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バートランド・ラッセル

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バートランド・アーサー・ウィリアム・ラッセル(英:Bertrand Arthur William Russell, 3rd Earl Russell, OM, FRS)は、イギリスの哲学者、論理学者、数学者であり、社会批評家、政治活動家の貴族である。1950年にノーベル文学賞を受賞している。ラッセルはグラハム・ヘーゲリアンにより影響を受け形而上学から経験論者に転向。形而上学の考えは、諸方面からの概念によって示された自然の理であるというものであり、ラッセルの考えはこれに反するものとなった。ラッセルは、自然の理を積極的に提供しようとはしないと述べている。'

ファシズムが展開するもととなった精神的体系の創始者たちは、すべてある共通の特徴を持っている。厳しさというものを、徳を得るための自己陶冶(とうや)とは見ず、他人に対する支配権を獲得するための手段と見るのであって、幸福を彼岸に追いやってしまうのである。
道徳を云々するものにとっては、退屈こそひとつの重要な問題である。というのは、人類の罪悪の少なくとも半分は、退屈を恐れるあまりおかされるものであるから。
現実の人生というのは、大抵の人にとっては、実に長い次善の人生である。つまり、理想や可能性との永遠の妥協である。
因襲にぜんぜん屈服しない男女から成り立つ社会のほうが、みんなが画一的になるような社会よりも面白い社会であろう。
純粋数学者は音楽家と同じように、整えられた美しさを持つ独自の世界を自由に作り出す創作家である。
権威に対する抵抗それ自体にすでに価値があるのだとか、普通でない意見は当然正しいはずであるなどと考えたがるのは、非常に危険である。街灯に石を投げたり、シェイクスピアは詩人でない、と主張したりしても、有益な目的にはまだ何の役にも立たないのである。
諸君が自分自身に対して関心を持っているのと同じように、他人が諸君に関心を持っているとは期待するな。
極端な希望は極端な悲惨から生まれる。
数学の美しさは、我々の天性の最も弱い部分に訴えることはなく、絵画や音楽のキラキラするような外形も持たない。だが、最高の芸術だけが我々に示すことのできるような、高い純粋性と厳密な完成度を持った美しさである。
もし平和が名誉をもって維持され得ないならば、そのような平和はいかなる平和でもない。
他人と比較してものを考える習慣は、致命的な習慣である。
家族の真の喜びは、子供たちに尊敬されると同時に子供を尊敬し、必要なだけの訓練は施すけれども、決して程度を越えないことを知っている両親たちのみに与えられる。そのような両親たちは、子供が独立を要求する時のあの恐ろしい紛争を知らずにすませるであろう。
有閑階級なしでは、人類は野蛮状態から脱却することはなかったであろう。
ファシズムが展開するもととなった精神的体系の創始者たちは、すべてある共通の特徴を持っている。彼らは、議論よりも暴力を、平和よりも戦争を、民主主義よりも貴族政治を、科学的客観性よりも宣伝を優位におく。
社会主義は宗教とは何の関係もない。それは経済理論であって、いかなるキリスト教徒、いかなる回教徒、仏教徒あるいはバラモンの帰依者も、何らの論理的矛盾なしに社会主義者たりうるのである。
飲酒は一時的な自殺である。飲酒がもたらす幸福は単に、消極的なものや不幸の一時的な中絶にすぎない。
個人的な幸福のための努力を放棄し、一時的な欲望に対する熱意のすべてを追放し、永遠なものに対する情熱に燃えること。
私たちは知りすぎている一方で、感じなさすぎる。ついには、人生の大切な源泉である創造的な感動を感じなくなるのだ。
結婚のロマンチックな幸福をあきらめると、結婚は幸福なものになる。
権力の不平等のあるところでは、いずこにおいても、自尊心は、他人の支配に屈服している人間の間では見当たりそうもない。
良心をもって残酷の苦患を加えることが、道徳主義者には一つの喜びなのだ。これこそ彼らが「地獄」を発明した理由だ。
人はみな、自分の幸福を望んでいる。しかし、文明の技術の上で一つとなった今日の世界では、他人の幸福を望む気持ちが一つにならない限り、自分の幸福を望んでも無駄である。
大学は職業のための訓練学校になりつつある。それは〈教養〉といったことにまったく無関心の金権主義者たちによって要請されているからである。
ファシズムが展開するもととなった精神的体系の創始者たちは、すべてある共通の特徴を持っている。彼らは感情や認識の中にではなく、意志の中に善を求め、幸福よりも権力を高く評価する。
突飛な意見を持つことを恐れるな。今日認められている意見は皆、かつては突飛だったのだ。
理性的な人間なら、自分が絶対に正しいなどとむやみに信じたりはしないだろう。私たちは常に、自分の意見にある程度の疑いをまじえなければいけない。
素晴らしい人生とは、愛に鼓舞され、知識に導かれた人生だ。
静かな生活が偉大な人々の特徴である。偉大な事業は、粘り強い仕事なしに達成されるものではない。
行いの悪い者に腹を立てるのは時間の無駄である。動かない車に怒るのと同じようなものだから。
あなたが欲しいもののいくつかをなしで済ませることが、幸せになるには不可欠である。
人間、関心を寄せるものが多ければ多いほど、ますます幸福になるチャンスが多くなる
知識を身につける機会があれば、たとえ不完全なものでも無視してはいけない。無視するのは、劇場に行って芝居を見ないのと同じだ。
結婚生活は、双方がそこから多くの幸せを得ることを期待しなければ、幸福と呼べる可能性が高くなる。
人間は「自分の死後に、何が起ころうとしているのか」に思いをはせることが大事である。
政府がちょっと手を貸せば、どんなに馬鹿げたことでも大多数の国民が信じるようになる。
最上のタイプの愛情は、相互に生命を与え合うものだ
最悪の可能性を時間をかけてじっくりと見つめ、本当に確信を持って、「いやはや、結局、そんなにたいしたことではないのだ」と自分に言ってみると、あなたはその心配がほとんど消え去っていることを発見するだろう。
世論に対して関心を示さないのは、まさに一つの力であり、幸福の源泉である。
人生の目的については、今までよりはるかに大きな聡明さがどうしても必要とされるようになってきた。しかし、この気狂い沙汰ともいうべき時代にあって、どこにそのようなすぐれた知識が見いだされるであろうか。
恋愛のために出世をすべて犠牲にするのは、痛ましくも英雄的である場合もあるが、愚行であろう。だが、出世のために恋愛をすべて犠牲にすることも同じく愚行で、けっして英雄的ではない。
ある民族を故意に卑しめる者は、その民族が誤れる民族になった場合、その責めを負わなければならない。
本当に心を満足させる幸福は、私たちのさまざまな能力を精いっぱいに行使することから、また私たちの生きている世界が充分に完成することから生まれるものである。
戦争は誰が正しいかを決めるのではない。誰が生き残るかを決めるのだ。
私は、世界中があまりにも働きすぎ、労働それ自体がすでに立派であり美徳であるという信念が非常に大きな害を引き起こしているので、近代的工業国家に対して、これまで説いてきたのとは全く違ったことを説く必要があるのではないかと思う。
どんなことも、これでいいと思ってはいけない
純粋数学は恒久的で狂いのない真理と、また感覚を超えた理知の世界が存在することへの確信の、主たる源泉である。
幸福になる秘訣をお教えしよう。できるだけいろいろなものに興味を持ち、物ごとであれ人間であれ興味を感じるものを無視せず、できるだけ好意的に接することだ。
愛を怖れることは生命を怖れることだ。そして生命を怖れる者はすでに、四分の三、死んでいるのと変わらない。
不幸な人間は、いつも自分が不幸であるということを自慢しているものです。
余暇がたくさんあっても、人間がかなりの程度、分別を持って楽しく何かに専心することを心得ていないと、すぐにうんざりしてしまいかねない。
たいていの人は頭を働かせるくらいなら死んだ方がましだと思っている。そればかりか、彼らは実際にそうする。
愛情を受け取る人間は、一般的にいえば、愛情を与える人である。
賢人は、妨げうる不幸を座視することはしない一方、避けられない不幸に時間と感情を浪費することもしないだろう。
本を読む動機は二つある。一つは楽しむため、もう一つは自慢するため。
道徳律はつねに変化している。
成功の暁、その成功をもってどうするかということを人間が教えられて来なかったとすれば、成功の達成も、つまるところは、その人間を退屈の餌食にするより他はないものである。
将来の戦争は勝利に終わるのではなく、相互の全滅に終わる。
あなたの得意なこと、それが幸福をもたらしてくれる。
愛国心とは喜んで人を殺し、つまらぬことのために死ぬことだ。
自責の念を致命的に傷つけられた人は、もはや精神的に健全な、分別のある人間のような考え方はしなくなる。
一貫して変わらぬ目的が具体的に実現されるのは、主として仕事によってである。
自分で自分の価値を過大評価しないように。
不幸なことだが、過重な負担を負わされた教師にとって、子供たちへの本能的な好意を保持することはほとんど不可能であり、次第に、菓子屋の小僧はお菓子にうんざり、という格言と同じことを感じるようになるのは避けがたいであろう。
もしこの世で、もう誰も一日に四時間以上働くことを強制されなくなるとすれば、知的好奇心を持った者は、誰でも自分の学問的趣向に従うことができるであろうし、どんな画家も、その絵がそれだけの良いものであれば、飢え死にしないで絵が描ける(=絵を描いて暮らせる)であろう。
自分の意見と違う意見に腹を立てず、そういう意見が出た理由を理解しようとする術を学ぶことが大事である。
人間は半ば社会的な動物であり、半ば孤独な動物である。
戦争──それはつまるところ無益な殺し合いだ。「よい戦争」とか「悪い平和」なんてものはない。あるのはただ「悪い戦争」と「よい平和」だけだ。
父親の生物学的機能は、子供をその無力のあいだに保護することである。この生物学的機能が国家に継承されるならば、父親はその存在事由を失う。
ある民族がたくさんの余暇を持って幸福な気持ちになりうるには、その民族に教養がなければならない。しかも、精神的な楽しみという観点からも、直接役に立つ技術的な知識という観点からも教育されていなければならない。
浪費するのを楽しんだ時間は、浪費された時間ではない。
アメリカでは、人間はみな平等だから、社会的に自分より上の人はいないと誰もが思っている。ところが、自分よりも劣る者はいないという点に関しては、誰も認めようとはしない。
我々にとって最も不愉快な人種は、相手を見境なく分類して、分かり切ったレッテルを貼る人々である。
幸福の秘訣はこういうことだ。あなたの幸せをできるかぎり幅広く探せ。
人々は彼らの感情にふさわしい信仰を抱く傾向がある。残忍な人々は残酷な神を信じ、そして彼らの残忍さを弁明するためにその信仰を利用する。ただ、親切な人は親切な神を信じ、彼らはどんな場合にも親切であるだろう。
よい結婚はしたほうがよく、悪い結婚はしないほうがよい。
愛というものは、地中深くにしっかりと根を張り、天にも届かんばかりの大きな枝を張った大樹になるべきものである。
優柔不断ほど疲れることはない。そして、これほど大きなエネルギーの無駄もない。
人間が教育・陶冶(とうや)の文化的要素を自分のものにすることができれば、それが彼らの思考と意欲の生活を形作り、少なくとも部分的には、自分自身に直接重要な事柄にだけでなく、個人を越えた大きな目標に専心する誘因となるのである。
知的に閑暇を満たし得ることは、文明の至上の産物である。
不幸な人間を見つけるのは容易だ。いつも自分が不幸であるということを自慢している。
世界の災いの一つは、何か特定のことを独断的に信ずる習慣である。
何か不運に見舞われそうになったら、起こり得る最悪の事態について真剣に、慎重に考えてみよう。この起こり得る最悪の事態をしっかり見据えたら、それも結局大した災難ではないと思うための理由を考えてみよう。その理由は必ずあるものだ。
一貫して変わらぬ目的を持つということは、必ずしも人生を幸福にするとはいえないが、このような目的を持つことは、幸福な人生のためには不可欠な条件の一つであることは間違いない。
人間は物を信じやすい。信じる物を持たないではいられない。信じるべき良い理由が無ければ悪い理由でも満足する。
幸福な人とは、客観的な生き方をし、自由な愛情と広い興味を持っている人である。
今日(こんにち)世界の問題の根本原因となっているのは、愚か者が自信満々である一方、識者は疑念しか持てなくなっていることだ。
幸福になろうとするなら、自分を捨てて他人の幸福を願うことだ。
民主主義はしばしば嫉(ねた)みによって成立する。
私たちが愛する人々の幸福を願うのは当然である。だが、自分たちの幸福を棄ててまで、これを願うべきではない。
生活のための闘争と言っているものは、正直なところ、成功のための闘争にほかならない。
男性は女性よりも筋骨たくましいという以外に、男性が女性よりも生来(せいらい)優れていると考えられる理由など全くないと、私はつくづく思っている。
よい生活は、恐怖や束縛やお互いの自由に対する干渉の上に築くことはできない。
知性には、活発な好奇心が必要とされる。しかし、それは特定の種類のものでなければならない。
科学は既に知っていること。哲学は未知のこと。
牢獄は肉体の自由を奪うことはできるが、精神の自由までは奪えない。
自分に起こるどんなことも、宇宙から見ればまったく取るに足らないことだ。
酩酊(めいてい)は一時的な自殺である。
科学がなければ、愛は無力である。愛がなければ、科学は破壊的である。
教育なるものは、真理への願望を培(つちか)うべきものであって、ある特定の信条が真理であるといった確信を涵養(かんよう)すべきものではない。
アメリカにおいては、人々を判断するには、彼らの生活程度から推定される収入の多寡によるのが早道である。