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ヴォーヴナルグ

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ヴォーヴナルグ侯爵リュック・ド・クラピエ(1715年8月6日 - 1747年5月28日)は、フランスのモラリスト。南フランス出身の貧しい貴族の家に生まれ、18歳で軍隊に入り少尉となる。ポーランド継承戦争やオーストリア継承戦争などで戦った後、1745年にパリに定住し、友人ヴォルテールらの支援により文学の研究を開始した。その研究を通じて彼は病苦と人間の知性、孤独などを掘り下げ語り続けた。

生まれつき確固たるものを持ち、反省によって柔軟になるのはよいことである。
本当に自信のある人間は泰然として、人が彼をどのように評価するかなどということにはあまり気をとられないものである。
我々に秘密がありすぎるのも、また、なさすぎるのも精神の弱い証拠である。
心は魂の眼であって、力の本源ではない。
ある人物からまったく尊敬されていないと感じ取った人は、その人物に憎しみに近い感情をいだく。
勇気は逆境における光である。
理性は、本性よりもしばしば我々を欺く。
もろもろの偉大な思想は心から来る。
希望は賢者を活気づけ、自惚れの強い人や呑気者を釣り込む。自惚れの強い人や呑気者は、希望の与える約束を軽々しく信頼しきってしまう。
すでに女たちから関心を持たれなくなった男は品行を改めるものである。
羞恥心のあることが、女にとって必要な一つの掟と言われているのはおかしい。男は女のあつかましさしか尊重しないというのに。
人間が人間性を無視するのは、人間の理性の誤りである。
貧者(ひんじゃ)の物惜しみしないのは浪費と称される。
己自身を愛することは、理性や正義に反することなのだろうが、なぜ、自愛がつねに悪なのだろうか。
高慢は弱者の慰めの手段である。
熱烈な野心は、早くも若き日から遊びや愉しみを追い払って、己のみを支配する。
悪人は善人のずる賢さに気づいていつも驚く。
理性には心情の気持ちがわからない。
友人や近親にどのような愛情を持っていても、他人の幸せだけで我々が幸せを覚えることはない。
何事にも耐え忍べる者は、何事も思い切ってできる。
革新を施すのにあまりに困難な場合には、革新が必要でないという証拠である。
我々の最も確かな保護者は我々の才能である。
簡単な言葉で言い表せないほど薄弱な思想は、捨て去って良い証拠である。
怠情は心の眠りだ。
商売はごまかしの学校だ。
何を知らないかではなく、何を知っているかで、人を判断しなければならぬ。
財産をつくっても、それを愉しむことができなければ無駄である。
人生に結末がなかったとしたならば、誰が自己の運命に絶望するであろうか。死は悲運をこの上なく辛いものにする。
人を讃美すると、しばしばその人を損ねる。というのは、讃美にはその人の真価に限界があることが示されるからである。
大成功はおぼつかないと分かった時になって、人は大風呂敷を軽蔑する。
老人の忠告は冬の太陽のようなものだ。光を与えるが暖めはしない。
良心・名誉・貞潔・愛・尊敬といったものは金力で得られる。したがって、恵むことを惜しまなければ富の利益は倍加する。
申し分のない振り子とは、動きの速い振り子のことではなく、良く調整されている振り子のことだ。
証明のいる箴言は、表現の下手な箴言である。
我々は不幸な人々を叱責する。それは、不幸な人々を憐憫せずにすますためである。
栄えると友人がほとんどできない。
偉大な考えは心からやって来る。
我々は、我々自身を冷笑しないために、多くのものを冷笑する。
人が多くの理性とわずかばかりの英知を持つことはない。
勇気の最高段階は、危険に際しての大胆さである。
賭博・信仰・才気は、すでに若くない女にとっての三大武器である。
嘘つきは欺く術を知らない人であり、へつらう人間は一般に愚かな人々を欺く人である。
独創は天才の唯一のあかしである。
政治の一番大きな努力が、あれほど多くの人々の平和を犠牲にして何人かの幸福な人々を作るのであるならば、政治というものは喜ぶべきものだろうか。
平和が来ると、国民は幸福になり、人々は柔弱(にゅうじゃく)になる。
「信仰」は悲惨な人たちには慰めであり、幸運な人たちにとっては恐怖の的である。
女も凡庸な作家も、自画自賛するほどには世間から賞賛されない。
貧困は、気高い心を堕落させることはできないし、富は、卑しい心を高めることはできない。
我々が平和の名によって重んじているものは、実は短い休戦にすぎない。それによって弱い側は、正しい主張であれ、不正な主張であれ、とにかくその主張をあきらめる。武力によってその主張を生かす機会が来るまでは。
偉大なる思想は胃袋から生まれる。
箴言は書き手の心を暴露する。
心変わりせぬことは、恋愛の妄想である。
人は大きな計画を軽蔑する。その計画を成功させることが自分にはできないと感じるときには。
怠け者はいつも何かをしたがっている。
少年は最初、自由に向かってため息をつく。
人間は本来、他人をだましながらだまされるように生まれついている。
自分がある人から尊敬されるだけのものを有していないと感じるとき、人間はすでにその人を憎みかけている。
忍耐は希望を持つための技術である。
怠情は、おだやかな無力から生まれるものである。
運命の悲しみと歓びとは、自然の声に黙す。
英雄の光栄とするところは、飢饉と悲惨を外国人の間にもたらすことではなく、それらのものを国家のために忍ぶことである。つまり、死を与えることではなく、死を軽んずる事である。
人類の間に秩序が支配しているのは、理性と徳がいちばん強いものであるという証拠である。
我々は自国の伝説を軽蔑するのに、子供たちには古代の伝説を教える。
つねに控え目に褒めることは、凡人たる大きな証である。
老年においては、名声と富とがかろうじて才能と快楽との代わりをする。
怨恨は愛情に劣らず浮気である。
よい格言は陳腐なものになりがちである。というのは、それらはことわざに転化するからである。
魂の最も高度な完成は、人を楽しませることができるということにある。
大半の者は心の底では徳を軽蔑しているが、栄光を軽蔑する者は少ない。
偉人たちが偉大なことを企てるのは、それが偉大なことだからである。しかるに、馬鹿者たちが偉大なことを企てるのは、それを容易だと思い込むからである。
死の観念は我々を欺く。それは、我々に生きることを忘れさせるからである。
愚者ほど自分が才人をだますのに適していると思い込む。
施しは、相手の不幸を苦しむことだ。まるで苦しむ責任があるかのように。
己の誠実さを我々に買わせる人たちは通常、己の名誉を我々に売る連中である。
哲学は、ある種の人々が大衆を馬鹿にするために、いまなお装う古い流行である。
時間の価値を知らない者は、生まれながらに栄光には向いていない。
平等が自然の法則であることは間違いである。自然は何一つ平等なものを作っていない。自然の法則は服従と隷属である。
人は多くを約束する、少しも与えないために。
弱者は保護されようと欲して従属する。人間を怖れる人々が法律を愛する理由は、ここにある。
最も笑うべき、最も向こう見ずな希望が、時として異常な成功の因(もと)であった。
ヒロイズムは虚栄と相容れない。また、それと同じ原因と結果を持たない。虚栄が大きければ、それだけ栄光の愛は小さい。
格言は哲学者たちの機知のほとばしりである。
我々が最もよく知っていることとは、皮肉なことに、我々が今までに全く教えてもらったことのないことである。
誤りをはっきり誤りと言ってのければ、どんな誤りも、おのずから誤りでなくなるであろう。
この世で一番重い物体は、もう愛していない女の体である。
貧困は我々の欲求を強めるが、また、それを満たすのを制限する。富裕は我々の欲求を増やすが、また、それを満たす手助けもしてくれる。
人間が互いに害し合おうと内心考えをめぐらしながらも、相互依存し合うことを余儀なくされているなどは、大きな見ものである。
我々は人から尊敬される価値がある、という自信がもっとあったならば、人々の尊敬を得ようという野心をそんなに持たないだろう。