アングラ演劇四天王のひとり、昭和の啄木などの異名をとり、上記の他にもマルチに活動、膨大な量の文芸作品を発表しました。競馬への造詣も深く、競走馬の馬主になるほどであり、また昭和10年に青森県弘前市紺屋町で生まれました。

詩は書いた詩人が自分に役立てるために書くのであって、書くという体験を通して新しい世界に踏み込んでゆくために存在しているものなのだ。
人生には、答えは無数にある。しかし質問はたった一度しか出来ない。
言葉の肩をたたくことはできないし、言葉と握手することもできない。だが、言葉にも言いようのない、旧友のなつかしさがあるものである。
人生の暗い部分を見ない人間には、その深さはわからない。
なみだは人間の作るいちばん小さな海です。
大体人生相談してくるのは、相談前にもう自分で答えが決まってるのが多い。
故郷というのは、二度と帰ることの出来ないものであり、いつもさびしいものなのである。
競馬の快楽とは、運命に逆らうことだ。
人間は生まれ代わらねばならねえ。生まれ代わらねえ人間はみな赤ん坊だ!生まれ代わるためには、死なねばならねえんだ!
わたしの存在そのものが質問なのだ。その答えを知りたくて生きてるんだ。
少なくとも、薪(まき)を背負って本を読むよりは、薪を下ろして本を読む方が頭に入ります。それに、読書は人生のたのしみであって、義務ではない。山道を歩くときには、本ではなくて山道を“読む”べきです。
現代にあって戦争は政治利益の手段として、使命と役割を与えられ、貧困と飢餓にあって、戦いたくないものまで戦わさせられている。だが、ゲームの本質は、やめたいものは何時(いつ)でもやめる自由を持つことであり、義務づけられるものではないはずだ。
地上は限りない戦いのために見えない血であふれています。
明日何が起こるかわかってしまったら、明日まで生きるたのしみがなくなってしまうことだろう。
私には、忘れてしまったものが一杯ある。だが、私はそれらを「捨てて来た」のでは決してない。忘れることもまた、愛することだという気がするのである。
鏡には、墜落(ついらく)への誘惑がひそんでいる。一枚の鏡をじっと見ていると、私はその底の暗黒に吸いこまれ、墜落してゆくような目まいを覚えるからである。
人類が最後にかかる、一番重い病気は「希望」という病気である。
書物は、価値そのものでなく価値の代替物であるという点で、貨幣に似ている。
「想像力が権力を奪う」これは、美しいことばである。──パリで一ばんの詩人は、カルチェ・ラタンの壁である。
いつまでも過ぎ去った日にかかわっていると文明どころか、自分の人生にさえもとり残されてしまうことになるのである。
思いだされるような過去形の奴になるのは何とも不本懐なことではありませんか。わたしは「思いだされるような奴」になるよりは「忘れられない奴」になるべきだ、と思っています。
かつての時代にあっては、「自分にかわるべき」戦士は代議士であった。しかし、政治というジャンルは決して彼らの内部生活を救済してはくれなかった。それどころか政治は空しく彼らを裏切り、同時代人たちはスチュアート・ホルロイドではないが「政治を通さずに社会を変える」べき、べつの代理人を探さなければならなくなったのである。
権力は必然的だが、暴力は偶然的である。
どんな古道具屋でも「幸福」だけは扱っていない。その目方、長さ、値段の相場もあいまいだし、それを論証することなど不可能に近い代物(しろもの)だからである。
生が終わって死が始まるのではない。生が終われば死もまた終わってしまうのだ。
子供ってのは、とびうおみたいなもんさ。時期が来ると帰ってきて、また遠ざかってゆく。遠ざかってゆきながら、だんだん大きくなるんだ……それを待ちながら年老(としと)ってゆくのが母親だよ。
裏切りと言うことばが、刃物のようにひらめくのは、男と女とのあいだだけのことなのだ。
自由というのは、もはや、不自由の反対語ではないのである。
振り向くな、振り向くな、後ろには夢がない。
不幸な物語のあとには、かならず幸福な人生が出番を待っています。
映画館の暗闇というやつは、ときには数億光年の遠さを感じさせる。
罰する者は、つねに、自分は神の代理人だと思いこんでいるのである。
人間の体ってのは「言葉の容(い)れ物」にすぎないし、出し入れ自由である。
幸福という言葉を口にするのは、何か気恥ずかしいものがある。それは、青春前期の少年少女の用語であって、人生が始まってしまってからは、もはや口にすべきものではないと思われてきたからである。
オーダーメードの洋服が商品として通用する時代だもの。オーダーメードの思想が通用していけない訳はない。
たのしいセックスができることは、ダンスや歌がうまかったり、絵に秀(すぐ)れていたり、演技が上手だったりするのと同じようにその人の教養であり、才能でもあるべきです。
落書きというのは、堕胎された言語ではないだろうか?それは、誰に祝福されることもなく、書物世界における「家なき子」として、ときには永遠に「読まれる」ことなしに消失してしまうかもしれない運命を負っているのである。
(ボクシングという)あの、殴りながら相手を理解してゆくという悲しい暴力行為は、何者も介在できない二人だけの社会がある。あれは正しく、政治ではゆきとどかぬ部分(人生のもっとも片隅のすきま風だらけの部分)を埋めるにたる充足感だ。
ふるさとの訛(なま)りなくせし友といてモカ珈琲はかくまでにがし
どこでもいいから遠くへ行きたい。遠くへ行けるのは、天才だけだ。
思い出ということばは、科学を裏切る。人は思い出を持つことができるが、事物は思い出を持つことが出来ないからである。
悪口の中においては、つねに言われてる方が主役であり、言ってる方は脇役であるという宿命がある。
昼の「さよなら」は笑顔でできる。すぐまた逢えるような気がする。だが、一番はっきりと二人をへだてるのは昼の「さよなら」である。涙は日が沈んでからゆっくりとあふれ出る。
貞淑(ていしゅく)さを失った関係はわびしいが、貞淑をいつも必要としている関係は、もっとわびしい。私有しなければ貞淑さなど問題にならぬことなのだ。
文明社会における不道徳というのは、たった一つ、「他人を不幸にする」ということだけです。
夢の中で、夢を見たわ。「夢だと思っていたことが現実で、現実だと思っていたことが夢だった」という夢なの。
俺の心の中にゃ、ぶっこわれたジュークボックスがはいっているんだ。十円玉を入れもしないのに、ときどきひとりでミュージックが鳴りわたる。
詩人にとって、言葉は凶器になることも出来る。私は言葉をジャックナイフのようにひらめかせて、人の胸の中をぐさりと一突きするくらいは朝めし前でなければならないな、と思った。
どんな鳥も想像力より高く飛べる鳥はいない。人間に与えられた能力のなかで、一番素晴らしいものは想像力である。
時には、言葉は思い出にすぎない。だが、ときには言葉は世界全部の重さと釣合うこともあるだろう。そして、そんな言葉こそが「名言」ということになるのである。
にんげんは、中途半端な死体として生まれてきて、一生かかって完全な死体になるんだ。
寝ている言葉を起こさないと詩は始まらないのである。
この世には生と死があるのではなく、死ともう一つの死があるのだ。
賭博する男たちはみなそれぞれに人生その日その日を生きている。とりわけ、競馬のような「時の賭博」にあってはいまの一瞬を、過去の深い淵(ふち)に落っことしてしまうかあすの方へ積みあげてゆくかが人生のわかれ目になるという訳だ。
いまの時代では、まさに善なるものは、かなしい。
美しさのまえで人は自分を偽(いつわ)らざるを得なくなり、いつのまにか自分が自分でない自分になってしまう。
どんな詩も、閉じられた書物の中では死んでいる。
鳥は生まれるためには、卵のカラをこわさなきゃならないんだわ。卵のカラはお父さんよ。
人生は、どうせ一幕のお芝居なんだから。あたしは、その中でできるだけいい役を演じたいの。
一つ一つを大げさに考えすぎず、しかし一つ一つを粗末にしすぎないことです。
「ふるさと」などは、所詮(しょせん)は家出少年の定期入れの中の一枚の風景写真に過ぎないのさ。それは、絶えず飢餓の想像力によって補完されているからこそ、充(み)ち足りた緑色をしているのだ。
「名言」などは、所詮、シャツでも着るように軽く着こなしては脱ぎ捨てていく、といった態のものだ。
賭博には、人生では決して味わえぬ敗北の味がある。
勝負の世界で、何より大きな武器は「不幸」ということである。これは「何が何でも勝たねばならぬ」というエネルギーを生み出す力になる。
女はだれでも、運の悪い女は美しくないということを知っているし、男はだれでも必然性からの脱出をもくろんでいる。
だれも他人の死の重さをはかることは出来ないのだ。
旅は出会いである。人は出会いの偶然をもとめて汽車に乗る。
「おまえを育て、かわいがってきたのはこのわたしであっておまえの恋人ではない」という母親だったら、なおさら捨てなくてはいけません。
猫……青ひげ公の八人目の妻猫……財産のない快楽主義者猫……毛深い怠け娼婦猫……このスパイは よく舐(な)める
「出会い」はいつでも残酷である。しあわせに見える出会いの瞬間も、まさに「別離(わかれ)のはじまり」であると思えば、むなしいものだ。
真実は最後の勝利者だと人は言う。だがそれは真実ではないのだよ。
望郷の歌をうたうことができるのは、故郷を捨てた者だけである。そして、母情をうたうこともまた、同じではないでしょうか?
鉛筆で、見知らぬ人物を、「書くことによって呼び出す」ことも一つの快感だが、その呼び出された人物を、「消すことによって、追い返す」こともまた、べつの快感である。
だれもいない無人島であなたと二人っきりで暮らしたい毎日海で泳ぎ裸足(はだし)で恋を語りあい鳥のように歌いながら
ほんとうは、名台詞(せりふ)などというものは生み出すものではなくて、探し出すものなのである。
自分の家というのはつねに一代のものであり、それは西部の草原に愛する妻と二人で小舎(こや)を立ててはじめてゆくような「創生」の歓びに充ちたものだと思っています。
親の愛情、とりわけ母親の愛情というものはいつもかなしい。いつもかなしいというのは、それがつねに「片恋(かたおもい)」だからです。
言葉は薬でなければならない。さまざまの心の痛手(いたで)を癒すための薬に。
すべてのインテリは、東芝扇風機のプロペラのようだ。まわっているけど、前進しない。
ぼくは世界の涯(は)てが自分自身の夢のなかにしかないことを知っていたのだ
子供というのは「もの」ではなくて「事件」であるということが重要なんです。
書物や叙事詩に意味を与えてゆく思想というものは、きわめて時間的なものであり、たとえば草の上に開いてある書物に、雲の翳(かげ)がゆっくりと過ぎてゆくようなものである。
人が死ぬときには、それぞれにふさわしい死の曲というのがある。自分に似合った曲をききながら息を引きとることができれば、この上ない幸福だと思うべきだろう。
卑怯者ってのはね、きみが何をしたか、ってことで決まるんじゃなくて、きみが何を後悔してるかってことで決まるんだよ。
親にとって、子が一人立ちできるようになった日からはもう子は自分のものではないのだ……ということを知る必要があるのです。
社会には「第三者」などというものは存在しないのだ。それにもかかわらず、自分の顔見知りでない人間を「第三者」だと思いこむことは、想像力の欠如である。そして、「第三者」を生みだす負の想像力こそ、現代の政治と犯罪の残忍さの母胎(ぼたい)となるものだ。
旅行案内書の中の時刻表や名所旧跡の解説が、すぐれた「旅の詩集」であるように、マッチ箱の中や、机の抽出(ひきだ)し、壜詰(びんづめ)の中もまた、旅行者にとっては「異邦」であったりする。
言葉を友人に持ちたいと思うことがある。それは、旅路の途中でじぶんがたった一人だと言うことに気がついたときにである。
どうか、あなたの人生で、あたしの(人生の)台本をよごさないで。
故郷というものは「捨てる」ときにはじめて、意味を持ってくるという性質のものらしい。だから一生故郷を捨てないものには「故郷」が存在としては感じがたい。
朝の「さよなら」は舌に残った煙草(たばこ)の味だ。シーツの皺(しわ)。モーニング・コーヒーのカップに沈んだ砂糖。そしてなんとなく名残(なご)り惜しく、そのくせすこしばかりの自己嫌悪がともなう。
相手を傷つけずに相手を愛することなどできる訳がない。勿論(もちろん)、愛さずに傷つけることだってできる訳がないのである。
いかなる時と雖(いえど)も、ぼくは「不運」と地獄とを峻別(しゅんべつ)して考えていたが、これは不運は在(あ)るものだが地獄は成(な)るものだからである。
「自由の最後の敵は何だと思うね?」「やっぱり、銃だろう」「ちがう」「では何だ?」「記憶と記録である」
「名言」は、言葉の年齢とは関係ない。それは決して、年老いた言葉を大切にせよということではなく、むしろその逆である。老いた言葉は、言葉の祝祭から遠ざかってゆくが、不逞(ふてい)の新しい言葉には、英雄さながらのような、現実を変革する可能性がはらまれている。
人間の思慮分別は、はかないものです。風にそよぐ葦(あし)のようなものです。
お芝居と同じように、人生にも上手な人と下手な人がいるのよ。
競馬ファンは馬券を買わない。財布の底をはたいて「自分」を買っているのである。
一本の樹は歴史ではなくて思い出である
私たちは、書物をまえに孤立し、意味を分有し、内面化し、代理現実(記述された現実)とかかわることによって、身体的現実から遠ざかってゆくことになってしまう、ということをしばしば忘れている。